千葉市今昔

渡辺(神保) 公子、 伊藤 三平

神保さんが自分の興味から、昔からの千葉市の地図を、ほぼ同じ縮尺にした。地図は明治20年(1887年)、昭和7年(1932年)、昭和49年(1974年)に平成21年(2009年)である。

神保さんも暇だが、この地図を見せてもらった伊藤も暇にまかせて加工してみた。千葉市の今昔である。

明治20年の地図にある行政は、千葉町の他は、海沿いに北から黒砂村、登戸村、寒川村である。黒砂は砂が黒かったのであろう。

内陸部では、北に作草部村、高品村、邊田村、矢作村、千葉寺村だ。当時は千葉町とは別の集落だ。

この分布を見ていると、千葉市は、海=浜系の集落(登戸神社、稲毛浅間神社)と、内陸の千葉町(千葉神社)と、さらに外周の村落に別れている感じである。
熊野君から千葉の方言も浜言葉と中央の方では若干違うとも聞いたことがある。

1.登戸の今昔

さて登戸村である。ここは地図を比較する前に、葛飾北斎の浮世絵2枚を紹介する。絵の美術的な視点での価値は高くない、つまらない絵だと思うが、一枚は「富嶽三十六景シリーズ」の「登戸浦」、もう一枚は「千絵の海シリーズ」の「下総登戸」である。(北斎の富嶽三十六景の中でも赤富士、黒富士やグレートウェーブの美術的価値は別格なのだ)

富嶽三十六景「登戸浦」浦上美術館所蔵 千絵の海「下総登戸」千葉市制80年記念誌より

左の「登戸浦」は陸の方から東京の方角、すなわち富士山の方を観た絵である。手前の海の中の鳥居は稲毛浅間神社の鳥居であると登戸の住人高橋純一君に教わった。埋め立て前、この鳥居は確かに海の中にあったそうで、現在も14号線上り車線の左脇に昔と同様に残っているとのことだ。

白い富士山は遠くに見える。人が海に入っているから季節は春、名産の蛤を採っているのだろう。それにしては冬のような富士山だが、浮世絵はこの程度のアバウトさは気にしない。

右の「下総登戸」は海の方から陸地=「登戸の津」の風景である。こちらの方の右に白い土蔵2軒を持った青い屋根の家、これが高橋君のご先祖の家「真砂屋」との伝承があるのだ。当時は舟運が盛んであり、江戸への廻船もあったのであろう。

高橋君に聞くと、このような海沿いにあった為に、都合7回の高潮(台風、津波)に遭い、家財を失い、この家をあきらめ、高台にある現在の生家に移ったとのこと。当時は、宿屋から船の手配など、手広く商いをし、佐倉藩の御用も勤めたとの伝承もあるようだ。

いずれの浮世絵も、海や、砂浜に出ている人物を描いている。貝を採っている様子が、この地域の風景だったというわけだ。名産千葉の焼き蛤につながっている風景だ。

さて下の地図が、明治20年の登戸村と、現在(2009年)である。海がなくなっている。要は美浜区に住んでいる同期は、蛤のいた海の中に住んでいるわけだ。もっとも私(伊藤)は市川砂州の上だから、同じようなものだが、はかないものを感じる。大地震が来たらどうなるのだろうか。
明治20年の登戸村の海岸線はまっすぐで、北斎の絵と違うが、北斎は潮が退いた砂浜を描いたわけであるが、海岸線は浮世絵師らしく適当である。

神保さんも北斎の適当さにはおかんむりである。
「あの海岸線は、明治どころか昭和の地図でも変わっていないはず。
私たちの小学生時代(附一小・今の文化会館のあたりにありました)には、春の学校行事として、学校から歩いて出洲海岸に潮干狩りに行くのが恒例でした。アサリがたくさんとれて、まれにハマグリを見つけると大喜びしたものです。つまり、昭和30年代まで(国道14号線ができるまで)は、ずっと、あの海岸線は変わっていなかったはずです。
同期には、潮干狩りや海水浴の思い出を持っている方がたくさんいらっしゃることでしょう。」

いずれにしても、この海岸は本当に遠浅の海を持っていたわけだ。

明治20年(1887年) 平成21年(2009年)

2.千葉市の中央部

明治20年(1887年) 昭和7年(1932年) 昭和49年(1974年) 平成21年(2009年)

地図の下に都川が流れている。明治20年に人家があった地区(黒が濃いところ)は、熊野君などがいる中央区中央だけである。あとは登戸村への街道沿いに人家が散在しているだけである。
地図真ん中の最上部に大きな池がある。これが今の弁天の千葉公園の池なのだ。あの池は昔からあったのだと感激している。

昭和7年の地図で興味深いのは、京成千葉駅の位置。今の千葉駅から三井ガーデンホテルに向かう大通りが電車道で、三井ガーデンホテルの前の中央公園あたりが駅だったわけだ。高橋君が言うには京成電車は土手の上を走っていたとのこと。そしてこの土手では小さい時に土筆(つくし)を採って遊んでいたそうだ。

交通網の変遷が、これら4枚の地図では興味深い。神保さんも次のようにコメントしている。

「交通網でいえば、鉄道の駅の位置の変化が町の変化に強く関わっていることがよくわかります。
旧国鉄千葉駅(去年の同期会で上映されましたね)は、今の東千葉駅よりやや千葉駅寄りにありました。

旧本千葉駅は、今の京成千葉中央駅の位置です。高校時代、本千葉駅を利用していた同期の方も多いと思いますが、昭和7年の地図にある本千葉駅とは場所が違います。

京成千葉駅が今の中央公園の位置から旧本千葉駅の位置に移ったのは、小学校低学年の頃だったように思うのですが、はっきり憶えていません。「京成千葉」駅は、現在は、JR千葉のすぐ隣の駅名ですが、私たちの高校時代は「国鉄千葉駅前」駅ではなかったでしょうか。それが「千葉中央」駅に変わり、その後、「千葉」駅と「千葉中央」駅が入れ替わって現在に至ったと思います。

現在のJR千葉駅の位置は、昔、「きかんこ」と呼んで、ターンテーブルなどがあって機関車の車庫だった記憶があり、漢字では「機関庫」と書くのだろうと思いますが、広辞苑第6版にはそんな言葉が載っていませんね。死語なのでしょうか?それとも記憶違いなのでしょうか?(注.高橋君もこのようなことを記憶している)」

国鉄の向こう側(地図の上部)は人家はあまり見えない。松波などは本当に松林だったのでしょう。

昭和49年の地図は、我々が高校を出て5年後だ。現在と大きくは変化していない。

鉄道の路線を見ていると、今の千葉駅の場所に駅を移設をしたのは何となく自然な感じで、千葉の発展に良かったという気はしている。

平成21年の地図では、モノレールの線が出来ているが、この地図では鮮明ではない。


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