千葉高講堂ー文化祭のアンサンブルの思い出ー

A君

はじめに

 

 高校1年生になりたての春。15歳ではじめて通った葛城の丘には、正門がある北側に一本、白っぽくてゴツゴツとしたセメント敷きの急な坂道があった。途中で真ん中辺りからやや左手にカーブし、凹凸があるその急坂を自転車や徒歩で毎朝登りきると、頂上は真っ平らで、そこに母校のクラシックな建築群と、それが取り囲む広い運動場があった。
そして、そこには1300人もの生徒の潜む、独特な静かな空気に包まれた別世界があらわれる。

 今は遙か30年もの以前となったが、昭和40年代はじめまで、建築群の外観にあった創立時の意匠的な面影は、同45年頃より百周年事業として再建を進めたという新たな校舎によって、すっかり消え失せているそうだ。
 鉄筋の規格材を使った四階建ての、日本中どこででも見かける、単なる箱形の校舍になってしまっているらしい。

 だからもし往時の生徒が、少年少女であった日々を回想し、いにしえの学び舎に臨みたければ、薄らいだ記憶像を掘り起こすしかない。

 

1、門から講堂までの外観

  

 学校へのカーブ坂を登ると、四角くて目の粗い石組み製の正門が現われる。そして一対の太い門柱を潜り入れば、その正面には校舎なりにぐるりと沿うらしい通路が、外庭を兼ねて玄関付近を取り巻いていた。
 雨水が庭土を流してしまわぬよう、通路は樹木の根まわりを除き、セメント畳になっていたはず。足もとは今登ってきた、滑り止め突起のきいた急坂より、よほど滑らかになる。

 そこに立ち止まり、記憶の中を見回してみる。この位置は、昭和40年度学科試験の一次合格者番号、約460人分を貼りだした掲示板のそばでもあるのだ。果たして自分の受験番号があるか、坂を登り、ここへ見に来た覚えがあるはず。その発表はついこの間、春3月はじめの平日の朝にあったばかり。

 と、左手の奥を占めるかのように、校舎とは独立して、白っぽい外観の大きな建物が見える。その外壁に一定間隔の装飾を兼ねた凸起物がある建築で、意匠は時代がかり、背中に力こぶの浮いたタイタン(巨人)がうずくまっているかのようで、迫る量感をもっている。
 方位でいうと千葉港を背にする向きだから東側にあたる。ここが、学校が行う重要な式典に欠かせない講堂(昭和2年落成〜平成12年現存)である。

 その講堂の際まで外庭を行くあいだ、左手には、独立した二階建ての校内図書館と、そして桜の木立が4、5本ほどならんだ図書館とその芝庭がある。芝庭の隅に、赤レンガ製の飛び石が敷いてあったはず。
 その辺りから右手を見上げれば、一つづきに各教室の連なった二階建てのクラシックな瓦屋根つき校舎と、相向かい合える。そして二階建ての校舎の東外れにあたる末端の裾からは、申し訳のように講堂まで、素朴で粗末な雨天用の渡り廊下が伸びているのが見えるはずだ。
 横壁のない、単に屋根付き渡り廊下が外庭を横切り、セメント敷きの通路をさえぎっている。ただしそこに敷いてある渡り板の一部が通り抜け用に開けてあり、常に講堂際から校舎裏手の運動場へと抜けられるようにしてある。

 風雨の日、講堂での行事に向かう全校の生徒1300名は、新入生から3年生まで、木造の暗い校舎内のどこかを経めぐってから、この雨天用の渡り廊下口までたどり着き、講堂にはいる。というのも校舎群が中庭を囲い込む配置になっているので、遠回りしないと講堂へは行けないのだ。
 クラシックな木造建築は、配置にどうやら何度かの継ぎ足し感があり、やたらと廊下に段差があった。しかし、ともかくも傘をさして露天の庭を歩かなくてもいいようになっていた。

 

2、露天の楽奏隊

  

 1年生になったのは昭和40年春であるが、その年のいつごろのことであったろうか。
 第五交響曲の演奏が突然中断し、場内が大笑いしてしまうという喜劇で終わったあのコンサートのことは、その場限りのこととして、もう誰の口にものぼらない。
 しかし普段忘れているが、なにかで講堂へ近づく時があるとボクは、あの一瞬を思い出す。出だしの失敗のことではない。なんとも言えない間合いでホルンが鳴った瞬間の、空気の揺らいだ崩れぶりを思い返すのだ。

 記憶にある、あの日は雨降りじゃなかった。
 講堂と校舎との間の晴れた青空に、金管や木管を鳴らすプォープォーという練習音が盛んに響いていた。
 それに誘われて講堂へ近づくと、弦楽器の唸るようなゴーゴーという低い響きも、打楽器の打ち込み音と重なりながら聞こえてきた。
 朝に近い午前だったと思う。本来なら教室で授業を受けているはずの時刻である。だが辺りの外気には、普段の日にはない、自然と心の騒ぐお祭り気分があるのだった。
 そう、だんだんはっきり思い出せてきた。

 講堂の正面には、幹が太い銀杏の立ち木も何本かあった。
 そうだ、銀杏の裸枝はまだ芽ぐみかけの若葉のみだったから、あの日は入学して以来、はじめて経験する春の文化祭だったのだ。五月だったのではないか。

 日が浅い新入生はまだお客様然としており、校内各所での催物と、そこを仕切っている先輩のようすを見物に回っていた。それがすなわち、まだ慣れ切っていない、この丘の上の高校を理解する助けにつながるからだ。

 午前中に(たしか11時頃)講堂わきの露天に出てきた音楽クラブ員が、男女小編成のブラスバンドによるデモンストレーション演奏をやった。これは明らかに予告目的であり、午後の部に講堂の舞台でやるというオーケストラ演奏への客寄せだった。
 が、小さなブラスバンド隊は、聞きやすい軽やかな曲を小気味よく吹いた。「士官候補生」「ボギー大佐のマーチ」等だ。楽器から飛び出てくる活き活きした生の音楽にひかれ、ずいぶんな人だかりがした。市民の一般客も、ここの生徒の半数ぐらいは混じっていた。してみれば、これは休日のことだったのだろうか?

 新入生のボクもそこにいて聞き惚れていた。まだ新たな親しい友人が校内にできていなかったように思う。ほかの新入生もそうだっただろう。手持ち無沙汰にひとりひとりで文化祭の催物会場を見て回っていたのだ。

 最初、数の少なかった聞き手は、露天で始まった演奏を扇型に取り囲んでいた。また同じく楽隊も、ひとりの男子学生(指揮者)の前に、その指揮ぶりがよく見えるようにと、やや離れて扇型に立っていた。
 新たに寄ってきた人は、どこで聞こうかとブラスバンドのまわりを歩き回ってみる。すると耳に入って来る演奏のはずみ方は、立体的であり、位置により意外なほどに生じている強弱差やあれこれ合わさる音色で異なり、また各々の楽器音の特徴でもかなり印象が変化するということがわかる。そのうちにどこか一箇所で立ち止まり、自分の気に入った方向から聞けるのである。それが露天演奏の良さだった。

 ただし、講堂と校舎との間の通路が無制限に広い学校ではなかったから、人が集まってくるにつれて聴衆の間はどんどん狭まり、身動きが取りずらくなっていたくらいだ。

 

3、少年指揮者

   

 四、五曲も聞きおえた。盛んな拍手を受けているブラスバンドの生徒が、男女とも誇らしげな表情を興奮で隠しきれないでいるのが分かった。バンド員のお互いがチラリと目だけを交わしあい、今の成功を満足げに確かめあっている。それだけの溌剌さがある好演奏だったのだ。
 ふたりに一つぐらいの割りで立ててあった譜面台に、白いパート譜面が陽光で輝り、目に鮮やかでもあった。

 すると、拍手が鳴り止まないうち、指揮役をしていた男子生徒が見たことのある仕草を両手で示した。オーケストラ演奏のあとでよく本物の指揮者が、弾き終えた団員に向かい、首席バイオリン奏者をはじめとする全員の努力にサアと手をかざし、椅子から立ち上がるよう促す、あの独特な仕草なのだった。学生服姿なのに、それがいかにも堂に入っている。その仕草でブラスバンドの面々の身を、聴衆から一段と高くなった拍手の音へと向き直らせ、何度か軽くお辞儀をさせた。

 やや面長、白皙の顔立ちで、見かけは中肉中背の少年指揮者だった。気むずかしいらしく噛んだ唇を引き結んでいる。満足してはいないらしい彼自身の表情は、まァまァの出来だったかも知れんな、という程度の思いしか現していないのだ。にこりともせぬまま彼は、楽隊員の動きとは別にひとり、腰へ両手を当て銀杏の高い梢をじっと眺め上げた。
梢はまだ裸に近い尖りかたである。少年のとったその姿勢にうかがえる気魄は、ちょっと普通人離れしているように見えた。

 当時、帝王と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンが、指揮棒を両手で胸元へ握りしめて目を瞑っている黒いスエーター姿の肖像写真は有名だった。止みたての演奏を聞き澄ましている瞬間のモノクローム写真で、レコードのジャケットにまで使われていた。

 むろんこっちの少年の顔は東洋人特有のものだが、ややカラヤンのあの雰囲気がある。将来、本物の指揮者になりたいのかも知れないな。好きだから演奏などやっているのだろうが、指揮者志望じみた少年は、高校生時代すでにこういう態度をもこなすものなのか、とボクは感心して見入った。
学生服のこすれ方からするとこの春に3年生になったのだろう。この印象で、彼の顔は、ボクがこの高校に入って初めて見覚える上級生となった。若い頃のべートーヴェンを凄く痩せさせてもこんな顔になるのかと思ったことも記しておく。

 

4、コンサートへの誘い

   

 「ご静聴ありがとうございました。ここで皆さんにお願いがありまーす」
 ピッコロ奏者の女子が、聴衆へよくとおる滑らかな声で言った。
学校制服の肩にある、きちんとした三つ編み髪が、その手の楽器ピッコロの半分よりも長い。おそらく音楽クラブの広報係を兼ねた生徒なんだろう。
 「今日、このとなりの講堂の舞台で、私たち音楽クラブのオーケストラ・コンサートを開きます。入場は午後一時より、開演は一時半ちょうどです。今お聞かせした音楽よりすばらしいものになると思います。もちろん無料ですから、ぜひぜひ大勢でご来場ください。お待ちしていまーす」

 これでわかった、講堂内からさかんに聞こえていた器楽音は、本番当日の前練習だったのだ。
 校内のあちこちに、そのクラシック・コンサートの案内チラシが置いてあった。美術部の生徒が図案に手を貸したようなチラシで、シャガールの石版画を模したものだ。

 昼を食べてから午後一時過ぎに行くと、ブロンズ色の浮き彫りがある重たげな講堂の正面扉にも、プログラム入りのポスターが貼ってあった。
 その中に、べートーヴェン作曲「交響曲第五番運命・第一楽章」と太々しくあったのを覚えている。
 高校生がまたすごい大曲を選んだもんだな、と改めて思ったのだ。

 

5、昭和40年頃の音楽流行と母校

  

 特別にクラシック音楽のファンではなかったが、当時は廉価盤のステレオ、またはモノラル録音源にステレオ的な技術効果を加えたLPレコードが、千円以下で店頭に出初めていた。
 本場のオーケストラと指揮者の組合わせによる「運命/田園」とか「英雄/悲愴」とか「新世界/未完成」交響曲等の、購入意欲をそそるような抱き合せで入っていたので、ボクも何枚かは持っていた。
 下校の際に遠回りをしては模型店やレコード店に目的もなく、立ち寄り、貧弱なこづかい銭の範囲で青春らしい模索をしてゆくのが日常のことだった。そんなことをしながら、自分の興味を魅くものと、段々と出会っていく年頃だったのである。

 一方、この当時、すでにビートルズの詞やボブ・ディランの演奏スタイルを真似た、和製フォークソングの流行が、下は中学生にまで広まっていた。
 我が家では、おとなしかった2つ年下の妹が急に、「イエロー・サブマリン」という奇妙な効果音を出すLPレコードを一枚、同年の友達から借りてきたのがビートルズの初上陸だった。
 しかし葛城の丘の上では、昭和40年の春の文化祭にその手の音は聞こえなかった。

 昭和43年卒同期会のホーム・ページで、「落書き帳」の欄を見ると、K君が当時の体験をこうぼやいている。「ギターを弾いて歌うことが不良視されていたというのは、まさに時代と母高の雰囲気を反映しています」と。
 母校は、時代よりも更に頭が固かったのだろう。彼は友人と二人でフォークソング同好会をつくろうとして校内の抵抗に遭ったらしい。

 

6、コンサート会場の講堂

  

 どんな聴衆が集まってくるか知れない文化祭の場で、交響曲第五番などという個性的な難曲をも混ぜて、やっつけてしまおうと企てた、天を衝くような生徒たちのその意気込みは生意気なのだが、同年代としてはよく分かる、と思いながら講堂に入った。

 すでに講堂内は多くの人々が詰めつつあった。式典の時に出してくる折り畳み椅子だけではなく、後列には木製の長椅子も並べてあったと思う。太股が乗る辺りにカーブをつけて、無着色のラワン材をただ打ち付けてあるだけの、学校らしい簡素な長椅子だ。

 なお講堂の正面口にある、浮き彫りのついたブロンズ色の大扉は、観音開き式で、二枚が合わさって閉じる位置に、雨水が流れ込まぬよう床から出した高い敷居の段差があった。講堂内を眺めながらそれをまたいだ記憶がある。だが、ちがっているかも知れない。まだこの講堂は現存しているそうだが当時のままなのだろうか、一度見たいものだ。そして、この重い正面とびらは、定刻の演奏開始前に閉じられてしまったはずである。

 各椅子には、生徒の母親たちの着物すがたが目立っていた。講堂内への採光方法や、天井の照明等をまるきり覚えていないが、座った母親たちの着物の、いろいろな模様が、闇に浮いた花のように、あちこちでうごめいていた覚えがある。おそらくその多くが、今年の新入生の母親だったのだろう。お互いが挨拶でも交わしていたのだろうか。うす紫に近い藤色の袖口がひとつ、ボクの近くにあったのが特に、ぽつんと記憶にある。

 聴衆席側は暗かったのかも知れない。しかし舞台上では30人ばかりの楽員がオーケストラの広がりをなして照明を浴び、各自が調律音を発していた。立ってやっているのはコントラバスと後列のティンパニだ。あとは全員座ったまま、吹いたり、弾いたり、ツマミを締めてみたり、あご当てをずらし直したり、リードに詰まった唾を振ったりして気を集中している。聴衆席のざわめきが気になっている楽員はひとりもいないようだ。あんなに溢れている音の洪水中で、自身の楽器音を聴き取れるのだろうか?

 

7、コンサート開始直前の舞台

  

 旋律のちょっとした断片を試しに鳴らす楽器音が、奥行きをもってふくらみ、それぞれが宙で合わさり、次々に舞台から聴衆席へと降ってくるのは、本物のオーケストラにじかに接しているのと、同じだと感じさせ、興奮をもよおさせる臨場感だった。
 調律中の楽音のなかには、明らかにアッあの曲の序奏の一部だ、と分かった数小節もある。あるいは気紛れに鳴らされたとしか思えない、ゆらぎ出たような一節もある。
 一度クラリネットの娘が、緊張ほぐしにか、ジャズらしいおどけた一旋律をさらりと短く吹いてみたのも分かった。それに、ヴィオラのパートにいる奏者のうち一人は、ボクと同じ中学から今春入った娘で、もうその実力を音楽クラブに認められたのか、もの慣れた顔で弓を操作している。とにかく、30人もの生徒各々が、調律に精を出している姿は珍しく、ちょっとした見ものだった。

 定刻の一時半ちょっと前、午前の外庭で見た指揮者のあの生徒が、ゆっくりと舞台の右袖の黒い垂れ幕から歩き出てきた。真っ直ぐ真下へ伸ばした腕の先に握っているこぶしが白い。黒い学生服のままである。詰め襟に赤っぽく見えるのは二個の組合わせバッヂの片側だろう。購買部の売店で、所属学年とクラス名とを別々に「3」「E」等と選んで買うネジどめのやつだ。こちらに横向きの姿を見せたまま舞台中央の、小さな指揮台へと近づいた。

 館内放送で、あらためて彼が指揮者だと紹介があったわけではない。だが不思議なことに、彼からそれを感じただけで、聴衆席では何かがサッと伝播し合い、一瞬ののちには、咳こむ音までが静まり返った。いや、その後ですぐに、我れ先のように起きた拍手とうって変わったのだ。

 ボクも拍手をしながら、もう一度この上級生を眺め直してみた。背丈は中背よりもむしろ低くて、小柄に見えた。たれかかる額髪を、指で無造作に掻き上げる癖があるらしい。今はどうやら、午前中よりも少し緊張し、神経質そうに見える。
 ちょうど彼がその癖を出しながら、指揮台の脇に立ち止まり、こちらに背中を見せるや、両の手の平を天に向け、腕を身体の両脇から離して上げ、楽員へ広げる仕草をした。それがオーケストラの全員を一斉に椅子から起立させた。聴衆席で、思わずホオッとばかり溜め息がもれ、打ち続く拍手はさらに高まった。

 団員は、誉れがましい顔をし、持てるほどの楽器を皆が手にしている。艶のあるヴァイオリンやヴィオラの茶色いニス色や、もっと焦げ茶っぽいコントラバスや、ファゴットの赤紫色っぽい筒型の胴が、少ない舞台照明に映え、きらきらと輝り美しい。
 あの楽器たちが、生徒の個人所有のものでなく、学校の公共物だとしたら、普段はきっと楽器ケースにしまわれており、ここに3年間しか在学しない我々生徒より、ずっと大切に保管されているんだろうな、などと思った。

その時、楽員の顔が、一度にほころぶように笑んだ。ここから背中しか見えない、指揮者の少年が、たぶん故意にだろう、何らかの表情を楽員へ送ったせいだ。今のオーケストラ団員皆の気持ちを、しっかりとらえている、自信たっぷりの落ち着きぶりを備えた少年ではないか。舞台の生徒たちの笑みは、手の楽器群よりも輝いて見えたほどだ。

 

8、葛城の丘にフィルハーモニー響く

  

 演奏は、モーツァルト作曲の歌劇「フィガロの結婚」序曲から入った。早い旋律の流れが、ぐるぐる回る渦巻きからのように、次々と新たに放たれて来る。4分間ばかりのこの曲を、彼の指揮棒は軽くさばいているように見えた。
棒を振っている手は右利きだ。空いているような左腕は、次に出る、パート奏者へのきっかけを振り付けるさまや、素早くスコアをめくる動作が板についている。この曲の性格を隅々までよく知って、楽員の出を率いている落ち着きぶりだった。

 生徒だけである楽員たちも、かなりな弾き巧者のようだ。時々誰かがひょいと何かの音を一つ外したりする、そのご愛嬌を除けば、聴衆をハラハラさせることもない。
 それと、全楽器が重なるユニゾン部では奏音が、濁み声のような、割れに近い音になってしまうのが耳につくぐらいである。でもこれは、元々が演奏向きではない作りらしい、狭い講堂内の固い壁と、天井や壁にある、凸起との間に生じる残響の乱反射なのかも知れなかった。大して気になるほどの障害ではない。

 自然と聴衆に身を揺すらせる、テンポの速い、小気味の良いフィガロの締めくくりに雷鳴のような拍手が応じた。この時に場内の聞き手は皆、ただの文化祭的な無責任なおつき合いの集合状態から、生徒の演奏に、心躍る期待感を持った聴衆に変わっていたのだと思う。その一人であるボクも、正直そう思った。
 指揮をするあの上級生の、徹底した落ち着きぶりに従う楽員たちの、お手並みが揃った技を聴き、ウーン、高校生の楽団だからって馬鹿にできないぞ、意外にやれるもんじゃないか、と二の腕にまで鳥肌が立ってしまいながらゾクゾクとした。興奮させられたと言っていい。後できけば、定期演奏会をするぐらいで、実力があるのだ。

 

9、指揮ぶりと演奏音

  

 聴衆側へは背中しか見せていない彼の、計算し尽くしてあるような、それでいて無心な様子で指揮する立ち姿は、嫌みが無く、抜群に印象的なのだ。
その印象からは、音楽を離れた日常の学校生活ではどんな風に見える生徒なのだろうか、きっと他の生徒とは違っているものがあるはずだ、と想像を掻き立てて、刺激するものがあった。
 午前の演奏で感じた印象とは違う、何かを持っている少年なのだろう。

 フィガロの終了の後、彼はほとんど間をおかずに指揮棒を顔の横に立てて構えた。それで、鳴り続く大拍手がすっと消えた。

 このコンサートは全部で4曲である。舞台脇のプログラム札が、次へとめくられ、現れたのはワルツの曲名だった。演奏テンポがゆるければゆるやかなほど、ヨーロッパの古き良き時代に燕尾服の紳士が、着飾った淑女を伴っている夜会舞踏の姿を思い浮かべ易いウィンナワルツから、典型曲を2つ選んであった。フィガロの序曲から急緩を一転させようという、この設定の狙いもうまい。

 ワルツの一つ目は「酒・女・唄」だった。この曲名を知らなくても、日本では、いつかラジオなどで聞いたことがある旋律だなと思い出せるほどポピュラーな曲だ。チラシには2曲とも、ワルツ王と呼ばれたヨハン・シュトラウスの作曲者名がある。もちろん最初のウィンナワルツは、聴衆からの大満足な拍手を受けた。

 二つ目に演奏したワルツは更に有名だ。耳に懐かしくて、時代の雰囲気が大きくたゆたうような感のある「美しく青きドナウ」。悠々としたドナウの河流というよりも、数々のシャンデリアの煌めく大ホールで舞踏を繰り広げる、人々の群れを俯瞰するがごとく、高みへ高みへと昇りつめて行く感じで終わったとき、ぴょんと立ち上がって大きく口笛を吹き鳴らした生徒も数人いたほどである。

 指揮者の生徒と思われる名前を呼び、「いいぞ、最高だ! あとでアンコール!」とか「ブラヴォー、ブラヴォー!」と連呼する声もした。
 歓声を含む拍手は、それにつられたように一層親しげに打たれ、なかなか鳴り止まなかった。ボクは、アンコール曲を揃えてあるんだろうな、と余計なことも思った。

 他人事ながらボクは後日、何度も思ったものだ、もし、あそこでコンサートが終わっていたならば……と。
 今でも何かの拍子に無意識にそう考えていることがある程だ。そしたら、30年以上も過ぎた後で、こんなものを書く機会もなかったのではないか。

 

10、フィナーレ曲に入る前の再調律

  

 いよいよ次は、締めくくりとなる交響曲の番だった。
 新たにめくられた舞台脇のプログラムには、当時の習字教師の手で書かれたものなのか、「運命」とある部分が墨痕太く、雄渾な筆致で書かれていた。

 あの指揮者はここで、楽員にしばし再調律の時間を許した。どの楽器の鳴らした音程を元に、まわりの者が合わせ直しているのだか確認はできなかった。が、舞台では管弦楽器がそれぞれに、短い小節らしきものを奏しはじめ、次第にそれらの音程が膨らみ、一つのように合した響きの溢れ出てくる中で、各楽員の身じろぐ様がよく見て取れた。
 皆、伏し目がちに楽譜のどこかを見詰めながら、全身と耳を傾け、自分の鳴らす楽器の波長を聞こうとする身振りだった。ヴァイオリンの一女生徒などは、張り増したらしい弦を指で弾きすらしているようだった。そのピッチカート音は、聴衆席では聴きとれなかった。

 今までの曲目で出番の少なかった楽器や、あるいは同じ楽器の重なっている数が多いと、にわかに目につきだしたのもこの時だ。この次の演奏曲に、独特な性格づけを果たすのはファゴット、ティンパニ、ホルン、トロンボーン、コントラバスなどの活躍である。特に照明の反射で金色に輝っている大型ホルンときたら、朝顔型のラッパの先が、奏者本人の頭上にまでも捲き上がっているほどに大きいのだ。

 

11、フィナーレ曲は第五番「運命」の第1楽章

  

 そこで改めてオーケストラ全体を眺め直してみると、第五番のシンフォニーがいかに大がかりなものかであるかが解る。ざっと見て、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ピッコロ、大型のファゴット、ホルン2、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、それに弦が5パートほどか。だから楽員30人はいる。
 この曲を聞かせるためにこれだけの人数が舞台に広がっているのだ。天井から舞台両脇に黒いたれ幕があり、その幕をひききっても、この人数では舞台ぎりぎり一杯に見えた。そう広い講堂ではなかったのか?

 モーツァルトまでの、均整のとれた古典的な旋律美を持つ、おだやかな室内型シンフォニーの優美さを、一気に、分散音の続く巨大な建築の集合体に積み直してしまったのが、べートーヴェンだ。大酒飲みで、耳疾もちで、奇麗な女と見れば曲を捧げたりして矢鱈に惚れっぽいが、一方、ブツブツと口の中で言う銭勘定のひとりごとをも、よっしゃとばかり曲想にとり入れて弦楽四重奏曲にしてしまう、変な作曲家だった。

 なぜべートーヴェンの重たい第五番なんかを、あえて選んであるのだろう。演奏するのに8分ほどしかからないから、といってもその第一楽章は、あの作曲家が一つに凝固させた結晶核みたいなもので、求心的に過ぎる硬質な面がある。たかが高校の文化祭のアトラクションだ、これ以上気張ることないじゃないか、プライドのせいでもっと出来るところを見せたいのか? 聞いていて決して楽しくなるような曲じゃないのに、と急にボクは、同世代のこの挑戦を若すぎるための見栄っ張りだろうなと、ぼんやり考えていた。

 あの第一楽章は、しつこいくらいに一つの主題音を繰り返しながらそれを変奏してゆく。そのうち、求心力が有るあまり、騒音なみに耳を粗々しく刺し、脳まで刺激し、ついには吐く息をも苦痛にさせる想念の産物だと思う。いわば、何故こんな物騒でしかも緊張感にみちた、律動音的なものを作っちゃったのか、人間の創造力って不可思議だなと思わせる程、人迷惑な部類の曲なのだ、第五交響曲は。

 当時ボクが聞いていた、この曲のレコード盤は、ものすごくテンポの速いイタリア人の指揮者アルトゥール・トスカニーニのものと、もう一枚は、比較的おだやかな音色を好むといわれていたブルーノ・ワルターの指揮したもの。世界的な名演の録音盤といわれる両者のものですら、聴けば、こうである。

 しかし一方では、もし高校生がこの第一楽章に挑むと、例の、扉をたたきにくるという運命の出だし音が、どんな風な響きになるものなのか、じかに聞けるのが楽しみでもあった。ボクはオーケストラの演奏を、レコード盤やラジオ放送でこそ知ってはいたが、生で聞くのは今日これが初めてなのだ。

 一、二歳上級でしかない高校の生徒が一団となって創り出したここまでの若々しい音楽を喜び、感激さえしていた。で、もしかしたら、プロの巨匠達には既にない、はつらつとした別の運命音が鳴り出すのかも知れない、とかすかに期待さえしていた。

 

12、「運命」が鳴り出た瞬間の乱れ

  

 さて、やがて再度の調律を終えた楽器音が止み、一斉に楽員の身じろぎが消え果てた。聴衆席も、楽員のその緊張に染まったごとく、同時に静まりかえる。着物姿のご婦人が、背筋を立て直した途端に、絹帯がこすれ、シュッと衣ずれがしてきしむ音すら大きめに聞こえたほどだった。

 そんななかで指揮者が、その両手を胸で合わせるようにし、背中の見える背を前へ縮めた、と思った途端、その構えられた指揮棒が顔の脇から離れた。
 出の第一拍めが振り降ろされたのだ。楽員の腕や上体も激しく動いて応じた。

 全音で鳴り出たのは、指揮棒の動きにやや遅れ、秒の単位では計れぬような、かすかな差でもって各楽器がばらけ出ながら追う、奏音の一カタマリだった。どうしたのか、何かの楽器が出しなの呼吸と合わなかったらしい。
 耳に残って、「ダダダッダーン、ダダダッダーン」と強く印象づける、二連続する出だしの音のズレ。これは何度も何度も練習した末の失敗に違いない。きっと何人かの楽員が入れ込みすぎ、つい指揮棒を見損ねた結果なのかも知れない。

 一瞬の半分ぐらいの間、どの楽器がどうなったのか、聴いている耳には解らなかった。曲が走り出す冒頭で、まるでレコード盤の回転を、手で軽く押さえてしまったようなゆがみ音が交じっていた。あるいはレコードプレイヤーを回す電圧が、急に落ちた際に聴けるような、スローモーション化して音律がゆるんでしまう流れ、となった。

 運命交響曲の冒頭を、よく聞いた経験の無い人にも、明らかに今、オーケストラに何かの異常がおこったか、と聞き取れたことだろう。
 が、とっさに各楽員は、これ一回こっきりしかない本番の、この大失策の出発から、どうやら咳き込むエンジンにフル・アクセルを利かせるみたいにして、立ち直りかけていった。これに続く動機導入への応答音が、風に揺らぐ水面のように、旋律を生んで動き始める演奏部へ、指揮者を追って入ってゆけるのが聞こえた。この学校の先輩たちは、凄いファイトを持っているもんだ、とボクは思った。

 第五番にあってはならない、運命音の乱れを引き摺ったまま、一人一人の奏者が踏ん張り、ひいては全オーケストラが走り出したのだ。
 指揮棒は宙に弧線をひき、まだ振られている。

 

13、出の失敗からの回復努力

  

 指揮者が、さっきの曲「美しき青きドナウ」よりも、大きく両腕を使い、今の失敗を何とか帳消しにしようとして、スコア(総譜)に現れる著しい曲想とテンポの変化を、早め早めに楽員へ指示する動きが観て取れた。その彼の指す手と、各自のパート譜との間に、目を素早く往復させつつ楽員たちは必死に食らいついて行っている。
 それでもまだ演奏の流れは一体化せず、どこかが、おかしかった。指揮者と楽員とが、時として一つの小舟に乗り切れなくなるような感じのままでいる、と言ったらいいだろうか。たぶん、彼らの演奏から、目に見えぬ余裕がなくなったのである。

 聴衆席にもその雰囲気は敏感に伝わり、「あれっ、どうなってしまうのかしら」という思惑から聞き手たちも顔がそれぞれ緊張した。聞く人々の肩があちこちで揺れたのでそうだと解った。自然に、音へ敏感に反応したのだと思う。

 「最初からやり直します」と、もしこのとき指揮者が言えば、会場の誰もが受け入れただろう。だからといって、動き出しているものを彼は、一度でも停めるわけにゆかなかった。楽員が必死になり頑張っている。

 この第1楽章は、主題の展開がはじまると、力学的に激しく高低に揺れ動く波濤のようで、しかも、緩急の変化幅の大きな連続性を保っている。一瞬の休みと思った静寂が、次に奏音の雪崩現象となって、幾重もにこだまする凄まじい展開境に入る。いつ果てるとも知れない、という印象に圧迫されるのだ。

 べートーヴェンは、簡素でしかない四音だけからなる運命の動機音(モチーフ)を、ここでは、砲門を万ともつ軍隊の総攻撃みたいにして使っている。人の身を音で揺さぶるごときこういう展開は、彼が初めて書いたのだ。

 少年指揮者と、その楽員たちは、音をいじりまわす化身に憑かれたような作曲者が繰り出してくる、恐ろしい波状攻撃を、かろうじて支えているように見えた。彼らの楽器のたてる音色が、悲鳴のように聞こえた。楽員たちが追い詰められている。
 講堂内の聴衆に今は、その演奏のハラハラ感がはっきり伝わってくる。
 時に一つ二つの楽器音が譜を外れたり、浮わついたりして、この楽曲の持つ、落とし穴のような折れ曲がり目では特にヒヤッとさせられる。べートーヴェンは気まぐれで過酷な要求を発明した音楽の絶対君主だ。
 彼の第五番を選んだ生徒達の、その気概が、逆に今、舞台上の少年達へ復讐をしかけているようにも、ボクには思えた。

 

14、集中力に限界が生じるとき

  

 集中力というものは、できれば毎日欠かさない訓練によって、引っ張れば引っ張るほど時間も強さも、伸びるものだ。ピアニストなどは、信じられないような強靱な指さばきを獲得し、その連続的で壮麗なテクニックにより協奏曲の迫力を、一台のピアノだけでオーケストラと競い、互角にやりとりすることも出来る。
 しかし、おのずと人間能力に持続限界がある。いつ迄も弾き続けられるものではない。やがて集中力が途切れるときが来る。鍵盤への指のタッチが、精妙さと正確さを失い、かすかに乱れ気味となり、弾き手の顔は自力で制御しきれなくなった指に対し、ある悩ましさを浮かべはじめる。

 脳波の疲労だ。直前まで保っていた新鮮さを、その目が失いかかる。本人以外の第三者には、演奏音に、かすかな荒っぽさの如きものが交じり出たか、と聞きなせる。
 それとほぼ同じ現象だろう。今、先輩たちのみせた、克己的な回復努力ですすめられていった音楽の流れの修正上に、その分岐点の兆しがあらわれた。マラソンランナーの見せる、均整がとれた美しいピッチ走法に、ぎくしゃく感がまじり出す瞬間に似ている。

 モーツァルトの「フィガロの結婚」序曲だけでも、あれを何気なさそうに楽しく聞かせるには、相当な緊張とエネルギーがいるだろう。また「美しく青きドナウ」の、儚い大舞踏の円舞群を、聞き手の想像力に俯瞰させるのにも、細心の奏法がいったはず。
 そうしてやはり、運命の出の、最初のつまずきが団員の心の中に、打ち消し切れない揺らぎを残していたのだと思う。新入生の親や、後輩たち、そして親しい友もいる聴衆の面前での失態、それがよけいに先輩たちを消耗させたのだろうか。

 

15、若さというものが持つ楽天性

  

 ただし、若い肉体が演奏している。だから、しまったとばかり落ち込んでしまうショックが降りかかる以前に、おそらく、それを防御する楽天性の働きかけがあったようだ。楽員の客観的な、自己採点の目の働きと言いかえてもいい。

 (ヒャーッ! ついに本番で、出をとちっちゃったかァ、それも一番かっこいいはずのベートーヴェンなのに。ああ、こんな経験は君のこれからの一生でもさ、きっと忘れられないものだろうな?)と言うようにだ。

 不謹慎とはちがう一種ホッとするのにも似た安堵感、そして誰へ恥じるともない照れ臭さとが一瞬、楽員の胸で偶然にも湧いたのではないか。しかめようとする顔つきに無理があるのを見ると、そう思えるのだった。
 かすかに何かを可笑しがっている。むしろ猛練習を積んだ生真面目な生徒が、ここまで縛っていた緊張の圧迫から解放されたかして、その奇妙な崩壊感を喜ぶ逆心理が兆したのへ気分を任せたのかも知れない。

  最初のそれは聴衆席から見ていても解らなかった。しかしいつのまにか舞台に生まれ、現われていた。やや筋肉の解けた顔つきへの変化が、こう言っているようだった。
 「プッ、噴き出してしまいそう、気をつけていないと。何だかおなかの裏側が凄くくすぐったくなったみたいだ。肝臓の下あたりかな、じりじり歯がゆくって、だのにクスクスしそうに可笑しいな。こそばゆいおなかから力がぬけて息がつぎずらいや」
 そうやって、口を開かぬ独り言をつぶやくような表情が、この大変な修羅場であってすら、一方で楽員へ滲み出てきたのだ。どうやらそれも、一人だけがくすぐったかったのではない。すでに聴衆へも伝わっていたか? かすかな気配であっても禁断の忍び笑いは周りへと伝播する。

 その思いが、スコアと指揮棒を代わる代わる睨む楽員の目に、そしてまだコンサートの成功を信じたい心に、あるいは周りの出している妙な奏音を聞き澄ます耳に、段々とおかしみのタネとなって溜まっていったのだろう。身内が忍び笑いで震え、それが手に伝って一人一人の演奏音に不確かさが増していったのだ。彼ら一人一人はきっとそれに気づいていたはずだ。練習の際にだってこんなヘンテコリンで不揃いな音色になったことはないのに、と……。

 邪推で失礼だが、これは本人達に直接聞けるようなことではなかったから、そのあたりはこの後で起こったアクシデントからも、逆に要因を想像するしかなかったのだ。
 でも、たしかにアクシデント発生の直前には、四音で奏でられる運命のモチーフ音が、作曲者の諧謔的な笑いで充ちる第3楽章(スケルツォ)みたいに揺らいでいた。

 

16、ホルン響き出る

  

 第五番の雄々しい第1楽章は、ある程度まで演奏が進むと、スコアに指定されたある金管楽器が鳴り響き出て、この曲が、ぐらりと傾ぐように停まり、いわば大いなる場面転換をくわだてる瞬間がくる。輝く大ホルンの吹く、高らかで雄壮な旋律の出である。

 ひたすらここまで耐えてつないできた曲想の、息づまる流れを、新たな世界へと向け変えるのだ。べートーヴェンの意志力の素晴らしさはここにある。であるから、ここの大ホルンの響きは、これまで構築され高まってきている音楽の緊張性を一手に引き受けつつ、それを一瞬で透明に溶かしきり、さらに聴衆を、ホルンの豊かな音色の中へと解放してやれるだけの優しさと強さが要るはずだ。

 レコードの演奏でここを聞くと、実際にどうなるか? べートーヴェン特有の連続した凄まじい変奏に魅き入られたおかげで、前のめり気味になっていた身が、思わずホルンの音で抱き起こされたように、後ろへと反りかえるのである。同時に条件反射でボクの身などは勝手に背筋の伸びをし、鼻で深々と新たな冷たい空気を吸引する。開いたボクの鼻の穴が、流れ込むその空気にうまさを感じる位なのだ。それは自身が、この交響曲によって、普段の世界では似た経験もないほどの姿勢に凝り固まらされていたせいだ、と気づく。ここはそんな音楽だ。

 では、先輩たちの演奏で、何が起こったのか?

 出だしのような失敗はなかったといえる。ホルン奏者は、指揮者の身振りがそちらへ向く一瞬を身構えて待っていた。譜面の指定どおり、吹奏するそのタイミングを外さなかった。
 聴衆席からは、奏者の身をトグロで捲く金色の大ホルンが重たげに立っているのが見えた。そして確かに、大ホルンは五線譜上の音符通りに鳴った。けど、それは何故か、大いに暢気すぎる場違いの響きに聞こえたのだ。

 言ってみれば、腹が空ききって必死な目をした痩せ牛たちの、耳の側を吹き過ぎる牧場の涼風みたいに、とぼけた感じだった。この時ボクの頭に、ポッカリと絵で浮かんだ餓死寸前の痩せ牛とは、ホルン奏者以外の楽員たちだったのかも知れない。
 のんびりとした大ホルンの響きが、印象づけられているその間、周囲で全ての楽器はスコアの指定どおりに一時停まり、オーケストラは静まっていた。スコアの上でこのホルン演奏はごく短い。しかし、この時のホルン音は永いほどにも聞こえた。

 

17、爆笑起こる講堂内のアンサンブル

  

 不意に誰かが(どこでだったのか?)我慢できず失礼にもプッと吹き出しかけた。いやちがう、本当に笑った。
その失笑音は小さかったのに、まるで稲妻なみに講堂を貫いたんだと思う。最初は一人だったのだろうか、いや、それも違う。実はほとんど同時に、複数のものが、吹き出そうな笑いをこらえかけ、必死に息をとめる気配がしたものだ。失礼だな、と思うひまもなかった。次の一瞬で、こらえ性もなく、大ホルンの吹奏と同時か、ホルンの余韻が空中にまだあるその直後に、みんな一緒に笑い出してしまった。

 ホルン奏者を笑ったのではないのは確かだ。しかし、その前のハラハラ感を覆してしまうほどに、意想外な効果だった。どっとばかり緊張が抜けた。

 荘厳であるべき箇所で逆現象がおこったのだった。その笑いの向こうにとぼけた大ホルンの音色が谺している気がした。やわらかくて、何だか調子っぱずれで、くすぐったいホルン。つい、ボクにまで笑いが感染した。
 いや、今や周りじゅうが、生真面目な聞き手の立場から、演奏の失敗を償えるかのような、ひと騒ぎを喜ぶ按配の気の弛みになってしまい、ゲラゲラ笑っていた。気付けば舞台は、ハラハラ、ドキドキの演奏が中断している。

 こうなっては、舞台の上も下も一緒だった。ここで笑っちゃいけないんだと下を向いてこらえようとしている楽員と、そして、顔を上向けたまま、半ば口を開けている聴衆とで、どっちが先に爆笑したものか、解らない。それを問う必要はなかった。それぐらい素早く、講堂じゅうの人間に、「…これは困ったものです、笑う場面じゃない。しかし、つい笑ってしまうな」と、罪がない、苦笑に近い感情の渦が広がっていたのである。

 それでも、また構えられた指揮棒へと集中し、ふたたび身構え直した楽員たちにより、けなげにも、ホルンのあとの演奏が再出発しようとして音が発された。これからは静々と行進して行くような曲想の箇所である。ティンパニも低くどろどろ打たれるのだ。

 だが、楽員が指揮棒に合わせようとして目を見開いても、悲しいかな、すでに一度忍び笑いに感染してしまった後で、楽員にはそれがまた場違いなほどに可笑しく聞こえるのか、揃ってうまく鳴ったかと思う途端に、弾き方がめちゃくちゃになった。

 楽員の取ろうとしかけた正しい演奏姿勢が、見る間にくすぐったそうに屈してしまい、だから欠けてしまう吹奏パートがあり、力強さではべートーヴェンらしい音楽にならないのだ。それで、とても不思議な音の混沌に聞こえた。クラリネットが、チャルメラみたいにプワワーンとか鳴って音を外し、再び聴衆を笑わしてしまっている。おかしくって聞き手は目に涙すら溜めている。

 急にボクは笑い止み、舞台上やボクの身のまわりで起こっている、吹き出し笑いの現象の不思議さよりも、あるものに目を惹かれた。
 そして指揮者の背を見詰め直した。そこの何かが目を捉えたのだった。大ホルンの後で、一度はその指揮棒により、もう一回、楽員に奏でさせようと努めた。が、今程のとおり惨めな結果になったのは、見たばかり。

 だがいま気づいたら、すでに指揮棒は彼の身体の脇に降ろされていた。こぶしの白さがはっきり見えたほど指揮棒は強く握られている。そしてもはや、あの細い棒が、再び彼の顔の横に構えられそうな気配はなかった。

 

18、テトラパック入りコーヒー牛乳

  

 このコンサートがあってから後日、折々にボクは、指揮をしたあの先輩を学内で見かけた。もちろん同じ学校の生徒なのだから当然ではある。彼は、何も特別な存在ではなかった。けれど、ボクはそれが不思議な気がしたのだ。
 例えば、遠く千葉港沖の海面がのぞく市の西端を見渡せる、崖っぷちに面した二階建ての記念館と、一般の教室棟とをつなぐ渡り廊下ぎわにあった購買部の売店で、昼食のコロッケパンや黄色いテトラパック(紙製正四面体)入りのコーヒー牛乳を買っていたりする彼の姿をだ。ボクもよくテトラパック入りのコーヒー牛乳を飲んだが、同じものを彼が飲んでいるのが、とても変な気がした。

 モーツァルトやべートーヴェンが購買部の売店のテトラパックを持っていたら奇妙ではないか? ボクの中では、生身の彼と、歴史上の高名な人物である200年前の作曲家とがごっちゃに結びついている部分があった。指揮をした彼、すなわちべートーヴェンの一部であるという感覚だ。若いときの英雄崇拝だったのかも知れない。

 彼は、外見では、格別にあの時のことで落ち込んでいるようには見えなかった。それが彼の本心のままであってほしかった。17、8歳、このナマイキな年頃で無意識な気取りがまったくないと言ったら嘘だから。

 あのオーケストラ指揮のおかげで、彼は新入生を含む全校生徒に顔が知られたほうだろう。それで、いつも誰からか見られている意識で姿をしゃっきりしておこうという、かすかな気負いが潜んでいるのかも知れなかった。そうだとしても無理はない。ボクが彼だったらもっと人目を気にして動作がコチコチになっていただろうから。
 ふだん見るとやはり背丈は低いほうで、態度に慎みのある、口数がすくない3年生のひとりだった。特徴である白皙の顔を、ややひそめ気味にしているか、または、目を茫洋と遊ばせている。はしゃがないその表情がすでに立志ある気概を備えてもいて、より冷徹な青年らしくなった、とボクは思った。

 卒業まで彼の名前は知らなかった。今でも知らない。知りたいとも思わなかったから誰かに尋ねたこともない。第五を演奏しようと思いついたのは、彼以外にいなかったはず、そう思っただけで十分だったのである。

 

19、本当のフィナーレ

  

 ……第五番の演奏が、もうそれ以上続けられないと悟った後、彼は指揮台を降りた。全楽員をその場に起立させ、そしてはじめて自身の正面の姿をも聴衆へ向け直した。
 指揮者は深く一礼をした。聴衆側は、彼が指揮台を降りた途端に静まっている。
 見れば総立ちの楽員も彼のうしろで一礼を重ねたのだった。それを目にし、早まって拍手をした何人かの生徒がいた。しかし周りが相変わらず静かすぎたので、パチパチという音は尻すぼみになり、すぐに消えた。で、場内は一層シーンとした。

 「オーケストラは今お聞ききになったとおりの状態です」
 正面へ顔を上げた指揮者が、静かに言った。
 「緊張が解けてしまいました」
 残念そうに引き歪でいるが、驚いたことにその顔は、しんみりと微笑んですらいた。楽員の誰をも咎めぬ、優しさすらあった。聴衆席はそれでホッと一安心したと思う。

 もしや彼は、交響曲第五番が自分たちに荷重すぎるかも知れないと悟っていたんだろうか? とまでボクは考えた。が、彼の次の声が意外なほど大きく、講堂内に響いた。
 「もう一度最初から、やり直しをすることができそうにありません。今、見ての通りでクスクス笑いっぱなしです」
 本当に、まだ楽員はくすぐったげだったのだ。ここで聴衆からも同情の苦笑いが起き、彼は一つうなずいた。
 「せっかく聴きに来ていただけたのに、一カ月以上にわたる練習の成果をだせず、とちってしまい、申し訳ありませんでした」

 そこで練習を思い出しているような目つきで宙を見上げ、ちょっとのあいだ唇を噛んでいた。音の反響してしまうこの講堂で練習したのだろうか、それとも校舎内の何処かにある音楽室でか。一カ月余もやったとすれば、たぶん3月頃からだろう。ボクたちの合格番号が外庭に貼り出された日には、すでに練習していたことになるか。

 場内は、彼のことばを待ち、静かだった。
 「いつか、またここで演奏を聞いていただける機会が来るかと思います。その時はうまくやれるよう、我々はもっと練習しておきます。ですが今日は、皆さんさえよければ、ここで音楽部の文化祭コンサートを終わりにさせていただきたいと思います」そこまで一息に言った。
また深々と一礼。「これまでのご静聴たいへんありがとうございました」
 全楽員もそろって頭をさげた。その顔々は、もはやスゥーと生真面目に戻っていた。これで終わったかという喪失感にも似ていた。同時にそれへ重なり、今度こそ待ち兼ねたように聴衆席から、もの凄い拍手が起こった。

 そうだ、さっき彼等が鳴らした第五交響曲の第1楽章は、その失敗ゆえに永らくこの耳底から離れなくなりそうだ、とその時にボクは思った。

 

終わりに

 葛城の丘に今もこの講堂はあると聞く。はじめて落成した昭和2年6月から、かれこれ73年の星霜を経て、修理を繰り返えされつつ、まだ聳えているとのこと。ブロンズ色だった重い正面扉の、錆落としも何度かされたことだろう。

 しかし、昭和40年の春に聞こえた、あの時の演奏音のアンサンブルは、もう絶対に講堂内に無いはず。すべての音が、あの一瞬一瞬に時空のかなたへと散り散りに飛び去ってしまったのだから。

 けれどあの年の春、葛城丘の上に入学した同期生で、かつ講堂に居たものの耳には、朧気なボクの記憶以外に、あるいは今も幻の如く保たれ、残っているのかも知れない。
 もしそうなら、それをも聴いてみたいものだ。


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