17歳の家出志願

−父への鎮魂歌−

A君

 あれは高校生活最後の夏休みに入ったばかりの日で、猛暑が続いたころだ。

 僕はお袋へ、「クラブ活動に行ってくる。夕方遅くなるかも知れない」と嘘を言い、手ぶらで自転車に乗り、市街中央を走り抜け、蝉が鳴くのみで人声の無い、静まり返った葛城丘の校舎に来た朝がある。通い慣れた道沿いの風景が、今朝は目に愛しかった。

 この朝僕は、今度という今度こそ親の庇護と訣別し、家出を敢行するつもりだった。少年じみた興奮がもとの気紛れでなく、僕にとって不可欠な選択だと思った。でもその実は理解できない勉強をするのがもう厭で、教室を逃げたい心が囁く誘惑なのだった。

 夏休み前、ろくに計画が立たぬままそれらしき支度を始めた。気の弱い者ほどまずは拙速でも形を整えつつ、揺れやすい心を、一つ向きへ追い込むものだ。
 どこかに落ち着けるまで、それが何処とは明確なイメージが湧かないにせよ、しばらく放浪旅を続けるに必要と思われた品を毎日少しずつ家から持ち出して、校舎の廊下にある個人ロッカーに蓄えた。夏場で、家出荷物は大した量じゃない。下着、洗面具、缶詰、割り箸、正露丸(僕は下痢しやすかった)、手提げバッグなどだ。むろん電車賃や当面の食費に回す分の資金は月々の小遣いや正月のお年玉から少しずつ貯めてあった。が大した額ではない。家出後は、きっとじきに僕は何かの親方と出会える筈だった。その人のもとで修業をする。とりあえず業種は何でも好いし、頑張って人並みになる予定だ。

 一学期の最終日、ロッカーに鍵を掛け、僕の意志はついに定まった。これ以上厭々教室にいるくらいなら、親や自分を欺かず、時の過ぎるのを只待たず、早く世間へ出て、学歴の無い小僧扱いでいいから自分の身体を精一杯働かすことだ。やっとその覚悟が出来たのである。前提条件として僕は、小僧の生活を丸きり知らないわけじゃなかった。

 小さい頃から、父の店の人々を見て育っている。父の店で働く職人さんは皆、中学卒業と同時に田舎の親もとを離れ、住込みで来ていた。使い回しにされる見習い時代から、次第に手に職を付けてゆき、やがて一人前になって嫁を貰い、アパートを借りたり分譲住宅を買ったりして妻子を養う一家の主人になっていく。あのプロセスならば僕にも我慢できる範囲だと思った。これは、決して職人さんの生活を侮っていたのではない。

 決められた授業を、教室でぼんやり聞くよりは良い。いや違う、僕には教室に坐って先生方の指導に学ぼうとする意識が元々ないのだ。父の店にいる職人さん達のほうが日々喜怒愛憎の呼吸に満ち、僕の目に、彼らの動き合う姿は生き生きとして映った。

 当時よくこう思った。自分が望まぬのに、なぜこれ以上学校へ通わねばならぬのか。教室の外にこそ多くの社会生活があり、もっと自分に適する分野があるのでは、と。
 十四五歳の頃、僕にはこれから先自分を待っている人生の持ち時間がものすごく長ったらしく、理不尽で退屈なものに思われた。五十歳を越えた今、あの頃の実感を改めて呼び覚ますのは困難だが、高校生になると、殊に時間の遅滞感が強まった。人生の一区切りであると当時僕が勝手に考えた二十歳までが、あとまだ四、五年もあるだなんて、うんざりするような毎日が続くだろうなと気が重かった。早くそれにケリを付け、別の新たな形に転換してしまいたかった。なぜなら親許から学校へ通う日々は、子が個人として目覚めるほど矛盾だらけだった。その大元は、子が生活の基盤を親に負っているせいだ。

 一方どうだろう、子の内側の覚醒は制限のない自由を求め出す。その衝動は知識の充足にも依るが、多くは身体的に著しい性の発露に悩まされるからだ。性的なストレスを密かにしのぐ工夫を、どの子も発明するはずだ。それが、大人と子供との境目だ。
 親が無心に提供してくれる住まいや食事抜きに、子の生活は有り得ない。子が気がつけばもう十数年来そうなっている。だが、それを憎もうとする心が子に生まれ出る。子供にとってその芽生えは、良い悪いの区別でなく、単に時機の到来だ。ここに性ホルモンの分泌が作用しているのは間違いない。少年少女はホルモン分泌の被害者なのである。

 子が、親との絆を断ち切ろうとする衝動は、女の子はそれをセーブする能力を天から授けられているようだが、男の子なら多かれ少なかれ中学生の十二歳頃に生じ、次第に意識され、行為に移されるのではないか。親を敬遠したい欲求と、同時に自分を親に代表される大人の間に認めさせたいという矛盾だ。が、これは思春期を過ぎると多くの人が自然にどこかへ置き忘れてくる一時的なハードルらしく、生理上の特質だ。

 さて、親許から急に子供が逃れようとする事態は社会的禁忌で、許されない。過去どの時代にも、現状に不満を持つ子の無謀な暴走を、大人層が食い止めようとする動きはあった。現実の中に矛盾や不条理の壁を認め、その埒外に食み出さぬ我慢こそが少し長い時間軸で見れば社会規範に順応するただ一つの道、と悟った多くの大人の経験則だ。

 但し、そこに齟齬が生じる。いつか大人が失ってしまう十代の頃の切実感は、十代の肉体にしか宿らず、かつその残影は消えやすい。元々が内分泌による副産物だ。内分泌の活発化は身体を大人にする働きである。筋骨を補強し、声変わりさせ、乳房を膨らませたりするが、同時にその代価として自己との戦いを子に強いる。味方は自分しかいない戦いの始まりだ。内なるその戦いは酷薄で一、二カ月での短期勝利などと縁遠い。

 僕には日々の時の経つのが泣きたくなるほど切なく遅く、鈍重に感じられた。何をもってしてあれほど焦るように時間を遅く感じたのか、五十路に入った今となってはもはや当時の心理を回顧しても断片的だ。但し、その焦りは常に僕に付き纏っていた。
 たとえば西空の入り陽。上空に残照が輝って一向に消えぬまま、地上では徐々に黄昏が領域を増し、景色が陰翳に黒ずんで行くのを眺めると、確実すぎることを毎日延々と繰り返す天体の現象に、じれったい以上の息苦しさを覚えた。日没から夜の暗に変わるさまでは数分も無いのに、それが長くて我慢できなかった。特に、冬木の裸枝の広がりに映える残照は華やかだが、わびし過ぎてたまらず、光よ早く消えろと叫びたいのだった。
 逆光の西陽が裸枝の向こうから当り、光と影の相克がとどまる、一瞬刻みの永遠だ。それをば少年の持つ敏感が、ストップモーションのように見せたせいだろうか。

 高校に入ってからだが僕は、もう子供時代を卒業だと考えている自分に気づいた。試しに米屋でバイトをやってみたら、一俵(60キログラム)を担ぐ力仕事もこなせた。それで自信を得、僕は何回か父に向かって、「学校を辞めて、今すぐ家を手伝おうかな」と父親の意向のありかを探る目的で、こちらから申し出たことがある。

 父には終戦後に患った脊椎カリエスの後遺症があった。背骨がたわんでおり、その矯正用に真夏でも固いコルセットで胴体を締めつけ、その器具は夜しか外せず、行動が人より制約され、従業人に率先垂範する上の無理も多かった。消耗した父は、他人に見せないながら後年ほどしばしば朝から酒に頼るようになった。外へ出て誰かと呑む酒でなく、独り酔って自身と話す酒だ。

 そんな姿の父が可哀想で、だから僕は、父が内心では、『長男(つまり僕)が店を手伝うと言い出してくれれば助かる』と願っているのじゃないかと勝手に考えた。コルセット装着の父は身が縮み、僕より背丈が小さかった。

 但し、父は僕に向かって一度でも期待を口にしたことはなかった。全くその逆だ。
 あるとき父が真顔で、「お前には、この家の仕事は無理だ。やっても出来ない」と、僕の申し出に対してそう応じた。父の見方によると、意外にも僕の性格は、家業の後継者として失格で、日々父から残酷なほど頼りにされていないらしかった。
 思いつきでない口調で父は言った。「ウチを継ぐなんて考えず、お前は大学へ行ったらいい。親戚の中では初めてだが、動物の医者にでもなったらどうだ?」
 僕が犬好きで可愛がるのを見た上の意見だろうか。だが、それとこれとは違う。
 父から、そんな連れない反応が返るとは思わなかったので、「なぜ僕が獣医で、この家を継がなくていいの。家を継ぐのが当然じゃないかな?」と、真顔で訊いた。
 内心、以前から僕は父親の仕事を継がねばならぬのだろう、と思っていた。それは父の店に働く職人さん及びその家族を食わせる道が、僕の肩に掛かってくる事だ。
 「僕だって、父さんや皆がやる仕事を見ていて内容は知っている。無理じゃないさ。例えば、どんなポイントが難しいか、作業の例を幾つか挙げて言ってみせようか?」
 と、僕は観察した点を喋り、自分の知識を売り込んだ。父や職人さんに教わらなくても興味があれば、子は自分なりに学ぶ。だが父はそれを半ばも聞かず、こう応じた。
 「いや、コツを一々教えてくれなくてもいい。違うんだ。人を預かる仕事はな、頭で分かっていても駄目だ。お前はじき人付き合いに飽きてしまう。長続きはしない」
 と、僕の方を見もせず、僕をはぐらかすように言った。話すレベルが違うという隔たり感だ。父はいつも僕を正面に見、喋ったものなのに。その落差が僕には不満だった。

 しかもこの会話は、酒飲みの父が素面のときであった。その時父が、目を落とした横顔の様子は、いま思い出すと、父が自身の内部を覗き込んでいるみたいだった。
 僕は、「なぜ?」と強く聞き返したいのも忘れて、改めて父を上から下まで一瞥した。これまで長らく知っていたのと同じ人だが、突然、僕は新たな距離を感じた。
 いわば、僕の父でありながら僕の父ではないのだ。男同士と云ってもいい、ああいう違和感と同時に感得させられた一瞬の親密を、どう心で解けばいいのか解らない。
 しばらくして父は仕方ないように、「どうしてだかそのわけを聞かせようか?」
 と、眉根を寄せた大人の顔を上げ、目を僕へ向けた。眼鏡のレンズが光った。

 それはいうなれば僕をすくませる父の側面で、恐い目付きだった。今まで見たことはないが、でもなぜか僕が知っている目だ。父でもなく他人でもない。僕の内側に父がいて僕を見る眼差しであり、すなわち子の僕が父を見守る目で、理屈なしに似ている。

 「学校からお前が帰ってきたときの態度を見れば分かる。もう暗くなっても、大体ウチではまだ皆が働いている時間帯だ。サーチライトを点けて狭い車体の下に潜ったり、部品交換をするんで顔や手が真っ黒なグリースだらけだったり、真冬でも冷たい雨の中でぐっしょり濡れながら夢中でやってくれている。状態がもっとひどい日もある。でも彼らは、お前が学校から帰ってきたのを感じて、ちょっと作業の手を止めたり、横目でそっと見たりして、何気なく会釈したりするんだ。どうだ、それは知っているのか?」
 と、息子の目を見ながらそう訊いた。どうだ、そのぐらいは分かっているんだろなと問う際に目線を外さなかった。元陸軍歩兵の父は微かに苦笑しているようだった。

 小学生時分から僕が、下校姿で帰宅すると、職人さん達の反応は皆そうなのだった。中には僕を呼び捨てにして近寄り、まるで小さい弟のように親しく扱う人もいた。
 「もちろんさ」と僕は不満気に答え、父へ頷いた。「皆の気配りは知ってるよ」
 「そうか、それが当たり前だと思っているようだな?」父は歯を食いしばった。
 息子だから分かるが、父は意志の強い男じゃないし、弁舌も達者ではない方だ。
 父は恐い顔のまま、「それは、皆が少しはお前のことを将来はここの旦那になる人だと考えているからだ。分かるな? それだけお前は皆から期待され、見守られている立場だ。が、近頃のお前は自転車から鞄を外すと黙って皆の傍を通り過ぎて、さっさと家へ上がってしまう。周りに誰一人もいない風にな。まるでわざと知らない振りをしている顔だ。幾つになった。もう十七だな。お前は人よりバカではない。それなのに、この家で働いてくれている誰彼へ、一度でもご苦労様ですの声を掛けてやったり、何か思い遣るような立ち話でも、しようとしたことがあるか。全く無い。そうだな、違うか?」

 父の言い方は、たぶん僕を怒ってはいなかった。だが情けなく思っているのだ。自分の息子としてお前はもう少しなんとかならないのか、と悔しく願う声であった。
 僕は父の、これまで見せなかったような表情にまじまじと見入った。脊椎カリエスで身の自由の利かぬ父が、僕の横面を張ろうとするような姿勢だった。僕は父からなら殴られてもいいと思ったが、たかが自動車修理とガラス屋というウチの仕事がそんなに大事なことだろうか。僕が家業を継ぐには落第だと言っている父の厳しい目を見、そんな風に偏った考えで息子の帰宅を見ていたのかと思い知らされ、僕こそ悔しかった。

 僕は固く腕組みをし、一度ぎゅうっと腕を絞り、傾げた首から父を見返した。不満だったが、直ぐには何と言い返していいのか分からず、口を突いて出る言葉が無かった。
 父はこう続けた。「その訳は、お前が自分自身のことを、ウチの職人仕事とは別の次元に置いているからだ。嘘だと思うか? だったら自分自身にようく訊いてみろ。いや今は何も言わなくていい。後でようく考えてみろ。当人が違うと思っても、ひとさまの目には自然にそうと判るものなんだ。人の見る目は長い間には誤魔化せないものなんだ」

 ひどいことを言う、と僕は身が震えた。それをそっくり投げ返してやりたかった。あんたこそ口に出さないが、従業員に不満を持ってるじゃないか。僕は知ってるぞ。
 だが、僕と気質がよく似ている(と、これまで僕が思っていた)父は、息子を哀れむように見、こう言い足した。ごく自然で、憎しみを抑えた声ではなかった。
 「うちには、お前と一つしか歳の違わない子だって働いている。十八才だ。電話もうまく取れない田舎育ちだったが、彼だって、お前には挨拶をする。ところが、お前は頭も下げずに脇を通り過ぎる。そういう時に彼が、いやここの皆が、お前をどう思うかなんて考えたこともないだろう。皆から見たら、お前は彼らの将来の生活の一部でもあるのにだ。お前は知らないうちに、彼らの期待を裏切っている。これは、父親の責任だ」

 ふだんは口に出さぬ父が、息子のそんな一面まで見ていたのか、と僕は驚いた。
 僕は、「いや、ちゃんと挨拶したことはあるよ。父さんが見ていなかった時だったろうけど」と言い訳を述べたかった。「僕は小さな声でなら何百回も『お疲れ様です』と言ったことがあるんだ。でも、年上の人たちに慰労の言葉なんか、恥ずかしくて大きな声では掛けられないもの。本当の気持ちだ」と、父へ本音を訴えたかった。
 しかし、それは父が言ってくれた事とは、本質が違う気がして僕は黙っていた。
 多分父が、僕に言ってくれたのは、人に備わる基本姿勢の問題だ。確かに、ウチの職人さんが僕の態度をどう位置付けて見ているかなんて、その心を、僕は考えたこともなかったのだ。苦手な国語の文章試験の時のように、キーワードの読解力不足なのだ。彼らの地道な働きのお蔭で、僕は毎日のうのうと学校へ通っていられたのに。

 父は、気落ちした僕の様子を、もう一度見回した。今初めて見つけたみたいにだ。
 「皆は、お前から一つでも二つでも言葉を掛けられたがっている。相手がまだ子供でも次の親方になってくれる人物かなと期待するからだ。だがお前には、どうも何を考えているのか分からない所があると思われてるようだ。お前には近付き難さがあるらしい。お前が悪いのでなく、可哀想だが生まれつきの質だろう。だからはっきり言っておいたほうがいいと思うが、お前には人を使えないんだ。職人がついて来ない」
 父なんかに言われたくない言葉だった。酒飲みのあんたにそれを返すと叫びたかった。でも現に、父は人を使って仕事をし、外部にもかなり人脈がある。それは認める。
 そんな男が、息子に欠けている思いやりの薄さを、突き放すような厳しい物言いだ。もし父でなく、他人から言われたら猛反発していたことだろう。でも、僕の父だ。
 せめて涙だけは見せまいと僕は堪えた。だが、実は父のほうが辛そうだった。
 「お前には自分の性格を直す気はないだろう。今になってから態度を改めようたって、そう易々と出来るものじゃない。どうだ、父さんが言っている意味は分かるな。お前は体力も人並みで、頭だって悪いほうじゃない。だったら大学へ行って専門教育を受けて、自分に合った分野を見つけたほうがお前の将来のために良い。そうしろ」
 何十年か経った今、いかに父の目が的確だったか、出来の悪いこの息子も悟った。

 でも僕は当時、家出したって小僧から出発して職人ぐらいは勤められると思った。
 父が言ったように、身近に恰好の手本があった。三年少し前、僕が中学三年になった年の春先に南房総の郷里から出て来てウチに住込んだ金子少年がいる。父が僕に言った一つ年長の子とは彼のことだ。彼の生家や近所には電話が無かったのだろう。用件の取り次ぎ方も知らなかった。まだ一般家庭にまで電話が普及していなかった時代だ。

 文明の利器との接触がなかった、ぽっと出の少年の当初の結果はどうなったか。店の電話が鳴ったら、一番下っ端の金子少年が誰よりも先に受話器を取るのが当然だ。
 「金子もたもたすんな、早く行って電話に出ろ!」と作業中の先輩に怒鳴られた。
 お客さんと簡単な応対をしたあと、詳しい用件に付いては兄貴分の職人を電話口に呼べばいいのだ。しかし電話応対に慣れていない彼は二、三度の失敗で懲りてしまい、リーンリーンという脅かすような呼出し音に、大柄な身が怯えてしまった。
 実際、商用の電話は使い慣れても、見えない相手と声だけで応対するのは難しい。
 それからは、いくら鳴っても少年は出ず、パチンパチンと指だけ鳴らして電話器の方を示し、節を付けて唄うみたいに、「ウウ、デンワダヨッ、デンワダヨッ」と周りの職人さんへ言うようになった。父の店では、指を弾く金子君の動作が長らくのあいだ田舎っぽさを哀れむ、笑い話のタネとなった。その当人も照れくさそうに笑っていたが。

 のんびりした金子少年は、仕事の飲み込みが遅いらしかった。覚えたかと思うと、途中工程をやり忘れたりで、何度か同じ原因の失敗を重ねた。覚えの鈍さという点では、父が自分で人柄を見た上で雇った者の中で一、二番に奥手だったのではないか。だから、へまな金子少年は、短気で口の悪い先輩職人から毎日怒鳴りまくられていた。
 その一方、素直で無邪気な彼の態度はアクの強い職人にも嫌われなかった。例えば仕事以外の場では、「おい金子」と呼び捨てにするとき決して優越の響きでない。そこには多少とも気を許すらしい舎弟愛が窺われた。金子少年の人徳だったのか。というより、彼を育んだ両親の日常こそ、おっとりした性格形成に寄与大であったのだろう。

 僕は、一つ年上の彼が高校へ行かずウチで働いている事が、何だか彼に対して奇妙に気恥ずかしく、又金子君も僕をそう思っているみたいで、殆どふだんから話をしたことがない。うっかり出食わしたりすると、お互いにやや目を逸らして軽く頭を下げ合い、「あっ、どうも」「ドモ」などと言ってすれ違っていた。気遅れがして彼と直接は話をしなかったが、ほぼ同年令だけに僕の意識の隅ではいつも彼の様子が気になっていた。

 彼の生活が僕より自由だったかどうか、比較は難しい。でも彼は既に自力で稼げた。それも他の町工場でなく、僕の父の店で何度も失敗しては怯え、皆に大笑いされながらだ。確かに彼は繊細な感性を持つ少年だが、二歩は退くまいとする意志もあった。
 当時の金子君は、ウチの母屋と隣り合った作業場棟の二階にある、十二畳ほどの一室に同僚と一緒に住込んでいた。そこはテレビ一つに、大人の見るエロ雑誌が沢山転がっている部屋だ。彼が同室の独身職人に引き連れられてネオン街へ遊びに行き、真夜中に酔って帰ってはゲエゲエと苦しげに吐いたのを僕は知っている。先輩のおごり酒を飲まねばまた明日に差し支えるだろうから、身体の大きな少年は無理に飲んだのだ。
 また、窓から小便する位の度胸がなきゃなと煽てられて、おっちょこちょいでもある金子少年が二階の雨樋を狙わずトタン屋根の庇へジャージャーと音を立てたものだから、翌朝、僕のお袋から大目玉を食らったこともある。そういう点でも彼の性格は憎めず、長いこと皆から、おい金子と呼び捨てにされ、からかいの対象になりながら勤めた。

 やがて彼は見様見真似で煙草のチェリーをうまそうに吹かし、父の助言を聞いて二級整備士の免許を得、頭髪を工員風に伸ばし、かつ、オイル跡の染みた繋ぎ服がよく似合う町工場の一青年に育っていった。当時僕の父は遠くへの出張仕事がある場合、金子君を運転役に選んだ。若くてタフで、文句をこねる屁理屈を持たず、贅沢と程遠い彼と共に車でコトコト走ってゆくのを父は好んだ。出張ついでに父は土地の史蹟にも立ち寄るらしく、お供の金子君には迷惑であったろう。その役目は本来僕が担うべきものだ。
 あの程度のボンヤリ少年が、世の中に出て何とかやって行けるのなら、厭な学校なんかに行かなくたって間違いなく僕にも出来る、と僕は密かに思ったものだ。

 父の店を見ていれば、世間の一端がどんな程度のものか、僕にはおおよその察しが付いたつもりだった。というのも、様々に人の入れ替わりはあったが、縁有って父の店に就職した七、八人の職人さんの日々の姿を、僕はいつ知るともなく見るともなく育ってきた。人が他の人を、上の者が下の者を、下の者が上の者を、また当人が当人自身をどう扱っていくかといった、色々な出来事の発生を見、僕は自然に具体的に覚えこんだ。

 ひねくれ根性の強い者。給料日の金遣いの荒さが自慢な者。逆うらみしやすい者。劣等感から意気がった面ばかり見せたがる者。これらを皆、もろ出しにして働いていた。
 また、人から諭されても直らぬ怠け癖。主人の物や売上げをちょっと掠める手癖。頭だけ切れる口功者。人に憎まれるケチ臭さ。弱い者いじめ。意外な義侠心。どんなときにでも飛び出す冗談口。心の底に真面目なものを潜めている考え方、など、一人ひとりクセのある良いお手本がいた。僕には、既に周知の職人さんの生活だ。いつかその中に入って自分も又一緒に暮らしても平気だろうことは、何時からか予測がついていた。

 刃物でもって直接脅されるような場面がない限り、僕が家出した先で、世間のどんな気紛れ状況にでも耐えて働いてゆけるつもりだった。父の店の例でそう思った。
 一分一時間毎が長ったらしく、まるで僕には無意味で我慢していられない教室の授業から逃げ出せるものならばと願った。そして、これまでの僕を誰も知らない土地へ行って住み、引っ込み思案でない僕の良さが出る積極的な生き方をしようと思った。

 ついに家出だ、学校とも今日でおさらばかという目で見ると、葛城丘の木造校舎の外観は艶めきながら古びていた。校舎周りの樹に鳴きしきるアブラ蝉の焦げ茶と似た色だ。夏休みの初めなので、校内のヒマラヤ杉や赤松の立ち木に鳴る風音の下に生徒はいず、校舎の中へ入っても各教室や長い廊下には沈黙しか無かった。すると、この誰もいない、物音の全くしない廊下と同じ光景を、僕はかつて訪れた経験のある気がした。

 確かその時も僕はここに立っていた筈だという記憶片が浮かんだ。が、いつだったのかは上手く思い出せず、残像がめまいのように揺らめく。既視感の錯覚だ。物事の順序が逆に回るような気がした。家出を再度やり直しに来ている、と言ったらいいか。

 但し僕が個人ロッカーの前に立ったとき、棟が独立した記念館のある方から、きゃしゃな渡り板を踏む足音が聞こえてきた。僕のクラスの位置は記念館に一番近かった。
 一般校舎と記念館とをつなぐ渡り廊下から、低い階段を上がって現れたのは、僕より先に来ていたキャプテンのT君だ。分厚いレンズの彼は、ロッカーの前にいる僕に気付き、「ヤァー」と言って、身を揺すりながら意外そうに僕の前にきた。
 T君は、今日から記念館の二階をクラブ合宿の宿泊所とするので、賄い婦さんへ食事の時間帯や最終的な人員数を依頼してきたところだと言う。彼はキャプテンとマネジャーの両役をこなせる、人当りの良い性格を持った少年だった。
 「なんだA、旅行で合宿に参加できないと言ってたのに来てるじゃないか」と、僕に目を向けた。「合宿する気になったか。いいよ参加しても。今から変更するか?」
 予想外の事が起きても、適当に処理するのがT君だ。

 僕は、「いや、忘れ物を思い出してちょっと取りに来ただけなんだ」と答えた。
 が、彼の前で、直ぐにロッカーを開けるわけにゆかず、二人で低いロッカーに凭れかかりながら、人気ない校舎の静けさの中で話し始めた。取り留めのない話題だった。
 話しているうち、近視度の強いT君が眼鏡を押し上げて、僕の顔に目を止めた。
 「A、おまえ少し気持ちが悪いのと違うか?」
 「ふん、なぜだい。いつもどおりだ。けど、そう見えるか?」
 音が遠くなったような自分の耳に、僕の声は緊張して響き、少しかすれていた。
 「ちょっとだけ、胸の辺が変な気分だ。けど、平気なつもりだ」と僕。
 「そうでもないぜ。いつもの青い顔が、もっと青白い。悪いもんでも食って下痢してんのか。無理すんなよ。お前、貧血なのにいつも格好つけるからな。教室に行って坐るか?」
 T君の厚い眼鏡の下の目が細まり、唇を尖らせ、心配そうにこちらを見詰めた。
 「自転車で走ってきて、ここが日陰のせいだろう。大丈夫さ」と僕はいった。

 が、T君にだけはこれから敢行する家出の件を打ち明けておこうかと今になって急に迷い出した。思えば、知らず内に彼は僕と最後に接したことになる生徒なのだ。もし僕の失踪の件が後でバレて、万が一僕が何処かで死んでいたりして、大騒ぎになったとき、T君は恐らく警察や学校からいろいろ聞かれる破目になる。T君と僕は同じクラブだ。だから彼が、僕の家出に加担したかもとつまらぬ誤解を受けるか知れない。彼に何も言わずここを去ってしまうと、後々に、僕の知らん振りを彼はどう思うだろうか。

 T君とは、同じクラスだった一学年の終わり頃、同じ運動クラブに入った仲だ。
 その彼へ、家出の件を言おうか言うまいか、どちらとも決心が付かぬうち、僕の口が勝手に、実はと言い出しそうになり、心臓がきゅっと迫り上がる鼓動でドッキン、ドッキンと波打った。その音が、T君に聞こえるのではないかと恐れて息が苦しくなった。

 僕の顔はかなり強ばっていたと思う。顔の血の気がさめるとはこのことだ。
 「少し話しておいたほうが、いいと思うことがあるんだ」と僕は切り出した。
 だが咄嗟に僕がいくらコトバを探してみても、その挙げ句に、「これから家出するからバイバイ」では唐突で、いかにも様子ぶった台詞みたいだ。それでは友達の前で、わざとらし過ぎる。何となく意味がT君に伝わるような言い方を選ばねば、と僕は事ここに至っても、自分の体面のみを保つような無意味な瑣末事を考えていた。馬鹿だ。

 結局僕は、T君へは全く別のことを喋り出した。それは僕がこれまで誰とも話したことの無い、ものの感じ方に付いてだ。何で話がそっちへ飛んでしまったのか、変だなあと思いながらも口が止まらず、実際やがて、T君が僕を遮るまで僕はぺらぺら喋った。
 僕は言った。三十歳なんていう遙かな年齢になるまで生きていたい気がしないこと。三十歳といえば、もう物凄い年寄りだ。よく恥ずかしくもなく生きているもんだ。
 これからまだ十三年も有る。もし万が一、三十歳が僕に近付いてきたら、堪らないほど自分が厭になるだろうこと。また、一日一日が朝昼晩と順番にしか回らず、特に陽が没する前の夕暮れ時の薄暗い永さを眺めると気が滅入り、同じような日々がこの先もずっと続くだろう生活の下らなさに、時々腹が立って堪らないでいること。この高校を出て別の大学へ四年通って、それから世間へ出て仕事を覚える、という何年か後までの時間の永さを思うと、身動きできない石コロみたいに置かれているようで、気が苛々すること。
 「なあT、君もそう思うだろう。毎日時間の経つのが遅すぎる」と同意を求めた。

 キャプテンであるT君は、「フン、フーン」と相槌を打って聞いてくれた。幾つかの箇所で、深く頷いてもくれた。
 僕の言いたい意味が解ってくれたのだな、と思われたとき、彼がこう言った。
 「A、オレはオマエの言っていることはよくわからない。オレは三十歳で人生が嫌になることはないと思うよ。」
 鼻に掛かったソフトで優しげな低音である。T君は大学に進学しても、大学紛争にも無縁でいたような大人びた現実的な男だった。顔もふけ顔であった。
 T君はまた言う。「今度こういうテーマを、RやKを入れて話してみるのもいいな。あの二人も内心を黙っているだけで、言いたいことはかなり持っている。学校の在り方に不満も有るし、自分自身の殻から抜け出せないことでも悩んでるらしい」と。

 RやK君も同じクラブの同期生だ。二人は今朝これから合宿に登校してくるはずだった。
 T君はゲンコで掌をバシッと打った。「オレ達って、この種の話をしたことが無いな。いま聞いてて気が付いたよ。女生徒同士はよくお互いの悩みを喋り合うみたいだ。俺たち男は、様子ぶってばかりで本音が駄目だな。一緒にいても距離が遠いよ」
 T君は彼の置かれているキャプテン立場で、僕の話を全然別の意味に取ったのだ。

 ま、それでもいいか、何か別のことを彼が見付けてくれたらしいから。もうそろそろ荷物を出して……と右手をズボンのポケットに差し込んだ僕はハッとした。一時に汗が引く思いがした。指先でくまなく探ったが、手に覚えのある感触と一向に当らない。ここまで来て、個人ロッカー用の平たいプレス製の鍵が、ポケットに入っていないのだ。

 ああ、ちくしょう。何てこった。僕は唇を強く噛んだ。鍵はきのう脱いだ学生服のズボンのポケットに入れたままだ。頭の中で真っ白い光がパッと点じた。けさ、鍵をこの私服に入れたつもりだったが、緊張のお蔭でその行動がそっくり抜け落ちていた。
 「ああ、そうか、そうだったのか」とつぶやきながら僕は溜め息を吐き、足の力が抜けてへなへなと崩れ落ちる感じで、ロッカーの上に肘をついてしまった。

 耳からサーッと血の退く音が聞こえ、視界全体が暗く狭まり、吐き気すらした。
 「おいA、やっぱり顔色がすごく青いぜ。なんだよ、冷や汗も出てきてるぞ!」
 と、僕を脇からのぞき込んだT君が叫んだ。彼は突然、僕の肩を一つうった。
 「バカヤロ、Aそのままでいろ。ちょっとだけ我慢して待ってろ。すぐ来る」
 彼は僕をその場に残し、前の教室へと走りこんだ。椅子を取りにいったのだ。
 T君の上履きの足音が、静かな校舎の中に谺して大きく響き、同時に僕は、今朝の気温が、早くも真夏日なみにぐんぐん上がっていることに初めて気付いた。僕の顔に浮いていた大量の汗は健康的な発汗で、きっと冷や汗ばかりじゃないのだ。

 T君は有無をいわさず僕の肩を押し下げ、持ってきた椅子に坐らせた。彼は屈み込むと、僕のシャツの胸ボタンを外し、何かの紙切れでもって扇いで下から僕の顔に風を当てた。僕は首を落として目を瞑り、その風を数度、鼻から深呼吸で吸い込んだ。
 この一瞬ほど、かつて自分の迂闊さを呪う気持ちを持ったことはない。が、その一方では不思議だけれど、喜悦に近い、全身がほっとした気怠い安堵感を得た事はない。
 (ああ、これで今直ぐ家出をしなくてもいいんだ。決行は一時延期だ。何だったらこのドジを切っ掛けに、しばらくは家出志願を放棄してもいい。T君などとここでもう少し話していられる)と、つくずく思いながら、一番嫌な学校の椅子に、べったり坐っていられる心地良い経験は今までに無かったほどだ。
 つい直前までは自分が家出に心底本気であった事実を、僕は改めて思い知った。それが鍵一つ無かっただけで、決心は一瞬に雲散霧消してしまった。それが事実だ。

 家出をしそこなったこの日から丁度十年後の秋口に、父が急逝した。58歳だった。父は膵臓を悪くして好きな酒も呑めず、微熱続きで、家でふせっていたのである。

 それ以前のこと、僕は二十歳になる直前に勝手に獣医学校を辞め、父の大変な怒りを買い、勘当同然にして家を去った。新聞の求人欄で東京の下町に職を見つけ、金型工として八年目を勤めていた。二度の石油ショックの打撃を受けながら世間は景気が良くて、年中人手不足であり、残業が休出を含め月百時間を越すのがしばしばだった。僕も若さに任せて働き、短時間の睡眠で平気で、親から丈夫な身体をもらったことを感謝した。

 だが、父が亡くなるなんて一度も考えたことは無かった。この期間、自身の雑事に夢中で殆ど両親の家へ帰らなかったのだ。28歳になっていた僕は、葬儀の間だけ喪主として戻り、通夜から告別式までの弔問を受ける役を、母のために行なった。心の隅で僕は、父が死んでしまったのを怒っていた。父親に、僕は借りしかなかったからだ。

 父の旧い友人、仕事上の知り合い、父の郷里の幼馴染みたち、そしてかつて父の店で働いて今は独立している職人さん達も、どんなルートでどう伝え聞いたものか、父の突然の死であったにも拘らず、遠方からわざわざ礼服姿で弔問に出向いてきてくれた。
 中に、二十九歳になったはずの身体の大きいあの金子少年の姿もあった。彼も今はこの県の南の郷里で小さいが自分の工場を開いている、と母が教えてくれた。

 通夜の読経が済んで、お寺さんが帰り、弔問客の影が途絶えたのち、父の棺の置いてある座敷には、店の職人さん達が四五人で残った。喪主である僕も同席した。
 「今夜は、旦那の前ですこし昔話をして、旦那にも聞いていてもらおうや」
 かつて住込んでいた最年長の職人さんが、棺の中の寝顔を覗き、そう言った。そして供物と花で埋まった棺の上から父の遺影がこちらを見守る前で、車坐になったのだ。

 酒飲みの父の生前、いつでもそうしていたように母が目を配って、座に酒を切らさぬように追加し、つまみや腹の小減りに食べるものを充分用意してあった。僕が、いわゆるウチの職人さん達と同じ席に坐って、酒食を共にしたのはこれが初めてである。

 僕もこの八年間、下町の工場勤めで、クセの強い現場職人と散々付き合ってきた。職場には同年代から遙かな年長者までいたから、多少は実地にもの事を知ったのである。
 「最初はおメエがよ、まだこんなに小っちゃかったんだ。その頃を覚えてるか?」
 と、酔いの出た口調で、僕を子供扱いにして言ったのは最も古手の職人さんだ。
 その手は座蒲団から五十センチほど上の高さを示した。彼が父に雇われた頃に見た、僕の背丈をやや小さめに指したのだった。その当時の彼を、僕は覚えている。

 父の商売が軌道に乗りだす前だ。一番最初の小僧だった彼は、田舎から僕ら家族を呼び寄せる前の父と二人きりで、こことは別の場所で元あった小さな仕事場に住み、父と一緒に苦労したのだ。店には当時、まだ軽トラックが無く、無免許の単車でどこへでも出張修理に回った。仕事をしても、売上金回収の目処が立たぬ月も結構多くて、父の田舎から米は送ってくれるから米の飯は炊けても、おかずの遣り繰りがつかない日があった。主人一人に小僧一人で、何の気兼ねも要らぬ男所帯だったが、しょっぱい佃煮昆布を載せただけの冷やメシでは、二三回も同じものを食うと、もう味気なさが過ぎた。
 「したら旦那がよ、オレの飯の上にウイスキーをブッ掛けてくれた。今考えると、あれは貰い物の酒だったな。旦那も俺と同じメシを食った。酒で、佃煮をお茶漬けみたいにしてかっ込んだ。いやあオレはまだ子供だったからな、すぐ、さすがに足に来たよ」


 こんな風な具合に、職人さん達は茶碗酒を手にして、秋の夜長に目を遠くの方へ細めながら変わり番こに、旦那の思い出を語った。ある者はこう打ち明けた。
 「ウチの嬶あと俺が一緒になったのは、出会い頭の事故みたいなもんだった。まあ聞いてくれよ。今じゃ信じてもらえねえかも知れねえけどさ。オレがここ家の風呂に入っていたある晩、旦那がひょこっと来て、俺の為に薪をくべてくれてからこう言うんだ。『あした、お前に見合をさせるから、そのボサボサ頭じゃ駄目だ。あすの朝一番に床屋へ行ってこい』ってな。嫌も応もない。俺は湯の中で裸だ、返事はハイだ。床屋はここんチの隣りを旦那が予約してあってよ。ああ、ほんと嫌も応も無かった。あくる日、俺は嬶あと一遍会ったきりで、旦那が、『これでいいな、決まったな』と言うもんだから、俺はハイと旦那に答えた。それっきりデートもなし、挙式だ。新婚旅行の汽車に乗って初めて、『おめえ幾つなるんだって、オレに聞かれたって』、嬶あは今でも覚えてて怒ってら」
 といったこの職人さんは立派な息子が二人いる。かつ女房には頭が上がらない。

 僕の父は、職人さんがある年齢に達するや身を固めさすのだった。大抵は父が郷里から地道な娘を選んできて独断的に見合いをさせ、乱れやすい独身生活に釘を打った。結婚後に破綻したペアは無いから、それなりに釣り合いを見込んだのか知れない。見込まれた女性にとって、最善ではなかった筈だが、最悪の夫でもなかったのだろう。

 他に、住込み当時だらしなくて、何度か給料を前借りした職人さんも座にいた。
 「俺は、金が無くって奥さんにねだると、『また酒場通いだろ、鼻の下長くして』と叱られたもんだったが、旦那は黙って聞いてくれた。何に使うんだなんて聞かず、『幾ら要るんだ?』と言っただけだな。大蔵大臣が後から、『無駄遣いすんじゃないよ』って持ってきてくれた。この店だってやり繰りが苦しい時があったのを、なんかのときに俺は知った。ところで奥さん、オレはあの頃の借金をちゃんと返したんだっけか?」
 こんな話題が出た訳は、多分当時、父と母とが一体になって店を経営していたからに違いない。そうは言わずもがなだが、職人さんはズバリそう指摘しているのだ。それも普段は改まってはいえず、こういう席でだ。通夜とは無礼講なのか知れない。

 思い出話の合間に、何か雑用があると、例えば階下の戸締まりを、「奥さんの代わりに見てこい」と誰もが自然にあの頃のように、大柄な年若い金子青年に言いつけた。
 金子青年は、嫌な顔一つせず、いつも先輩達に使い回されていた当時を思い出させる気軽さでうなずき、腰を上げるのだった。僕の母も、彼へは小僧に対するような口を利いて酒肴を運ばせたりした。だから、彼が旦那の思い出を話す番がきたのは一番遅かったのである。他の皆はそろそろ本式に酔い、感傷的になっていた。しかし彼は正座し直し、茶碗酒を盆の隅に置き、両膝にのせた手を揃えて、野太い声で言いだした。

 「旦那からオレだけが特別に教わったんで、ずっと忘れないでいることがある。オレはこの店にいた頃なかなか五ミリ(の板ガラス)が切れなくて、何度も割っちゃァ失敗してた。そばで待ってくれているお客さんの目の前で、恥かいたことも何回かあった」

 ああ五ミリか、懐かしい呼び方を聞いたなと僕は思った。五ミリ厚ならその通りだ。現在のように規格サイズの成型済み強化ガラスでなく、唯の五ミリ厚の板ガラスから形状ものをすんなりと切り出せた職人さんを、僕は確か二人しか覚えていない。五ミリの用途は一般車や重機の窓が主である。これの加工はかなり難物だった。
 人が手に力を込めて引いたガラス切りの為す線条痕は、何処かで太さや深さにバラツキが生じて不安定だ。引き終わった後、形状を取り出そうとして叩く力を加えると、その一瞬に思わぬ方向へも亀裂が走り、欲しい形を成さずギザギザに割れてしまう。最悪は、仕入れ値段の高い五ミリ厚の大きな板ガラスが一枚、お釈迦になるのだ。

 これは少年の僕も作業を見て知っていた。実は店の休日には試しに僕も、見様見真似で端材を使い五ミリを切る練習をしたことがあってよく解る。ガラス切りの工具に付いた小さなダイヤ刃が、うまくガラス面に接触して作用するとき、「ジー」と虫に似た音を立てるが、その一定音を保ち続けねばならない。途中で音が変わったら、どんなに挽回の力を込めようともガラスから拒否される。それを僕は自分の耳と身体で知った。

 この大柄壮健な金子青年も、修業時代、力ずくでは五ミリが切れなかったのだな。五ミリ厚という対象は、例えば大岩を見すまして然るべき一点に鏨を打って岩を真っ二つにするような眼力がいる。金子君は今、その件を言い出したのだった。

 「店に損をかけてしまう事になるから、オレ恐くて失敗するたびに泣いて、旦那へいつも謝ってた。でも旦那は毎回、オレにこう言ってくれた。『金子、まだまだ失敗してていいんだ。いつかお前は五ミリを切れるようになる。それがお前にとって大事なんだ。それまではいくら失敗してもいい』ってね。オレはそれを不思議だって思った。だって五ミリ一枚はオレの給料の一日分ぐらいだった筈だ。あの頃、旦那が本気でオレに言ってくれてるのを最初は信じられなかった。オレが五ミリを切れるわけないと自分で思ってたから、旦那のそのコトバの意味も、オレ、実際には分かっていなかった。

 でも、旦那のその励ましのお蔭で、オレ、この店にいる間に何とか五ミリが切れるようになった。一度切れると、その後も五ミリが切れる。嬉しかった。店を離れた後も、有り難くて五ミリを切る練習だけは毎日欠かさなかった。真剣だ。今オレが自分の店をやってる土地の周りでは、五ミリが切れる店は一軒もない。加工に時間が掛かるし、それに面倒くさがって皆が嫌がる。結局お客はたらい回しでオレの所に仕事をもって来てくれる。ハイヨってオレは直ぐ受けて、お客の目の前で切ってしまう。力づくじゃない。

 商売敵の連中は、土地ではみんなオレより古株なんで、青二才のオレが五ミリを切れるのを何故なんだって不思議がっている。不思議じゃないもん。その訳を知らないだけだ。旦那が、お前はいつか五ミリを切れるようになるって言ってくれたお陰だ。
 『いっぺえ(沢山)失敗すれば切れるようになる』、そう教えてくれた旦那が急に亡くなった、そう聞いたらこの店が堪らなく懐かしくて、今日オレ、スッ飛んできた」

 金子青年は、棺の上にある、大きく引き伸ばされて輪郭のぼやけた父の遺影へ、その場の端座姿を崩さず深々と頭をさげた。焼香壇の鉢へゴマを焚き、線香を立てると、手を膝頭にそろえ、その姿勢から再び深々と頭を下げた。彼のくぐもった声がした。
 「旦那、オレ今、ちゃんとした職人になって、お客さんも付いてます。自分の店をやってます。いろいろ教えてもらってありがとうございます。助かってます」
 かすかな音がしたと思うと、焼香壇の手前の畳表に、彼の涙がぽたぽたと一続きに滴った。黒い礼服の大きな背中が、まるで工員の上下繋ぎ服のように感じられる彼だ。

 僕は茶碗酒を下に置き、父の遺影へ目を向けた。ピンぼけで笑んでいるとも見える顔。そうだ、父はこういうかすかな笑み方をする男だった。大笑いはしない人だった。いつも物静かなのに、力道山のプロレス中継には息を詰めてTVへ身を乗り出す興奮が、家族には滑稽だった。あれを単なるショーとは見ぬ、悲しい兵役体験のある父だった。二十歳から約七年間満州や南方を転戦し、玉砕した後、捕虜生活を生き延びた人である。

 「家なんか継がなくてもいい。お前は、動物の医者にでもなったらどうだ?」
 といってくれた、十年以上も前の父の声が耳に聞こえてきた。それをも裏切ったこの親不孝者の耳に、はっきりとだ。獣医とは父自身の願望だったのかも知れない。
 僕は父にすまないと思った。だが棺を前にして、もう何もかも遅いのだった。


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