1.再訪しよう、母校に
JR千葉駅で電車を降りて、プラットフォームから見て取れる景色変化のさまを見回してみたのは、最後の帰省から十年ぶり以上あとのことだ。そして、駅から程近い実家には立ち寄らず、改札口を出たら直接その足で訪ねてみようと思った母校へは、十八の早春に卒業して以来ずっと無沙汰続きなので、彼此久しく三十有余年ぶりである。初登校する老学生の抱くであろう面映ゆい感慨と似たものも潜んでいた。
一度卒業してしまえば、蝉や何かの抜け殻と同然、もはや身に不要のものであり、ほとんどの生徒が二度と我が手に触れようとはしないもの、それが母校だろう。
ボクがなぜ三十数年ぶりに遙かな過去へ出かけてみようか、などと思い立ったのは簡単な話だ。以前、在校当時の記憶をなるべく生のまま素材に使った一篇『サヨナラだよ』を書き、昭和43年卒業生同期会の開設したこのホーム・ページに載せて頂いたら、すぐ伊藤幹事のもとへ同期の男女数人の方々からEメールやFAXでありがたい反応があったという。それらが出かける決心をさせた元だ。歳月は早々と過ぎ去り、卒業当時十七、八であった団塊世代の少年少女らは今日、皆もはや五十代である。
高校時代のボクとまるで見知りでない方からも感想文が寄せられた。その中の一通は、ボクの歩いた通学路の記述部分を、注意して読んでくれたらしいものだった。
川の名称で、下校途中の市内風景に「都川」が出てくる箇所がある。千葉の街なかを流れる小さな川に架かった橋(富士見橋)を、その掌篇の起伏に一端の変化が生じる切っ掛けの場としたかった。が、書いてみた時点で、橋の下の小さな川の名がはっきり思い出せず、図書館へ出かけ、分県道路地図帳でやっと見つけた。ああこれだ、確かにこの名だった筈と記憶がよみがえり、ついでにそのページをコピーした。優美に都川といっても、別の都市地図にはその名称が載っていなかった位で、堀割のような川だ。
しかし、その方は都川の出てくる箇所を、感想文中にこう記しているのである。
「都川(正しくは葭川のはず)にポータブルプレイヤーを放り投げる場面など、まるでその現場に立ち会っていたように錯覚してしまいます」と。
ボクの受けた印象を言えば、この方は反論するでなく訂正を求めるでなく、いわば懐かしみを込める響きで、こう書いてくれたのだと思った。他の誰もが読み過ごした箇所なのに、この人ばかりはちゃんと呼称の相違に気づいた。何だか、本来の川の名をちょっと挟まずにはいられない思いを川に対し抱いていそうなのだった。
それにしても、ボクの記憶のどこを探っても葭川なんて川の名は浮かばない。しかし葭川の名称には、昔の土地の湿地風景に由来したと思われる実在の重みがある。あ、だったら千葉市に育った他の同期生たちもおおむね気づいているんじゃないのか。
ボクは捨てずに取っておいたコピー図を拡げてみた。地図上でも幅の狭い川は、向きの違う二つの小流れがくねりつつ、市中でいったん合流し、やや太くなってから千葉港内にある入江の一つ小さな出州港へと注ぐ。その河口に「都川」と記してある。これは以前に見てそうだと分かっている。けれどボクが掌篇中に書き込んだ川の場面は、二つの小川が合流する直前、片方の小流れに架かる橋上で起きたことだ。
こんな小さな流れでも、二つが合わさる前はそれぞれ別の呼称があったのだろうかとボクは地図をにらんだ。虫眼鏡でもって再び小流れの隅々まで覗いてみたが、そこまでの名称は載っていなかった。二つのくねり川は、地図でもほぼ同じ程度の幅しかなく、どちらが主流でもない。以前、そのこともコピー図で確かめてある。
で、おたく的瑣末事にこだわる訳ではないが、実はもう一箇所気掛かりがある。そちらこそボクの記憶曖昧のまま、下校途上に現われる百貨店名を二つ書いたのだ。実在したその名は合っているのだが、出てくる相互の位置関係があやふやだ。小川の名前のミスに気づいた位の人ならば、当然そちらにも気づいたはず。わざわざ指摘はしなかったのだろうが、そうと気付いたら急に恥ずかしくなった。手を尽くすつもりなら千葉まで行って実地に調べられたものを、手間を惜しんでみすみす手抜きしたからだ。
ひょっとして、その人以外はミスに気づいていなかろう、だから素知らぬ顔で忘れ去ろうとしてみた。結局ダメだった。他は知らなくてもこの自分が知っている。半年ほど過ぎてある朝、目が覚めたらボクの口が、ブツブツこうつぶやいていた。
「よし今日だ、千葉まで行ってこよう、昔のあの辺りまでだ。川から街から母校から何から何まで気がすむまで、自分の目と足で確かめてくるぞ」2.千葉を離れて32年後、実家周辺の変貌
千葉市にある親の家をボクが離れたのは二十歳のときで、以来ちょうど三十二年間が過ぎた。ボクはこの期間、年に一度か二度、盆暮れにちょっとだけ泊まる実家周りの様子しか知らぬままだ。それも両親存命のころ迄であって、その後は足が遠のき、つい最近は十年以上にわたり電話か簡単な葉書でしか挨拶をしていない。実のきょうだい達の顔も見ていないのだから、当然、昨今の千葉市街に起きた変化は知らない。
ただし、最後に実家をおとずれた十年以上も前の夏、すでに市内には急激な開発変化が現われており、その余波が実家付近にも生じていた。家の前の国道や隣近所にあった路地までが妙に幅広くなっていた。埋立て地へ引っ越した官庁街への交通手段として、千葉駅周辺から道幅がドカンと拡げられたその一環で、町内が様変わりしたのだ。
以前の町並みを取り払い、区画整理で増設した新道に、全く見覚えが無く、しかも新道の周囲にやたらと背の高いマンション群が出現した。あれは平成のバブル景気に浮かれた最盛期の造成物だったのだ。千葉市もあの空騒ぎの列外ではいられなかった。
当時、家人によれば今後、新マンションの下腹ぐらいの高さを都市モノレールが千葉駅から埋立て地まで開通予定とのこと。その高架線が、実家の正面にそびえる高層マンションの間をも通過するそうだ。この近辺、元はといえば東京湾の埋立てが大々的に始まる昭和三十年代後半まで、ひなびた海っぺりだ。下の遠浅の浜でとれた海苔をヨシズへ四角くのべ広げ、天日干しする裏庭のある生活景色が珍しくなかった。
小学生の頃は夏、特等席となる二階座敷からジュースやスイカを手に正面を見上げていると、毎年、港祭りの千葉港で打ち上げられる納涼花火が、夜空の闇へ大輪で炸裂してパーッと華やかに拡がり、ややタイミング遅れで到達する、「ポン、シューウウウ……ドドーン…ジリジリジジッ」と空を焦がす独特の大音響と併せ、満天の大パノラマが楽しめたものだ。だが、バブル真っ盛りのこの時は視界を遮られ、高層マンションのアルミサッシ枠が、元の海へ沈む西日を、ギラギラ反射させる非情さが、目に仰がれただけ。かつて下の海岸一帯は、毎朝毎夜、潮の干満差によって沖合い二キロメートルにもわたる大砂州が出現し、再び上げ潮となって滔々と海水が満ちてくる浄化作用の有る環境下、無数の魚介が移動しあるいは住みつくさまが信じられないほど豊かな海だった。当時意識しなかったが、最後にそれを観、記憶にとどめた証人が団塊世代の子供達である。
また、実家周辺の町内風景もすでに一変していた。家の前の狭い国道14号線をはさんで、かつて二十年前にはあった接骨医院や電気部品屋、あるいは三角形で建て家に不向きな空き地の石材置場、その空き地を荒々しくうずめた雑草と自動車修理工場の大きな立て看板、そしてその背後に、昔の色町の名残の楼閣が老朽化しまばらに立つ光景など、すべてが跡形もなく消え失せ、実家の前に今、ボクの見知らぬにぎにぎしい水商売の店が真新しい軒を連ね、ずらり並んでいるのが奇異なほどの景観だった。
焼鳥屋、寿司屋、チェーン店「村さ来」の飲み屋、スナック、韓国焼肉、炉端焼き、割烹料理屋など、まるで繁華街の一角がそっくり引っ越してきたようではないか。
ボクがいた二十歳頃まで実家付近に夜のネオンや飲食店など皆無だった。唯一思い出せるのは、ぽつんと一軒場違いにあった寂れた色ガラス戸の、数人しか坐れないスタンドバーだ。あるいは、夏だけ青い旗を立てた掻き氷屋か、老夫婦がやっているヒマな蕎麦屋以外には無く、たまに食事の店へ行くといったら、家から十分ほど歩いて京成線の踏切をこえ、国鉄千葉駅の裏手へ出なければ何も無かった。だから寒い冬の夜などは、支那そば屋が町内を順ぐりに回って鳴らすチャルメラのぷわーんという音がとても待ち遠しく、鍋丼を手にした母が呼び止めに出ていったものだ。物売りを待つ楽しみがあった。
それが今や眼前に七色弁当のおかずよりけばけばしい姿で立ち並んでいる。千葉、いやかつてボクのいた町はどうしちゃったのか、と、その時切なく思ったものだ。3.千葉駅前の浦島太郎
約十年前の実家周辺の変貌ショックがまだ心にあったものだから、ボクは電車を降りた時、まず大抵のことには驚かない心構えだった。まあ多少は、母校や例の小川までの道順が市街地の変化でわからりずらく、駅から歩く途中まごつくだろう、それもいい風情じゃないか、故郷をさまよう図だ、などと腹六分に高を括っていた。
雑踏する東口改札からJR千葉駅を出たのはちょうど正午頃のこと。見た限り、駅ビルの構内は、これが落成した昭和四十年前後の面影を骨組みにとどめていた。どことなく骨格デザインが当時風なのである。それを認めてボクは旧知のものと再会したごとくほっとした。また構内キヨスクの売店には、相変わらず千葉県特産の落花煎餅や殻付きピーナッツなどの土産品が、昔から野暮ったかった田舎くさい商標登録で並んでいる。それが少し懐かしくもあった。せっかく千葉迄来たんだ、香ばしい落花煎餅を知人のみやげに買ってゆこうか、以前より値が上がったかな、など余裕で眺めたりした。
が、千葉を見捨てたこの根ナシ草の抱いた、気分の良い郷愁はそこまでだった。そんな感傷に一寸でも浸った甘さを、激変したこの街の現実風景は許してくれなかった。一歩駅前へ歩き出た途端、正直いってボクの目玉はクルクル渦巻いた。眼前に、「むかしむかしうらしまは」で歌い始める童謡、よく知っているあの昔話のSF的な結末が、正に現われたのだ。浦島太郎の帰還、あれこそタイムマシンの旅行物語です。
浜辺で助けられたのを恩に着た、律儀でものいわぬ水中リムジンの海亀に、太郎がドラゴン・パレスから再び千葉海岸まで送り届けてもらったらば、故郷の白砂青松であったはずの浜が、全面アスファルト舗装でおおわれ、でーんと聳え立つ鉄のモンスターがいたという感じで、都市モノレールの高架橋と高架駅とが、頭上の空を塞いでいた。
息を呑むというのはこのことに違いない。長らく千葉を離れた同期の方、試しに千葉駅の前へ行って見てご覧なさい、浦島の心が分かるから。いきなり目の前に、モンスターみたいな鉄塔がそびえ出たものだから、こりゃァたぶん例の都市モノレールの始発駅だろうかと、とっさになんとか気を鎮めはしたが、正直、生身は慄然とした。故郷をさまよう散歩を楽しむはずだった心境が、ボクの中で呆気なくガラガラ崩れ落ちる音がした。それどころか突然、幼時の迷子体験のまま今ここへ舞い戻った気がした。
いきなりのっけから、いくらなんでも無茶苦茶なご対面だよこれじゃ。一挙にボクの気持ちは、故郷の漁村へ舞い戻ったさいの浦島ボーイ状態になった。
「かえってみればこはいかに もといたいえもむらもなく みちにゆきあうひとびとは かおもしらないものばかり」という通りで、この歌詞は実によく出来てる。
太郎の場合、タイやヒラメの舞い踊りを見ながらうっとりして、四次元時空の砦である竜宮にどの位の期間いたのだろう。没我の楽しみは、時間経過が迅速だ。
「ただめずらしくおもしろく つきひのたつのもゆめのうち」とか。仙界の珍貴な美酒も供された事だろう、連日それこそ酒池肉林、贅沢三昧の長逗留だったはず。
だが結局、「あそびにあきてきがついて おいとまごいもそこそこに」と、故郷懐かしさに戻りたい、次は、もう帰る帰る、そればかり身勝手に言い出した男心は、乙姫にきっと恨まれたに相違ない。この男、乙姫の心を思いやったり出来ないのだ。竜宮側が精一杯もてなし、タイやヒラメの踊り子を総動員し大サービスしたのにである。
美酒を口移しにしてくれた乙姫、実は歳月の残酷な操り手であり、且つ「えにもかけないうつくしさ」の宮殿をも造れる才色兼備の仙女だ。怒らせたら恐い。
駅頭にこんなモンスターをブッ建てちまった千葉県人の感性がしれない。元千葉県人のボクは茫然と見上げる目を、モンスター高架駅からやっと引き剥がし、駅前ロータリーの見渡せる地上へ戻したら、この下界まわりも何やらゴチャゴチャして訳がわからない。見覚えの無い変奇な建築、ド派手な飾りつきのビル建造物がひしめき合い、辺りを閉じてしまっている。目のやすめ所がすこしも無くて、息が詰まり、酸欠空間の感じだ。乱雑なこの風景の一つ一つが一体何なのか、見直して確かめる気すらおこらない。
一瞬で降参することにした。歳とった者が行使してもいい拒否権である。
「もういい、わかったよワカッタ。あんたらが誰で、ここをどうしてしまったのか、これから又どうしたいのか全く知らないけど、アア腕力は凄いよ認めるよ。これでもまだ不満足なんだろ。でもそれはオレに関係ないから、好きな様にすればいいや」
疲れた訣別のようなむなしさを、この暴力的な駅前の眺めに抱いた。入り口で、もはや母校への徒歩行をボクに諦めさせた、この市の代表的変貌ぶりなのだ。
浦島ならばここで、丈高い浜辺の松の根方によって坐り、あの竜宮の優しい乙姫のプレゼントを虚ろな目で見、つい紐を解いてしまう。ここからこそ唄は残酷だ。
「かえるとちゅうのたのしみは みやげにもらったたまてばこ」の心躍りぶりから一転し、「こころぼそさにふたとれば あけてくやしやたまてばこ」に陥ってしまう。
ボクは幼い頃、この童謡を自分ひとりで歌うたび、なぜ彼が玉手箱を開けてしまうバカをやったのか、その理不尽さがどうしても解せなかった。おさな心に、激しい憤りと遣る瀬なさとを感じた。でも今は、浦島の孤独で切ない心が解るような気がする。だって彼にはもはやその玉手箱しか、自分の生きていた思い出との接点が無いからだ。
ところが蓋を開けてみたらば、どうだ。中から白煙が一筋立ち昇っただけで、孤独なこの男は、煙の去った後、箱の中には何も無いことを見いだす。無である。
「なかからぱっとしろけむり たちまちたろうはおじいさん」と、残酷無比な結句にあるごとく、これは自分から去ってしまう男に対する乙姫の復いせだったのか。
が、ボクはこう想像したい。このとき実は浜辺の松の根方に、タイムマシンの仙術から解き放たれた男、何百歳かとも見えるカサカサに干からびた男が一人倒れている。彼の生の寂しさは、いま完全に消えた。そして浜風に吹かれた浦島の身は、直後に時間を取り戻して風化が始まり、さらさら崩れて浜の真砂と入りまじり跡形無く飛び散ってしまう。あとに残っていたものは、海底に永遠の命脈を保つ竜宮城で、再び誰か別のお客さんをもてなす住人たちがヤンヤと打つ手拍子を遠く響かすような、波の返す音ばかり。4.千葉高へ
ボクの場合、目の前にあるこの街こそ、これから開けるはずの玉手箱なのだった。それで、直ぐタクシーに乗車して母校へ直行するのも癪だから、駅前ロータリーへ右回りにボンボン走り込んでくる路線バスにしてみようかと考えた。何行きに乗ればいいのか解らないが、すこし遠回りなどしても、街の変化ぶりを車窓から眺めてみたい。
ところがバスの車体色だって一つじゃなかった。ざっと見ている内、小湊鉄道、京成電鉄、千葉交通と次々に各運行会社の行先違いが早回し写真みたいに現われる。バス停の位置だって、おのおのの会社で乗降場所が違っている。その煩わしさはどうだ。駅前がいっそうゴタゴタと秩序無く、目にザワザワとうるさく感じられる訳である。
内心そんな文句を並べる間に、バス待ちをしていたご婦人に千葉寺方面を尋ね、指さされたかなり先のバス停で乗りこむ。再度運転士に聞き、県庁横でおりた。駅頭から続く広いまっすぐな道を十分も乗っていなかったと思う。その間に車窓から見た街の景色は何の見覚えもない姿で、全く、「かえってみればこはいかに もといたいえもむらもなく」の歌詞どおりだ。全てが大仰に変わってしまっていた。三十年という月日は過ぎてしまえば一瞬だが、街の顔が一変するには充分過ぎるのだろう。
バスを降りて、隣りをよくよく見れば、だいいち県庁すらも新しいビルに建て替わっていた。その時、ようやくボクの頭の中にどうやらこの新県庁舎、元の位置のままらしいぞという見当が浮かんだ。何となく土地勘が戻ったのだ。すると三十年以上前の少年の方向感覚が少し蘇った。とすれば、訪ねたい母校は、この新庁舎の正面やや北東向きにあるはずだ。なにせ高校の三年間は、毎日毎日、勉強がいやで登校がいやでも仕方なく、ここにあった旧庁舎の構内を自転車で突っ切り、近道通学していたのだ。
で、ボクの足が自然に新庁舎前の広い駐車場とドライブウェイとを目的があるように横切りだした。それでも又二度通行人にたずねて進むうち、やがて、とある交差路の角に出た時、心臓が締めつけられるような確かに見覚えのある通りと出くわした。突然、当時の通学路に自分が立っていることに気づいた。沿道の左に県立図書館らしき大きな建物が新たに加わってはいるが、その先の正面に、狭苦しい二叉の分岐路が見えている。ああ確かにここだ、当時と印象がそう変わっていない。毎朝通学にこの方角から入って行った風景である。もう母校正面の急な登り坂へ導く、曲がり角にも近いはずだ。
とその時、二叉の左の路から制帽も鞄も持たない高校生らしき男の子が一人、手に紙束を抱えこちらへ歩いてきた。ボクは思わず立ち止まり、彼を観ていた。少年はコンビニエンス・ストア(むろんこんなもの当時は無かった)に入り、数枚コピーしてまた元の道を戻っていった。ボクが彼の様子をじっと観ていたのは、そこにかつての自分の面影を無意識に見つけようとした為だ。男の子はボクの見送る視線に気づきもしなかった。ボクは道端にボケッと突っ立っている、頭の薄い、ただのオッサンなのだ。
続いて一人、二人と手ぶらの生徒や、容貌から教員と思われる背広姿の男性が同じ方向からやって来た。後で気づいたが、今は学校の昼休み時間だ。そして坂の途中ですれ違った教師らしき人は、どう甘く見積もってもボクより確実に十歳は下だった。
自分がいま、母校の教員の年齢を越えてしまったなんて俄かには信じがたい。昔日少年の頃、母校の先生方は年長の重々しさに満ち充ちて見えたものだ。たった昨日ボクがこの坂を学生服で登下校していたと思えるのに、今は断然ボクが年上なのだ。5.取り払われた校舎群と単純な箱形校舎
が、信じられないものと出会う本番は坂を登り切ってからだった。なぜって、坂に続く石の正門の奥に在った、ボクの知っている校舎群が跡形もなく消えていた。そこに唖然と立ち尽くし、まわりを見回し、確かに何も無いのだと知り、けれどまた見回して、もうどうしようも無い事だと、頭が現実を受け入れる迄、ボクはじっとしていた。
母校創立百二十五周年とか聞く。確かに、校舎が風化し古びれば、学校当局としては何度目かの建て替えを行っただけに過ぎないのだ。丁度ここまで来る途中に見た街の中の様子のように。でも実際此処に来てみて自覚した。クラシックな外観を持っていた母校の木造二階建て校舎は、下の街の風景など比較にならぬ強さで、もっと鮮明にかつ親しみ深く、ボクの中で時間を止めながらずっと存在していた。だが、辺りを何度眺め回してみても、此処の現実はあっけらかんとして元の校舎群をかき消している。
ぼんやり溜め息を吐き、いつまで見回していてもキリがない。現在の正面玄関にあたる単純な箱形の建物へ入り、来客用のスリッパに履き替え、事務室の受付窓口をのぞいてみた。気づいて立ってきた昼休みの女性事務員に、校内の見学を申し出てみた。
「あの、どちらさまでしょうか?」
ハハハ笑えるな。そりゃそうだ。子供の受験校の下見シーズンじゃないものね。
「昔の卒業生です。校庭を見て回りたいのですが」と答えたのへ、彼女はやわらかな笑みであっさり頷いた。氏名は、何年度卒業ですかとも聞かないのは乙姫様なみだ。
「どうぞご覧になってください。校舎内もご案内いたしましょうか?」
親切そうな彼女は、校舎内に直接通じるらしい廊下へと目顔をふり向けた。わきの通路の先が、人けなく、がらんとした雰囲気だった。むき出しのコンクリート壁と床とが生徒のいる四階建て棟の階段下まで、そっくり見通せるのだが一見しただけで、かつての木造校舎のとぼけた板敷き廊下に比べ、冷え冷えとした感じの印象である。
案内の申し出を、悪いがボクは遠慮した。「いえ、建物が当時とすっかり変わってしまっているようですから校庭だけ見せていただきます。よろしいですか?」
許可を貰い、外へ出て回ってみた。当時の建物でまだ現存していたのは、図書館、記念館の一画、そして講堂、この三つだけだった。図書館以外は施錠され閉まっていた。試しに外から戸をガタガタ揺すってみたが記念館も講堂も開きはしなかった。三十年前はこの戸の向こうへ入って、講堂での入学式や演奏会や卒業式に出たり、あるいは記念館内の購買部売店で文房具や昼食の買い物をしたり、そこの二階の広い部屋で書道や美術の授業を受けたり、運動クラブなら夏期合宿も行ったのだ。けれど今、記念館の中に売店は見当たらず、使われていない内部は雑然と汚れている。講堂周りに気の合う同士でやすんでいる女生徒の影もない。元気が無いと感じられる程ひそやかな空気だ。
現在の校庭を一回りするのに五分もかからなかった。新校舎の間の長細い庭は、園芸クラブが手入れしている花壇一つなく、農薬をまいたか草枯れてただ寒々しく荒れ、そこを過ぎて裏側の校庭全景は、だだっ広いグラウンドの他見るべきものがない。いや、そこをぐるっと回って見たら、只一つだけあった。近年、新たに設けたフェンス囲いの立派な弓道場だ。昼休みながら部員の少年が三人、少女が一人、広い板の間から和弓を構え遠くの円的を射ていた。当時とまったく同じ大型和弓のツルの絞り方だ。但しそこにいた少女の足もとは、この五、六年間全国津々浦々で女子高生に疫病のごとく蔓延している例のだぶだぶの白いルーズソックスだった。若い寸詰まりの大根足にも、道場という神聖な場所柄にも、ルーズソックス姿はみっともなくて、そぐわない。
十六七才か、幼すぎて君らは歴史を知らないだろうな。弓道部は、ボクらがここの一年生であった昔、昭和四十年、同級生某君の抱いた熱意によって創始されたものだ。同期でもそれを知らない者は知らないままだろう。当時、この裏手にあった草ぼうぼうの原っぱの中の深い遊休プール、乾いたその底が、新設の弓道部に許された唯一の練習場だった。柔道部から古畳のおさがりを貰ってきて、的場の土嚢がわりに積んだのだ。それが三十年以上前である事を、いや別段君達に知って欲しい訳じゃない。これは単に昔を懐かしむ繰り言だ。だって君方はまだこの世に生まれてもいなかったんだから。
変なオジサンが脇でじーっと眺めているものだから、彼らは射にくそうだった。
母校坂下、コンビニ店前の公衆電話から某君の事務所に連絡を入れ、「いま母校を見終えて出てきたばかりだ。弓道部の隆盛おめでとう」と彼へ伝えた。
彼からは、「そこから千葉駅まで昔の通学路を歩いて街の様子を見てこいよ。先日俺も用事があって母校を訪ねたんだ。ずいぶん変っていたろう。いっとくけど街も変わっているからな。道に迷わないようにな」と優しげに聞こえた。
某君の、太くて鼻にかかり気味の声は、過ぎ去った年月の間にごく丁寧になった話法を別にすれば、そっくり昔の同級時のままだ。だのにボクは三十年以上も前の場所へ再び来て、そこから彼の声を聞いている。過去から現代へ通話しているような錯覚もある。つい半年前は自分がここに来るなんて、ちっとも考えていなかったのに。
「大丈夫。もう迷わない」ボクは彼へ強気に答え電話を切った。6.昔が残る通学路
本当にそうなのだ、頭の中で母校側から千葉市街をふり返ってみたら、さっきバスの車窓から見た何もかもが、すっかり様変わりした訳ではないことに気づいた。例えば、特に車道が増えたり道幅が広がったりしているが、他のすべてが当時と違う位置にあるわけじゃない。掌篇に書いた下校路をたどるのはそう難しくなさそうなのだ。
まず、母校坂下の狭い二叉路の近辺を下見がてら往復してみた。この辺一帯は古くから密集した住宅街で、時代変化の影響を受ける余地があまり無かったようだ。それでも少子化のせいか亥鼻保育園が消えて駐車場になり、材木店の隣の銭湯が姿を消してコンビニとなり、そして木造アパートも潰され瀟洒な鉄筋マンションが増えた。まったく昔どおりの店構えのまま商売を続けているのでびっくりしたのは、母校の急坂への曲がり角にあるクリーニング店だ。そこでは、鉄の窓格子にぽろぽろめくれ出た赤錆が時の推移を見せていた。しかしガラス窓の奥の作業台に、アイロンの吹く蒸気を人影とともに見透かすことが出来た。全く同じ光景を通学時に眺めた覚えがある。過去と現在とが混在し合っている感の強いこの路地通りは、今後も母校の生徒の心象風景に残りそうだ。
次は下校ルート確定のため、見かけが同じような十字路の角を、二度わざと別の向きから眺め直してみたりで記憶の断片をたぐりつつ千葉駅方面へ戻り出す。
やがて、ボクの知っていた古い千葉の町並みが、薄皮を剥ぐようにして今の表通りや沿道の商店の風貌の隙間から少しづつ現われ出した。例えば、見知らぬ真新しい道路があっても、車の通行量を見回しただけで、アア、これはおそらくあすこの通りとつなげて渋滞を緩和しようとしてるなと見当が付いた。また、もし店構えが現代風にまったく新たに変っていたとしても、以前の商売のままの金物屋、その両隣りが毛糸屋とお茶屋のセットとわかった場所もある。新店舗の裏にある、主人一家の住居が昔のままであったりするのも目に入りだした。千葉の激変ぶりのショックからひとまずボクの目は立ち直れたようだ。しかし、もしこれが浦島のように何百年も経っての帰還であったら、眼前の現実世間の様子は天と地の差で見分けがつかず、その時感じるであろう心細さと来たらたまるまいな、としみじみ想像がつく。きっと大昔、浦島太郎のお話を考えたひとは、自身があれとよく似た経験をしたか、または誰かそんな目にあった者から聞いたのが大元に違いない。単に空想だけでは作れないお話のような気がした。
7.都川、暗渠のようにモノレールが覆う葭川再び県庁を訪れ、今度は新庁舎の吹き抜きを車に気をつけてくぐりかかる。というのは庁舎中央のどてっ腹に、車主体の四角い通り抜け穴があり、千葉駅方面へと絶好の誘導口になっているのだ。そこをくぐった。すると突然、なにかに触発されたらしい記憶像がボクの目の中に浮かんだ。その像は、昔、緑色っぽい水面を狭い川幅に見下ろしながら小さな橋を自転車で渡ってゆく高校生の姿を、現在のボクに見せた。昔ボクが見た、その橋の欄干が濃い葡萄色であったのまでが、如実に見えたのだ。
明らかにその記憶像は、『サヨナラだよ』の掌篇中に書いた川の場所ではない。ただしその場所とごく近い位置に在る橋であるのを、僕に示唆してくれた。次いで橋の名を思い出した。羽衣橋だ。それはいろいろあるボクの通学コースの中で、特に気に入りの進入路の一つをその背景にもった橋だ。時代がたってしまったので背景の詳細までは記憶にはっきりしないが、確か県庁正面の斜め前あたりにあった狭い町筋だ。
記憶像の中では、旧県庁正面から見て、左斜めの角度で入ってゆくやや狭い道へ、羽衣橋の向こうはつながっており、両側のビルに挟まれた上の空がぽっかり開いている。何の意味もない景色なのに、ボクの中で記録され保持されている。一方、そばに在った筈の旧県庁舎の姿はちっとも思い浮かばない。記憶の不思議だ。
現在では、新県庁の敷地から狭い川を一跨ぎするように車用の幅広い橋が架かり、下の流れを隠している。だが橋の脇から下をのぞくと、流れのくねる水面は、意外なほどの水位があった。その訳は良くわかっている。誰に聞かなくたってボクは知っている。これは今ちょうど東京湾の潮位が上がって満潮の頂点にある為だ。でなくては、雨降りでもない市中の川に水が満々と留まっている筈ないし、海から遡行したボラが水面を跳んでもおかしくない。橋の袂にはめ込んである銘盤を読んでみた。凸文字で「都川」とあった。これが、ひとりあの方だけが気づいて指摘された本来の都川なのだろう。
じゃあ、小流れの名称はやはり合流以前の二本別々に付けられていたのだ。この都川の流れと、あの掌篇中の川の流れとはごく近い筈だ。ボクの頭によみがえった土地勘では、互いに合流しあう寸前なのである。頭の中に互いの流れの位置が見えた。
しかしなぜその人には、わずかな距離差による二つの流れの名称相違が、あの掌篇中のあやふやな下校路と富士見橋の名から分かったのだろう、と考えてみた。
あの意見をくれた方が、改めて今日のボクのようにわざわざ千葉市街を歩いてみたはずもない。だから答えは自ずと一つに絞られてくる。たぶんその同期生は三十年前の当時、この県庁付近に住んでいたか、または子供の頃からこの近辺を熟知していた筈だ。だからこそあの掌篇に触れたときすぐ、ボクの犯したミスに気づいたのだ。近接する二つの小流れに別々の呼び名があるのを当然のように承知していた筈だ。そして都川のほうが、その人にとってはより親しいものであったろうと想像できる。
なぜなら、『都川(正しくは葭川のはず)にポータブルプレイヤーを放り投げる場面など…』の文意は、葭川をいうようで、実は都川の方に心の比重が掛かっている。ひとり決めにそう結論し納得したボクは、掌篇中の川の位置をみつけに行った。
はたして駅方面へ二百メートルも歩かないうち、一つに合して名称が都川となる直前の二流れのうちの一方の流れ(掌篇中の川と橋)が今でも当時の位置のままあった。
但し、驚くほどその様相が変わっていた。こちらのには、さっき「都川」で見た、くねる流れの上にあるべき開けた自由空間が、全く無いのだ。
のけ反る感じで頭上を仰げば、この川の真上に沿って都市モノレールの高架線が配置されたことにより、空が塞がれて無くなり、空気が重っ苦しい。川の流れの景観を塞ぐなんて何という愚挙だ。だからその底の流れはしんねりと日陰であり、暗渠のようにトロリと動かぬ水面を見せている。太陽の光をキラキラ反射せぬ川の流れがいったい何処の国にあるだろうか。かつて海岸を埋め立てた愚妄を、此処でも繰り返している。川として認められなかったこの川は今や不自然で醜く、おぞましい程の眺めだ。
川自身の罪でないのに、悲劇的な水のたたずまいが痛々しく、顔をそむけたくなる水面の表情だ。いっそのこと殺してやって全面を塞いでやればいいのに。
ただ、「葭川」とその人が指摘したとおりの名が、富士見橋の銘盤に読めた。真鍮製の銘盤は自動車の排気ガスで濁り、黒っぽく錆びている。すごい交通量なのだ。
銘盤には「昭和六十一年竣工」ともあったので、再度、外観を見直したらこのコンクリート橋は十三年前に架け代えられたのだ。だが新品感はなく、下手な運転でもって欄干の一部をこすられ崩れていたり、ごっそり削られてコンクリート内の砂利が露出し、これがボクの知っていた富士見橋の末裔かと思える程くたびれ果てている。
それにしても橋の周囲は、我慢しがたい位に車の大混雑と人出でざわついていた。橋の袂の信号を、息づまるような人波がひっきりなしに渡っている。広い道幅が人で混むから青信号を皆せわしない駆け足だ。見回せば、空気は少なからず排気ガスで濁っている。頭上を見上げても、上へ上へと競争で商業ビルと広告看板とが幾層も林立しており、目の休めようが無い。かつての親しい下校路だが、ここは新たな一大中心街である。
四方から湧き出て我勝ちにこの交差点を通過しようとする自動車の出す騒音と、繁華街の店頭から発される、誰の迷惑も考えぬけたたましい宣伝音と、そこへ、わざわざ押し寄せてくる人混みとが、寸時の切れ目なく続く場所だ。道にものが落ちている。路上や歩道に通行人の手から食べ物のカスや容器が平気で投げ落とされ、ゴミ溜めのように散らばってゆく。現代通行作法だ。車に轢かれて弾けたプラスチックがきしむ。
ここを通る千葉の人々は、「ただめずらしく おもしろく」て異様なほどけばけばしい繁華街へ、買い物や遊びに行くのにただ夢中なのだ。道に落とされている容器は、知らず知らず内にその足で踏まれたり蹴飛ばされ、あちこちへ転がっている。食べ残しが多い空容器はそのたびにひしゃげて、ポテトフライ、アイスクリーム、コーラ等が舗装路へこぼれ出ている。それを人々は誰も見ないし、気づこうともない。
くわえ煙草を吹かしながらギスギス歩き、露な胸まわりにこれ見よがしに下着のシミーズみたいなもの(キャミソールとかいうらしいが)を着ている若い女もたくさん通る。その破廉恥さもこの雑踏中ではすでに日常的で目立たない。そんな現代風俗だ。
ついにボクは喉渇き疲れ切って欄干に手をつき、口の中で低く歌い出した。変なのがいると思われたって構わない。誰に聞かれてもいい、独りやけくそだ。
「かえってみればこはいかに〜 もといたいえもむらもなく〜 みちにゆきあうひとびとは〜 かおもしらないものばかり〜ってか? さーみしいなあ」
信号は短時間でひっきりなく変わり、車と競争で駆け渡る人の足は何という目まぐるしさだろう。だから、足下の葭川の暗い悲劇的な小流れに見入るヒマ人はいない。
ただ、現代の玉手箱を覗いてしまい、気力萎え果て、キズだらけの橋の袂へ凭れるようにしゃがみこんだこの人、三十有余年後、浦島になったボク一人を除いては。