ひと恋初めし、千葉高時代

A君

告白

 一年生だったか二年生か、いま遠い記憶の糸をたぐってみても定かじゃない。教室のあった棟の位置すら、うろ覚えなのである。ただし三年のときでなかったことは確かだ。昭和43年度卒業アルバムを開くと、僕もSもKもクラスが別々だからだ。

 でも、事のはじまりはよくおぼえている。三人が同じクラスだったある昼休み、Sが自席につっ伏して弁当のうえにおおいかぶさっている。背中がワナワナ震えている。鳥肌立つほどの期待感と同時にそれを上回る絶望感にひしがれ、Sはさっき一声「ああっ」と悲鳴的にうめくや昼を食い残したまま腕に顔をうずめているのだった。

 立てば175センチ以上はあるスマートな長身のSだ。それが亀的に縮こまっている。この少年がどうしてこんな風になっているかというと、そもそも、S本人が彼の苦しく切ない胸の内を、僕とKに打ち明けずにいられなかったからだ。

「俺、前を通りかかるだけで…」
 先日、Sは思いあまって我々にこう告白した。そわそわする一方の彼の様子をいぶかったKと僕との誘導尋問に乗ったのだ。根が正直者の彼いわく、「胸がバクバクする。足がすくんで、とてもじゃないがそっちを見られない」

 そっちとは、隣りの教室のことだ。隣りに近づくと、いやこれからその前を通らなくてはと思うだけでSは急に緊張し、背筋がひやっとしてどうしてよいか分からず、顔をそむけてぎこちなく廊下を通過するのだそうだ。それが毎日の苦行である。

 かわいそうにSは、体操の授業やトイレの往復、あるいは登下校で隣りのクラスの前を通るたんびに心臓がバクバクと躍り破裂しそうになる。平凡ながら順調であったSの高校生活が、ある日から突如、思いもよらぬ緊迫の虜囚になってしまったのだ。我々にそう訴えたSの息づかいは切れぎれになり、当人のわななく心情が本物なのは明白だった。彼にのぞき出るこういう巧まない人の良さを、我々は大事にしたかった。

林檎の頬

 Kと僕は、この告白をうけて以来、頼まれはしないが機会さえあれば偵察をした。隣りの様子は通りすがりに廊下窓からいくらも眺めることができる。なるほど、クラスの真ん中辺りに、ほっぺたが林檎なみに赤い女子がいる。あの娘が目下当人の存ぜぬこととはいえ、われわれの仲間Sを盲目にしているのだ。名前はRさんだった。

 Rさんを認めたわれわれの最初の感想は両名とも、「意外にも小太りだな」であった。Sの審美眼をくさすのでなく、正直、健康児そのものに見えたのだ。全身いかにも豊饒な娘らしい張りがあり、みずみずしく果実的にふっくらしている。が、一番いいのはその眼に険がなく、どこか温かな湯気が立ち昇っている感じがしたことだ。

「ゆったりした、おおらかそうな女子だな」やがてKが真顔でいった。
「ああ、素朴な感じがする。気ままなところがなさそうで」と僕は応じた。
 後で、Sにそれらを告げると、彼は意外そうに驚いたが、われわれ二人の目を見、からかわれていないことを知るや、その顔が安堵でくしゃっとばかり崩れた。まるで彼自身が最上等と褒められた如くはにかみ、耳まで真っ赤に染めたSは、「うーん」と息をはずませ、こそばゆげに一言、「そういう子なんだよなア」と、のろけて、知られたくない警戒心をすっかり解き、満面の笑みを隠さなかった。

片思い

 無理もないか、今ようやく彼の片思いを多少でも分かち合ってくれる仲間が出現したのだ。むろん彼へ、いつから好きなんだ、など問う野暮はぬきである。以後、我々はSの目代わりをした。単に彼を喜ばすためちょくちょくRさんの観察報告をした。片恋の真っ最中のSにとって、ごく些細な伝達も慰めになる。その断片だけでSが半日幸せでいられる日もあるのだ。そうやって彼の期待以上の強い味方になっていった。

 我々は、Sがひとりで悩んでいた別の問題にも関わることになった。つまり、すでにSの気付くところ、Rさんへしきりに気安く(彼によれば、極めて馴れ馴れしく)話しかける男子生徒がひとりいる。なにか冗談を言っては彼女をコロコロ笑わせているのである。それも、彼女のすぐ前からだ。畜生、そこがその男子の席なのである。

 ふーむ。内気でまともに隣りを見ることもならぬSになぜそんな観察ができたのか知らないが、これが遠くからじりじり彼を悩ませたのは間違いないことだった。Sの神聖な彼女に対し、その男子のいけ図々しさ、無礼で我慢ならぬ眺めだったろう。
「だったら、そやつをプールの裏にでも呼び出して、彼女にしゃべりかけるな、気分がむしゃくしゃすると警告すればいいじゃないか」
 などというのでは暴論すぎて、毒にもアドバイスにもならない。
 片思いというのは、金輪際だれにも知られたくない感情の最たるものだからだ。
 それは自らの思春期をふり返れば大方判ることだ。好きになれば好きになるほどその人の視野内に立ち入りたい、気付かれたいと思い焦がれる気持と、その一方、まぶし過ぎて相手の前からとっとと逃げ出したい衝動、これらふたつが相矛盾しながら入り組み、心の中に同居する。年ごろの少年が乗り越えねばならぬ壁の一つだ。そこを過ぎれば成長の証だ。が、まだその最中にある者にとってこんな苦しい相克はない。

 だから往々、行動と思いとが実にちぐはぐになる場合がおおい。それを第三者的にわきから眺めると、矛盾のもとが透けて見えるだけに、見ていて歯がゆい。

幼なじみ

 で、僕よりずっと物事の扱いにてきぱきしているたちのKが、Sの願望を先取りするかたちで、隣りのクラスのその男子をマークした。というか、もっと情報をえるための直接行動に出た。彼はしばらくのあいだ隣りへ遊びに行っては目を細めニッコリ笑みながら目星をつけておいた女の子にそれとなく聞き出したのだ。Kは必要ならば笑顔でもって相手のふところへと一足飛びに入れる、タフで、頼りになる男である。ちなみにKには未婚の社会人の姉がいた。Kは少年ながらその姉と二人きりで住み、遠隔地づとめの父親の世話で母親も不在である留守宅に暮らして、いわば姉を守る一家の主人だ。ストレートな説得力と大人びた目を持ち、こういう件はこの手に限ると判断したらしい。

 当時、一クラスが約五十名編成中の男女比率を見ると女子は少なく七、八人だ。が、彼女らの巡らす素早い瞳を逃れられる秘密は何もないはずであった。図体ばかりでかく観察力におとる同年の男子より、物事は、緻密な女子に習うべきなのだ。
 やがてKが得てきた、心待たれる結論は、「やつは支障なし、OK」であった。
 どう支障なしかを僕が問い返すと、
「あいつ、Rさんと同じ学区で中学も同級生なんだ」とKは報告した。「だから小学校もいっしょだ。家も近くどうしで同じ町内で育ってる」
 それがどうして安心なのか逆ではないか、と更に問うたら、Kは当然のように、
「お互いが子供時代をよーく知っている間柄だぜ、今さら何かがときめくかよ。単なる幼なじみだ。クラスの女の子たちがそう見てるんだから間違いないさ」
 と、ばっさり反論し、ケケケッとばかり陽性の大口で笑った。

 Sはそれにつられて気弱く笑んだが、まるきりの晴れ顔でもなかった。
「おい色男しっかりしろ」KがバシッとSの肩をたたいた。「彼女にはまだ誰も好きな人がいないようだぞ。だからお前にもじゅうぶんチャンスはあるって」
 でも幼なじみの仲ってそういうもんだろうか。僕は自分のことをふり返ってみた。
 そういえば小学校五年の同じクラスに好きになった可愛い女の子がいた。ある日その子が二人掛けの机の真ん中に見えない境界線を指で引き、きつい調子で、「ここからこっちへは鼻水をとばさないで」と僕に命令したっけ。その時の冷ややかな声音をよく覚えている。その子とは中学校も一緒だったし中一まで好きだった。その淡い気持ちはまだ僕のなかに残っている。けれど、「今さらときめくかよ」と断言されてみて確かなのは、これって、鼻水を飛ばされたその女の子にとっては百点満点の正解だろう。
 いや、Rさんは見えない境界線を引くような残酷な女の子には思えなかったが。

友情

 ところで当の悩めるSだが、どちらかというと彼は、僕ら二人につい告白したのを悔やまずにもあらずの風もあった。我々の推しすすめる予測外の惜しみない助力に、Sはややもするとおっかなびっくりなのだ。こちらの偵察し過ぎ、微に入ったその報告が、かえって彼の恐怖心を煽ってしまったらしい。Sの頭の中は彼女に関する情報の錯綜で混乱したようだ。Rさんの名前が出ただけでも我々の前でぶるってしまうのだ。その甘い名の発音は、まるで耳に触れた高圧の電気ショックみたいにSを飛び上がらせた。

 こいつ本当におののいているんだなあと改めて思ったくらいにSは、
「もういいよ、二人とも、や、やめてくれ」
 と、両手をあげて、力弱い泣き顔などで制そうとするのである。
 今更になってSは事の進行に当惑しだした。が、例の内面相克である。助力を断ろうとするSの哀願の奥に、もっともっと続けてくれという叫びが聞けるのだ。Sひとりきりでは事がにっちもさっちも行かないのは本人もよく判っている。それに、放っておいたらノイローゼになってしまうんじゃないかと思われる程の重症だ。

 正直言って、Sの片思いのつよさとその気弱さとの取り合わせを、第三者が笑ってしまうのは不謹慎だが、彼個人の外見は鼻筋のきりっと通った、眉の濃い男らしい、気持ちのいい顔立ちである。口下手な男であり、正直で嫌みがなく、優しい気性を持つ。こんないい奴はちょっと他にいない程だ。我々三人はもともと気が合う仲間だったが、僕とKは、今度のRさんの件をつうじて改めてSの長所に目覚めていった。
 又、この件が無かったら僕は当時、Kのことも自分自身のことも浅くしか認識できなかったはずだ。なにもない日常より味付けとしての苦しみがあったほうが良い、と経験は言う。凡人は行為を通じてしか理解を深めることが不可能だからだ。

 僕ら三人の性格は、友人同士がいつもそうであるようにあまり似ていなかった。
 なかでKがいちばん快活、かつ豪放磊落で外向的、ほかともとけ込み易く、割り切り方も早く、物事の処理にストレートに当たるタイプだ。三人のリーダー格だ。一方僕は、辛辣な口をきく点、Kと同じかそれ以下でない皮肉さをそなえ、物見高いが飽きっぽく、言いっぱなしに終わりやすいタイプ。気概活発なKとそしてやや無口でシャイなSとの中間にいるのが僕で、いわば二人の間をつなぐ媒体役といったところだ。
 そして、恋の病に落ちたSこそ他にいないだろうお人好しだ。自我を出さず、付き合いやすい男だが、感じやすすぎる。傷つくのを恐れる一面を隠せないのだ。Sは出身の小学校や中学校でも目立たぬよう息をひそめていた、という感があった。どこか自分自身を過小評価する誤ったずれが感じられた。彼をよく知るご両親はずいぶん歯がゆいことだったか知れない。自分にもっと自信を持てばいいのにと思わせる面が多々ある。こういう少年には、可能ならかなり度量の広い娘と好いて好かれる仲になってもらいたい。その娘が彼に自信を得させる気がした。Kと僕は、そんな風にSを思っていた。

 Kも僕もほくそ笑む皮肉屋で、その近くを通るのが怖いほど好きになった女の子はまだいなかった。又まるでそういう奇蹟が起こる気配もなかったのである。
 だからというのではない。が、気弱な友人の思いを一度でもいいから、かなえてやりたかった。普通なら絶対に言い出せない告白をしてくれただけでも、Sの本質は純だ。我々は、Sの人間的なその良さをRさんへ推奨したくなり、乗りかかった船をどこかに着かせねば気が済まなくなっていた。ひいきの引き倒しみたいなものである。

キューピッド

 最終的に、なにがきっかけであったかはもう覚えていない。ある日、昼休みの中ごろだったと思う。僕とKはとっくに購買部のパンとテトラパックの牛乳で昼飯を済ませてしまい、Sの席のそばにいすを近寄せてたむろし、弁当の包み紙をひらく彼の横であれこれ冗談を話しかけていた。むろん主題は、Rさんに対する彼のおっかなびっくりぶりを誇張してからかっていた。うん、うん、と小さく笑いながら幸せそうにうなずくSは、大柄の割にしんみりしない、人の良い噛み方でお袋さんのおかずをつついていた。

「よしっ、いまから直談判に行ってくる!」
 Kが突如、彼のいささか大きめな口を真横一文字に引き結んで、そう宣言した。じかだんぱん、死語みたいなものだが、耳にしたら響きが強烈である。
 Kのことなんで、きっと思い付きでなく、いまや機が熟したとみたのだろう。
 言い放ったKは、はじかれたみたいにして椅子から立ち上がった。Sと同じほど上背のあるKが、つかいこまれた歴史ある木造校舎のすり減った床をどしどし踏み鳴らして肩をいからせ豪傑みたいに出ていった。もちろん行き先は隣りのクラスである。
 そして、この一文の冒頭のシーン、『Sが自席につっ伏し、弁当のうえにおおいかぶさっている。背中がわなわな震えている。鳥肌立つほどの期待感と同時にそれを上回る絶望感にひしがれ、Sはさっき一声「うあっ」と悲鳴的にうめくや昼を食い残したまま腕に顔をうずめているのだった』へ戻るわけなのである。
 Sにとってそれこそ飯の最中を襲われゴクリと飲み込むことも出来なかったのだ。

 この昼休みKは、Sの煩悶に決着をつけてやるべく単独で隣りのクラスへのりこみ、Rさんの前にどっかり腰を下ろした。むろん彼女と正面対してである。Kのことだ、Rさんと挨拶したり多少は話をするようになっていた。それも布石だ。

 さあこれで僕は急にいそがしくなった。隣りと自分のクラスを往復して、現在進行しつつある巨頭会談のなりゆきをリアルタイムで伝達する大役だ。それも会談を邪魔せぬように教室の窓の外から観察し、僕が言葉に気をつけて事実そのままをSに報告せねばならない。言葉は使い方次第で残酷なヤイバにもなるが、つっ伏したきり震えるSを、Kが戻って来るまでつんぼ桟敷に置いておくのはもっと酷というものだ。
 さて、Kは椅子にまたがって真後ろ向きだから、二人の顔と顔のあいだは50センチもない。彼の手は背もたれの上部を握りしめている。両足は長過ぎるタラバ蟹の足みたいに膝小僧がはね上がっている。窓越しに声は聞こえないがKの表情はよく見えた。Rさんへ喋りかけるうちに顔がどんどん上気してポーッと赤らみ、Kの幅広い肩はしだいに前傾していった。客観的に見て、Kは少しもひるまずやる気十分で、その熱意が前傾姿勢におのずと現われていた。彼の熱意が多分Rさんの乙女心を金縛り状態にした。で、両者の顔と顔はもっと接近したのである。あれならば低い声で話せば事たりる。そしてRさんの顔もほっぺたが元々トマト的に赤いから、向き合うあの二人は、クラスの周囲からきわだって浮かび上がり、熱そうに赤くゆだって見えた。しかし一向に滑稽じゃない。僕の目に美しい永遠のシーンとして映った。ふしぎだがその通りなのだ。

 Kは相手の目をしっかりとらえ、じっと覗き込んで、一瞬も休まずに口説きつづけている。大胆な男である。彼がなにを言っているのか、むろん外からは分からない。だが、Sを売り込んでいるのは確かで、上気したその顔に、なんと不敵にもうっすら微笑さえ浮かべている。冗談や悪ふざけではない、どうか最後まで話を聞いてくれないかとその顔は正に言っている。Kの、突然の押しかけ談判にもかかわらず、Rさんが席を立ってしまわないのは、彼の繰り出す真摯な言葉の流れに耳を傾けているように見えた。というか彼女はじっとしている。猛烈な使者の出現に驚き、いささか当惑しているのか。いや、もし仮に僕が彼女の立場だったとしたら、今、やはり立てないかも。

 そうだ当惑といえば、それこそ別にもう一人いるのが見えた。それは例の小中学校がRさんと同じだったという町内の幼なじみの男子生徒である。やけにニキビ跡が顔にデコボコ目立つ生徒で、少し離れた席からそれこそ唖然とした表情、『これはなんだ?』とばかりKの意気込みぶりを眺めている。Kが入って来るなり彼を強引に追いやったのか、それともバカ丁寧に頼んでさっさと席を空けさせたのか、その場面をあいにく僕は見ことができなかった。Kならどっちを選択してもおかしくない。Kには彼独得の意志力と呼ぶべきものがあり、それが漲ると、他を圧さずにはおかないからだ。

伝書鳩

 すでに僕は二往復してSへ進行状況を告げた。Kが門前払いを食わず、まだむこうで精一杯ねばっていること。Rさんとの交渉に、周りからなんの邪魔も入っていないこと。向かい合う双方とも、顔は上気しながら落ち着いて見えること。それに彼女が何度か控えめに口をひらいたこと。それが恐らくとても重要な質問であったらしいこと。なぜなら、それに応じたKが、大きな身ぶりを交えてこちらの教室や廊下のほうを指さしたり、自分の心臓の辺りを右手で強く押さえたりしてみせたからだ。あれはSの思いを具体的に表現したのではないか。そういうことを、みなSの頭上から伝えた。

 ただし僕はこれはどうかと思い、一つだけは除外し知らさなかった。すなわちKが必死に笑み、一方、それへRさんが笑み返さないことをだ。うっかりその事実を伝えたら、拒絶だと、Sに早とちりの誤解を与え兼ねないと判断したのである。

 僕が状況を早口で知らせる間も、Sはつっ伏したきりである。離れぎわに、「じゃ、また行って来る」と僕から声をかけると、Sはその姿勢のまま、いやいやをする時の子供みたいに背中を揺すった。それはこの件では希望的観測を決して自分に許すまいとする彼の思いの現われだった。当然のことか知れない。映画の中でくり返されるハッピーエンドの奇蹟なんか日常起こった例はない、これはまさに現実だから。

 Kが隣りで頑張ったのはずいぶん長い時間のように思えた。が、昼休みの残り時間はそんなに多くはなかった。対して居たのはせいぜい十分弱だったろう。
 僕は40年が過ぎた今でも、積極的にSのことをRさんへ売り込んでいたKの息んだ顔の紅潮ぶりを、またKを遮らなかった彼女の物静かな様子を、そして引き続く決着の瞬間を、まだ隣りの教室の窓辺から眺めているごとく思い出す。

セカンドステージ

 月日が経ってみると判る。少ないがそのままで消えない残像もあるのである。
 やがて、Rさんの横顔が一度上下にうごいたのが分かった。Kの視線に捕らえられたまま彼女がコクンと首をうなずかせたのだ。承知、僕にはそのように見えた。
 すると、アゴ骨の張ったKの横顔が、一回深呼吸するみたいに後退してRさんを離れ、それからすぐまた前のめりに戻り、薄ら笑みを消した上でKから彼女へ、なに事か確かめるような強い表情で一つ聞いた。今までとは一瞬に違うKの雰囲気。彼の細めた目までもう笑っていなかった。彼の大きな口が息を止めて引き結ばれている。
 そんなKの面前で、Rさんがもう一度こっくり、目を逸らさずにうなずいた。口はひらかなかったが、「ハイ」と返事したのと同じ、確かにそう見えた。
 とたんにKの上気顔が朱を散らしパッと明るんだ。と思うと、その身が半ば中腰になった。腰を浮かせたのである。そしてKはまたも彼女へ一言、二言、なにか、多分お礼を言い、彼女のあおのく視線に見上げられながら、Kがもう元気のいい大股でもって椅子をまたいで立ち上がった。直談判は交渉が成立し、いま終わったのだ。Kが出てくるまえに僕は自分のことのようにSのところへ駆け戻った。ただし手放しで喜ぶのはまだ早い、これが単なる一局面の打開に過ぎないこと、むろん承知の上でだ。

初恋の坂

 その何日後だったかはっきり思い出せないが、僕の通学自転車は変速ギアのワイヤーがイカレてしまい、修理に出してあった。放課後、閲覧室の入り口で検索カードをパラパラめくっていたら、Kが図書館の階段を駆け上がってきた。僕を見つけるや、
「おいAなにしてんだ、今日だ忘れたのか、行くぞ行くぞ!」
 と、静寂な館内なのに、はた迷惑な大声で大変せかすのである。
 一冊借りるひまもなく、僕は学生鞄を提げてKといっしょに階下へ向かった。
「なんで俺たちが、あの二人の前を歩かなきゃいけないんだ? RさんのことはSに任せておきゃあいいだろうに。人の恋路を邪魔する奴はナントかっていうぞ」
 と、僕はげた箱へスリッパを戻しながら改めて、Kの誘う意味をたずねた。

そのKは、いいから早くくつを履けよ、と身ぶりで僕をせかしながら、
「考えてみろA。もしもSがだ、口がひらかずRさんと何も話せなかったらどうする。俺たちが近寄っていってその場を盛り上げてやるしかねえだろうが、ん?」
 と、ルルルルっと聞こえるような巻き舌で言った。

 いらぬお節介のようだが、なるほどそう言われてみれば、その見通しにはそうだとうならせるものがある。口下手なSのことだ、緊張し、上がり切って喋るきっかけをうしなったまま彼女の前で黙り込んでしまわないとも限らない。そうなったら、結果は今から目に見えるごとく悲惨である。万一そうなったとしてもSのことだ、我々のおこなった助力を恨みはしないだろう。がトラウマ的にその痛手から一生逃れられまい。その最悪予測はまあ別にしても、何日か前のあの昼に、「Rさんは承知したぞ」とKの報告を受けてからSは、新段階の不安と直面しているのである。さいは投げられた。喜びは一瞬のことで、次なる試練が彼を待ち受けていることを悟ったのだ。つまり、ここから先はS自身の自助努力でもってRさんの信頼を勝ち得ねばならない、と。

 それがS本人に分かっていると解っているからこそ、Kは僕をも動員するのである。
 急いでくつを履いて表へ出たら、Sが緊張し棒のようにひとり突っ立っていた。図書館のすぐそば、学校正門の四角く高い門柱のきわに、不安いっぱいのS、人待ち顔である。僕らを見て彼はちょっと笑おうとしたが、口の脇がピクリとつっただ。次いでその目は僕らの後ろへ流れていった。いよいよ今こそSの待ち人現わるだ。
「じゃ、俺たち少しだけ先に行ってるからな、ガンバレよ」
 わきを通るときKが元気づけるように小声でそう言った。

 Sはギクリとうなずいた。が、はたしてKの激励が聞こえたか怪しい。緊張の極限にあるSは多分、二階建てのクラシックな木造校舎群に囲まれた、中庭に通じる地下道から上がってきた唯一人の姿しか見えなかった筈。この日の段取りもKがつけたのである。今日Sは初めてRさんと待ち合わせをし、正門から一緒に下校するのだ。二人とも電車通学だから先ずは国鉄千葉駅辺りまでの道中で、むろんSは、彼女と直接話すのが初めてだ。これから何が起こるか不透明で、何もかもがぶっつけ本番である。

 さて当校の女子の制服は、濃紺のブレザーとスカート、そして襟元にのぞく真っ白なブラウスだ。ブレザーの胸前はくるみボタンが特徴で、スカートのアクセントは追いかけ襞の縦波だ。校章は、女子は左胸のポケット付近にさすのが常だ。ところでブレザーのデザインだが、女子のお洒落心に言わすと、襟幅が狭いし襟の切れ込みかどに丸みがあり過ぎるので全体が古臭い、のであった。むろん男子はそんな乙女のデリカシーは知らぬ。これに包まれた女子生徒はシックで初々しい清楚さを増し輝いて見えるのだ。で、今やその姿が彼を目指して近付いて来たのだから、Sにとって相当まぶしかったことだろう。よく彼がひとりで待ち受けて腰を抜かさなかったものである。

 Kと僕はゆっくり先行し、行き過ぎぬていどに坂道の途中で立ち停まり、ふり返りふり返りして見上げ、正門からあの二人が現われ出るのを待った。他にも坂を生徒が通っていたはずだが記憶からすっぽり抜け落ちている。我々側の心理は、我が子を遠くからじっと我慢して見守る親心のようなものだった。いたく可愛いからこそ我が子には試練の目にも会わせ、自立させてやりたい一心からである。息子のSがなにか不祥事を引き起こさないとも限らない、という道徳的な監視のつもりは毛頭なかった。

恋の風景

「お、やっと出て来たぞ」
 Kがそう言って僕の腕を引っ張った。僕らは同時にくるりとそちらへ背を向けた。あの二人に、他人の視線を意識させてしまう程じろじろ見ていてはいけないのだ。
 しかし短いその数秒のあいだに僕は、心配したほどにSが舞い上がってしまっている訳でないことを見て取った。僕の目の残像が、そう告げていた。

 一つには、Sが彼女の左に並んだ適正な距離である。なにが適正かは議論の余地もあろうが、相手を圧迫しないですむ隙間とでも言えばいいか。つき過ぎず離れ過ぎず、間違っても肩が触れない、それでいて相手の表情がムリなく目に入る距離だ。

 二つには、Sが短く彼女へ話しかけたさいの姿だ。彼の身はまっすぐ正面向きで、首だけをRさんの方へよじって、ちらっと彼女を見やるだけにとどめる。Sから何ごとか問うたのだが、その横顔に笑みも添えている。足が地につかぬ緊張の割にソフトな感じのする接し方であった。Sもここ一番という時、中々やるではないか。

 三つには、Sが少なくとも外見上おどおどしたり目をキョロキョロ逸らしたりせず、Rさんとの初の会話に、もてる注意力を集中させていることだ。口下手な男だが、彼女から返って来た声にこくりとうなずき、数歩の内に、またSのほうから少し首をよじって彼女へなにかを聞く。だから会話してる。この目で見たのだから間違いない。

 僕はすっかり感心して坂を下りながら隣りのKに言った。
「見たか、Sがなにか尋ねてRさんが答えてるぞ。あのふたり歩きながら話してら。良かったな、Sのやつは普段よりも顔がつっぱらかってるけどあれで愉しそうだ」
「はっ、そう単純に喜ぶかよAは」
 と、Kは積極的な分、僕より慎重な言葉だった。
「どうして? だって事実だろうが、喜んでわるいのか」
 そして僕は冗談気味に聞いた。「Sのやつ、俺たちに露払いさせといて、最後に良いところだけさらっていくみたいじゃないか。苦しゅうない、お殿様だ」
 たぶん僕のほうは、RさんがSひとりを坂に置いて邪険に帰ってしまうようなことが無さそうなんで一安心し、わざとそんな悪口を叩いてみたかったのだ。
 するとKが、意志的な大きい口をなおさら平たくして、
「もうちょっと様子みだ」と気掛かりを滲ませながらそう断言した。
 Kはこういうところが、軟化しやすい僕よりも友人思いなのである。

 で、Kと僕は亥鼻保育所の前まで一気に下った。そこで立ちどまり、坂を振り向いた。保育所は丘の上の校門からつづく坂道のつき当たりだ。そこで坂を見あげればあのペアの様子は一目瞭然である。二人がとる間隔はあのままであった。ただし今や、最初の出会いの気詰まりと固さがお互いに少しほぐれたように見えた。その証拠は、見よ、わずかながらよりスムースに問い掛けたり問い返されたりしている。横顔にのぞく笑みの影が両者とも増した。ただ二人の位置はまだ遠く坂の三分の一も下っていない。

 あの二人、途中で停まっていた訳ではない。けれど、たたずみながら下っているごとき不思議な歩みと称せばいいか、二人に時間がゆらゆらたゆとうて流れている。一歩ずつくり出すその歩みは申し合わせた如くそっくり同じスローペースである。
 二人の会話はここまで聞こえてこない。が、やり取りの滞っていないのは分かる。互いの言葉を大事にキャッチボールする同志の、急かないペースである。

「なあK、あれってルソーか誰かのかいた純朴な散歩風景の絵みたいだな」
 僕は失礼になるのもつい忘れて眺め入りながらそう言った。決して肩と肩との間隔をちぢめず、じろじろ見詰め合おうともしない二人が醸し出す、簡浄さにひかれ、あの同行が羨ましくもあり、なかば間抜けに口もとがゆるんでしまった。
「RさんもSも、ちっともヤらしい感じがしない。ベタベタじゃないのが良い」
 僕はそう口走った。今すぐにでもSよ、お前なかなかいい、あんなにおびえていたのを自分から克服しかかっているんだから、と褒めてやりたかった。

 そのときKが薄い学生鞄で僕の後頭部をかるくはたいた。Kは参考書類で鞄をパンパンに重くするタイプではない。もっとも僕の鞄はもっと薄っぺらである。
「なにポカンと見てんだA、羨ましいのか。ハハハ、とっとと行くぞ」
 Kはあっさり皮肉にそう言った。
 なんだよK、もう少し様子見なんて偉そうに言ったのは誰だっけ。それにたった今まで自分だって細い目をもっと細ーうくしてニマニマ見上げてたくせに。そういう時のお前の長いもみあげ顔って品の悪い山賊みたいだぞ、知ってるか。
 しかし、Kはもう僕をうながして、角の今井クリーニング店のわきを曲がり、あの二人の心配なんかちっともしたことがない風に大股でずんずん進んでゆく。かえって僕のほうが心残りで、もう少しSの努力を見届けねばの気持が強まっていた。前方からKと僕の姿が消えたらSは焦ってしまうのではあるまいか、と。

文化会館の熱気

「お、A、ちょっとこれ見てみようぜ」Kがのんびり言う。
 百メートルばかり先の文化会館前でKとたちどまった。催し物の掲示板に本日の案内が出ている。よくKとSと僕は三人して下校途中、入場料なんか払えるかといいあって文化会館に潜り込んだものである。この日も車寄せの通路から堂々と正面玄関をくぐり、勝手知ったる大ホールを覗いた。会場前の受付には誰も居ず、マイクの音がかすかに大扉をもれ出るのは中で催し物がもう始まっているのだ。Kと僕は大ホールの最後列、つまり一番高い所にある後方扉の一つを選んで会場内の誰にも気付かれずに滑りこんだ。ここは我々の学校もクラス別対抗の合唱コンクールをやったことのある場所だ。俯瞰すると、ざっと八分目の入りであった。大ホールをうめた大人数である。はるか底に見える舞台上では、演壇の前でひとりの女性が聴衆へ向かって熱く語っている。おそらく三十代半ばの婦人で原稿なし、個人の体験事例発表のような内容と思われた。

 Kと僕は通路の階段をすばやく下り、真ん中あたりの空席に身を沈めた。舞台正面の左右に大きな祝い幕が四本垂れかかり、何かの団体の大会だ。これだけ多くの人々がじっと聞き入いる講演をただで味わえる幸運に僕とKはニッと笑みあった。

 ところがだ。どうしてだかすぐ演壇の女性がつかえ始めたのである。そして見る見る絶句した。どうやら、頭の中に組み立ててあった言葉やストーリーが突然途切れてしまったらしかった。彼女が身もだえするごとく絶句の苦しみから逃れ出ようとして言葉を空しく捜す様は、こう言っては何だが、先の読めぬ恐ろしい見ものだった。必死な形相とその雰囲気がただならぬ緊張を一瞬にして会場にみなぎらせる結果となった。
 すると場内で誰かが叫んだ。マイクのない聴衆席からである。一人だけではない。一声が、三声四声、そして何とも言えぬ多くの声々が、絶句する彼女へ、「ガンバレ! ここで頑張れなくて教えをどうする!」というような意味を口々に発した。
 それらの声援を受けた演壇の婦人は、声と気力をふりしぼり、なにか言った。泣き声に近い叫びだ。と思うや彼女の手にまさぐられ数珠が現われ出たのである。最初からどちらかの手首にかけていたものらしい。それをジャラジャラ鳴らしながら額よりも高くささげ上げ、お題目のようなものを唱え出した。自身にカツを入れる感じだった。

 そして次の一瞬、Kと僕は、思わず自分の目を疑った。
 聴衆の全員がその場にザッと立ち上がったのだ。全員がジャラジャラと鳴らす数珠をまさぐり上げ、一斉にそろったお題目をヲンヲンいう地響きじみた轟きで念じ出した。すわったままなのは僕とKだけである。見よ、僕らのすぐ斜め前の通路に、六歳ぐらいの子供までが両足をふんばり出て、子供用らしい短い数珠をもみ、これも熱狂して念じているではないか。場内一同はいわば歓喜に包まれて盛り上がり、その中、言葉につまっていたあの婦人の声がマイクに乗って復活し、教えのありがたみが血肉になっていると訴え掛け、それを受けた聴衆がますます感じ入り恍惚とした合唱を続けるのだった。
「やばい、これは」たまげたKが僕の耳元にささやいた。

 聞き返すまでもなく僕も腰を浮かせ、二人ほうほうの体で大ホールを逃げ出した。あんな熱狂集団と出くわしたのは初めてだ。Kと中にいたのは僅か数分だったが、いわゆる新興宗教の強烈な一体感を離れたら、煤煙で濁った外気ですら胸に心地よかった。植えこみにある青い植物や木々の葉が光り、ひじょうに新鮮に見えた。

心の中の春一番

 文化会館おもての一段高い場所から、長洲町と亥鼻町との町境にあたる下の通りを眺めた。そこは毎日の通学路である。道の向こう側に亀の湯と増田材木店が見える。その右隣りが田中酒店だ。ちょうどSとRさんがその前まで来ていた。あの二人はやはり時間の流れに取り残されたようにゆっくり進んでいる。お互いが、自身の心の中を覗き、異性と歩を共にした時に生じる、あの初めて空を飛ぶ感覚を味わっているようだ。やがて忘れてしまいがちな繊細な感情だが、今それが二人に溢れている。Sは今や位置を入れ代わってRさんを路肩側にして彼女を車の通行から守っているのであった。

「いい感じだな、Sの顔がひきしまって見える。臆病を忘れたみたいだ」
 と、Kが隣りでつぶやいた。そこに皮肉な調子はなかった。
「うん、そうだな、確かに」そのことに感心して僕もそう応じた。
 そして僕はもう一度ふたりの歩みを見てからこう言った。
「願いを叶えてくれたRさんもいいな。あの子、とっても偉いよ」

 Sは、我々が見下ろしている高みに気付かず、Rさんのエスコートに専念している。彼の小鼻を膨らませ気の張った顔が、Rさんへまぶしげに笑み返し、なにか言われるたびに顎を引き慎しく笑う。Rさんはほんのり笑み、カバンを前に移して両手で提げてみたり熱い喉を仰がせたりする。二人の見かけは屈託なげだが、あれで心の中は春の嵐のような突風が様々な思いの明滅で過ぎているのだろう。スポーツ用具店弘武堂のわきを千葉市役所のほうへ折れていった。Kと僕はほぼ満足して後ろ姿を見送った。

 ところで、その後の記憶が、何も映っていない輝くスクリーンのごとく僕の中では空白である。だもんで、これ以外のことは僕の勝手には書けない。以上が、過ぎてしまえばわずか四十年前、我々が十代の半ばを過ぎた頃、ある数日の出来事である。


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