”サヨナラだよ”ー菊地久治先生の思い出ー

A君

はじめに

 千葉高卒S43年のホーム・ページに同期が、菊地久治先生の思い出を記しているのを見て、それに同感すると同時に感奮してこれを書いた。当時を思い出すきっかけを与えてくれたことに感謝する。

1.我々の世代

  

 昭和24年生まれの子供たちは、敗戦後の産めよ増やせの時代背景のなかに育ったために、小学校に上がった時はもちろん、その後もずっと、一クラスが五十人以上の大編成だった。

 もっとも、今どきの少子化傾向とくらべてそういえるのであって、当時は一クラスの子供の人数が多いだなんて、子供たち自身ではちっとも思わなかった。

 放課後には、方々から来ているクラスの友達の家を訪ね歩いて、かなり遠くまで出かけて遊ぶという心踊る楽しみがあったのだ。目的地に向かって子供が一人、道ばたをテクテク歩いてゆく姿は普通の光景だった。

 遊びで訪ねるとはいえ、小学校時分から実地に友達の家の商売や、お父さんのお勤めを知ることは、身近に自分の家と比べる結果にもなって、一つの社会勉強だったのではなかろうか。世の中には自分の父親とちがう職業で成立している家庭があるのだ、と実感したものだ。

2.私が経験した昔の学習塾

 空襲で滅んだ国土の中からの復興は、親たちの働きぶりのお陰で、意外に早かった。
昭和24年生まれが中学校に上がる頃の昭和35年前後には、すでに町のあちこちでやたらに小さな学習塾が開講していた。あとで団塊の世代とよばれる子供たちにとって受験戦争の始まりである。

 幸せな小学校生活をおくっていた子供も、ある日から「勉強しろ」と親に意見され、父親の収入に見合った月謝範囲でゆける塾をきめられ、おそくても中学に上がる半年ほど前からは英語か数学の手ほどきに通わされることになった。

 遊びたいし子供心に学習塾はいやだなァと思っても、もうすぐ中学からは、母親のまったく知らない外国語(英語)の授業がはじまるというので、子供は何となく、身にのしかかってくるようなその空恐ろしさに、週に一回とか二回、暮れかかる夕方の時間に、狭っ苦しい、家の一間を転用した畳塾へ座りにいったものだ。

 ボクが、教わるのが厭で放り出すまで一、二カ月通った塾は寺子屋みたいな机の並びだった。
何も覚えていないがあの頃、英語の教材はなにを使っていたのだろう。今みたいに手軽に録音テープが聞けるわけでもなかった。

 余裕のあるクラスメートの家では大学生の家庭教師を頼んで来てもらっていた。子供とさし向かいで二、三時間個人教授をしてもらっている合間に、紅茶やショートケーキを母親が出したりした。たしかアルバイトで家庭教師をするような大学生は、頭はいいが地方出で貧しいので、たまには教え子の家で夕食をもてなされたはずだ。

3.中学3年ー受験の時ー

 さて中学校に入ると、さっそく3年後に嫌でもくる高校受験の狭き関門に向けた競争がはじまった。現在も同じだろう。

 例えばボクの通ったA中学では一年目から漢字の書き取りテストがあって、赤点ならばその日の放課後に居残り、書けなかった漢字を升目のノートに五十回ぐらいずつ書き上げて国語担当の先生に見せなければならない。ボクはテストの時間よりも放課後に漢字を書くことが多かった。あれは勉強するというよりも身体をつかう丸暗記訓練といったほうが正しかっただろう。漢字のことだけではない。

 大化の改新はいつだったか、などといった社会科の歴史年号もしかり。
日本や世界の国別の鉱工業生産高や三大漁場の名についてもしかり。
十九世紀の西洋におこった絵画各派の順番と名前もしかり。

 数学の因数分解の手順にしても然り。
それに、英語の現在進行形のつくりかたなども、かたっぱしからそっくり
「ムシゴーの大江の皇子(大化の改新645年)」とか「写生してクールべ」とかと丸暗記しなければならなかった。受験は今もそうなのか知れない。

 でも子供の頭だから本人がその気になりさえすれば、数字や文字など、形のあるものならばちょっとニックネームのようなものを自分なりに付ければ、それなりに親しくなって、際限なくいくらでも頭に詰め込めた。

 中学三年のときだ、国語の古典の例文読解の時間に、本好きでたいそう勉強ができるある女の子が先生にさされ教科書をもたずに席からたちあがり、『平家物語』原文を冒頭から五分以上も軽がるとそらんじてみせ教室を驚かしたのを見たことがある。少女のあたまは平家の文脈を全文いれてしまったらしいのだ。このAさんも千葉高に進学した。

 十三、四歳というのは暗記力の良さと、本来の頭の良さとが、ごたまぜになっており、誤解されやすい年頃だ。要領のいい子供は、選択問題でもマルバツ式問題でも繰り返しやり、自分が暗記できていないための不正解だけを探し出す。そしてその部分を暗記しにかかる。なにか考えるということは不要だ。

 そんな訓練をしただけでも中学三年生になると、県下の中学で一斉に行なわれる模擬テストで、五十番以内に入るような成績をとってしまう。そんな子がクラスの中に急にあらわれたりする。これは間違いない。だってボクもその一人だった。

 基本への疑問は、一切後ろへ放り投げておき、そういう子供の頭に、自身の訓練によるか、教師からの圧力によって、高校入試問題にでそうな箇所及び過去の傾向を叩き込まれるのだ。

 教師から鼻つまみ者だった昨日までの鈍才が、今日は教室で特に名を呼ばれ栄誉を受ける。
早く解けば解くほど、点数が高ければ高いほど、先生から誉められる。授業中に何かでちょっと羽目を外しても、以前みたいに見せしめでケツを叩かれたりしなくなるのだ。

 そこで、いくらぼんやりしていたボクのような子供でもようやく、自分たちがこれから受けようとしている高校入試は、自分たちの同年齢人口がこれまでになく多いため、競争倍率が異常に高くて、入るには狭き門をくぐりぬけなければならないものだと認識する。落ちたら高校浪人になるだけ。
教師はそれを心配しているし、子供は子供で、親の世間体ためにもそんな恥さらしなことにならぬために、今はそのクリア方法を学校で習っているのだと、遅まきながら気づくのだった。

 けれども、以下のようなことを教室では、誰からも問われない。
「因数分解は元々なにに使っていたのですか? これは誰が何を解こうとして何から発達させた数式なのですか?」 
「現在完了形とか過去完了進行形などとどうして英語ではこと細かく規定するのですか?」
「なぜ日本語とちがう複雑で正確な時制をひつようとするコトバなのですか? これを知らないとなにかこまる事が起きる文化習慣の国だからですか?」

4.千葉高入学

 昭和40年4月に、めでたく両親の顔がほころんだ。
県下一の秀才高校ありといわれる葛城丘に入学しえた約四百六十人の中に、この丸暗記能力だけでここに来てしまったと自覚しえた生徒が、五十人に近いクラス編成の中に何人かはいた。

 間違いなくボクはその内のひとりだった。本当に頭のできの良い生徒の間にまぎれこんでしまったニセモノだという違和感を、初日からだんだん感じることになった。

 どんな違和感だったかを具体的にいうと、たとえばこうだ。

 同じ歳の鼻たれ小学五年生だったのに実はメチャクチャ将棋がつよかったB君とある日彼の家で将棋をさし、容赦もなくこてんぱんにされたのを経験したときの、ひるんだ感じだ。
将棋を遊び感覚でやったこっちの甘さが悪いんだろうけれど、まるきり歯が立たない、容赦の無さを自覚したときの仰天。

 同じクラスにもう一人いたカシコイC君の家に、B君と一緒に遊びにいった時に、2人が将棋ではなく、石を並べる本碁しか打たないことを知ったときに、「あーっ、二人の遊びは高級なんだなァ」という手の届かない世界に対し、感嘆符がため息とともに出る感じを持った。

 この高校へ来てみたら、そんな鋭い子ばかりが当たり前にいて、B君、C君の両君も目立たなくなったほどだ。
ボクの身のまわりに秀才が隣り合わせていたので、気の抜けない感じがした。

 小学校で優秀な同級生だったことのあるD君、E君、Fさんなどは当時から頭の切れる子として誰もが認め、存在が光っていた。当然受かってこの高校に来ている。

 そもそも異物がまぎれこんでしまったという違和感は、彼らにはさらさら無い経験だろう。自身がここにいてこそ当然という気がしていることだろう。ボクは、鼻たれの小学生時代の自分の馬鹿さかげんを知られている彼らに、絶対に近づかないようにした。それは、ボクがここにいること自体が、優秀な彼らに申し訳ない感じがしたからだった。

 それから、葛城の丘に通ううちにわかってきたのは、ここの先生方は一定レベルの勉強ができない(つまり予習・復習をやってこない)少年に、「なぜ君は怠けるのかね?」などと無駄なことは聞かず、邪魔ものとして憎むらしかったこと。

 目に光るその憎しみは、小学校時代から、時々先生から放射されたので知っていた。ここでは授業中にうっかりそんな生徒を指名すると、質問に答えられないだけではなく、えらく頓珍漢なことを言ったり、思春期の少年特有のはにかみでモタモタするから、授業進行のさまたげになる。で、怠け者はそのまま立っていなさいということになる。

 英語の時間なんかに、よくボクは立ったまま皆の授業をながめていた。英語だけではなく数学の関数もチンプンカンプンだった。県下一の進学高校では、生徒はよく勉強し、質問に答えられて当たり前の風潮があるのだった。

 この高校へ来たからには当然、次なる目標の有名大学をきめている生徒ばかりである。ボクは自分が何になりたいのかまだわからなかったし、だから、どこの大学へ行くというはっきりした目標を考えてもいなかった。予習・復習もせず毎日ぼんやりしていたといっていい。だから高校入試でとった点数は意外に高かったらしいが、一年の二学期の終わりには地力どおり成績はクラスのビリに近かった。

5.菊地先生

 そんな劣等感をもつ一年生坊主の目に、ある先生のしてくれる授業方法だけは時々おもしろかった。「なぜ時々か」は国語担任のその菊地先生が、風呂敷に包んだポータブル・レコードプレイヤーを小脇にだいてくるか否かによって決まるからだ。

 髭剃り跡で顔色が浅黒く、太い首が短い、中年のずんぐりした彼が無口そうに、背中を俯きかげんにしたまま、短い足を内股ぎみに廊下を来る。
その姿が、校舎の一番遠い端にあった我がクラスの入り口に達する前に、窓ガラスごしに彼の持ちものを素早くチェックするのが、ボクは楽しみだった。風呂敷包みを持っていたら期待が高まる。

 週番の生徒の、『起立、礼、着席』の掛け声で始まる優秀校らしい授業風景がいつもとまるで変わってくるのだ。
 先生の風呂敷包みが解かれ、教壇上に彼の私物らしい小さなレコードプレイヤーが現われた場合、ボクはしめたと思うのだ。

 が、しかし進学志向のはっきりしている多くの秀才たちは、菊地先生の風変わりな授業方法にたいしては、不満だという意味を明らかにこめ、その二度目からの風呂敷包み持参の授業には、低いブーイングを隠さなかった。
風呂敷包みが開くと、すなわち、この時間の多くは菊地先生おひとりによる、やや気味が悪くないこともない陶酔的な朗読会で終わることになるからだ。

 一方でクラスに五、六人はいる劣等生の仲間や、おかしがりやの少年は、ボクを含め彼に茶化しぎみの拍手をパチパチとおくる。教科書の講義よりもずっと菊地先生のマゾヒスティックな朗読法に賛成なのだ。

 だが菊地先生は、どちらの派の子供のあざとい反応をもよろこばれない人だった。
思慮の浅い生徒から気分を害されると、変にすましていた先生の顔が急に痛々しくくずれて、どこの地方出身のコトバかわからない変わったイントネーションをともなう言いかたが、ポロッとこの国語教師の口からもれる。ご自分の心の弱さを笑われるのだろうか。

 「知ッテイルカイ、ヤマオクニハ、キツネガイルノデスネ。コーン」
 などと突然、黒板へ向かって言ったりして独り顔を赤らめているのだ。そのときの先生の目を思い出す。

 一目で見てとれた外見どおり、おそらく大変な内気性で、子供たちのこんなざわめきにすら、先生の心臓はせりあがるのではなかろうか。
 濃いヒゲ剃り跡でいっぱいの、首の太い下膨れ顔を赤らめながら、掌を下方から唇に当て、コホンコホンと小さく咳払いをし、その時間稼ぎで落ち着きをとりもどそうとする。

 その時、ムリヤリに平気を装おうとして、薄笑いを口のわきに浮かべられるのだが、目の向きは、本人を裏切って、勝手に窓の外へチラチラと逃げてしまわれた。そうしている間も口元に指先でしなをつくって、女性のようにじっと立ったままなのだ。目はまだ勝手に外を見ておられる。

 先生本人は気の昂ぶりを隠そうとしているのだが、この先生の特徴が益々あらわになるのだった。
それは、いやでも場所違いの進学高校にいなければならない不幸な教師であると先生自身が告白していそうな印象をあたえた。生徒のボクの立場もそうなのだから、およそ先生の気持ちがわかる気がした。

 先生はやがて、静まらないらしい内心のさざなみ的興奮のせいで、ここで何を生徒へ言いたいのか、さだかではないが、誰へともなく悔しげにポツリと口をきく。
 「おまえたちは、そうやって、なにもわかっていないのに私をからかうのだね、ふん、そうなんだろ?」

 眼鏡の下で丸く、くるくる動く目がちょっと妄想的な感じをあたえた。目に全てが現れる人だった。
 それからまた目をジロリと窓外へ流しやり、小首を傾げながら虚空へこうおっしゃる。
 「わたしを理解することなんて、おまえ達にフフフできャしないさ。そうだろ?」

 どうもこの、"ソウダロ"、は外界へではなく先生自身の中にいるらしい何かへと言っているらしいのだった。恐ろしくもうっとりとした口調であるので、きく耳にそう感じられた。身心がアブナーイ感じの教師発言に、生徒は思わず締まる。

 菊地先生はこの時に本当にニタリとした。そのセリフは、彼をわかってやらない生徒に対してだけではなく、彼の同僚のいる遠い教員室あたりへも言い放っているような感じがするのだった。

6.菊地先生の読書会

 生徒のブーイングなどが派手だと、気分を悪くしすぎた先生はツンとして、手のひらで作った風で首筋を扇いだりしながらレコードプレイヤーをまた風呂敷に包んでしまうのだ。でも、たいていはゆっくりしたしぐさで延長コードをプレイヤーから黒板下にあった壁のコンセントへつないでくれた。

 次に古い風呂敷(伊藤三平君は唐草模様と断定している。伊藤注.伊藤の記憶違いでありA君の覚えている紫色の風呂敷が正しいと思う。)から33・1/3rpmのレコード盤、SPサイズでドーナツ盤とも呼ばれている一枚を取り出す。きょう朗読する内容に選曲してきてあるのだ。

 濃いまつげで陰った眼もとを伏せ、レコード盤をターンテーブル上に載せ、また一つか二つ、口もとの指先へコホンコホンと小咳をしつつ、伏し目のまま、最後の一品を風呂敷から両手で出す。それは、彼が、名作をダイジェスト版に再構成した手書き原稿で埋まった大学ノートなのだ。

 『トニオ・クレーゲル』トーマス・マン作。先生の朗読をもりあげるレコード音楽はチャイコフスキーの「クルミ割り人形」から、花のワルツ。
 『盲目のジェロニモとその兄』シュニッツラー作。同じく音楽はサラサーテの「チゴイネルワイゼン」
 『刺青』谷崎潤一郎作。音楽はサンサーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」だったか。

 もっと朗読を聞かされたのかもしれないが30年後も覚えているのはこれぐらいだ。
最初に聞いたのは『トニオ・クレーゲル』だったからそのときの印象が一番つよい。

 大学ノートに書いた原稿をもった彼は、「花のワルツ」のはじまり部分にポータブルプレイヤーの針先をそおっとおろした。五十余人いならぶ教室のいちばん隅にやっと届くぐらいの音のボリュームにまで絞り、
 「どうだ。うしろ、きこえるかい?」  などと聞きながら微妙に演奏音量を調整もした。

 そしてすぐに読みはじめはせず、チャイコフスキーの花のワルツが、その細くてゆるやかな旋律で、生徒の頭上へ嫋々と流れてゆくのにまかせた。

 彼は、その間、太くて短い首のうえの顔をきわめてうつろげにし、旋律のゆくえに耳かたむけている風情で教壇わきにもたれ、生徒後方の壁を眺めているさまだった。もうそこですでに何かの思いにひとり浸っているらしかった。

『トニオ・クレーゲル』を読みます、と言ったのだからこれから朗読するのだろうが、先生がその出番をどこに決めてあるのか、いつ始めるつもりなのか、生徒にはわからない。それがスリリングでもある。

花のワルツは、チャイコフスキーらしい柔らかでくねりのある甘たるい主題をくりかえして高まってゆきそうだった。ボクだってこのぐらいの曲は聞いたことがある。

 一方いま始まったこの奇妙な授業がなんなのか、理解できないでいた我々生徒は、クスクスと忍び笑いもできず、各自がひとり用机と椅子のあいだで、この先はどうなることかと身をじっとひそめていた。

 「変なことが始まっちゃった」と思った。 一年生に入学してから一度めの授業の折、すでにこの忘れがたい中年国語教師の、哀切なご様子と、妙と言っては語弊がある風貌が焼き付いた。時には真横にペタリとねせた薄めの髪の毛に、カスミ網みたいな見えにくいネットをあごで縛り被ってこられるのであった。あれは先生のおしゃれだったのだろうか?

 が、まさか授業として、自分で選んできたレコードを伴奏に回しつつ、自作でもある名作の模写を朗読するような、大胆な陶酔にひたることまでをする人だとは誰も思っていなかったのだ。

 やがて彼は音のボリュームを絞りつつレコードから針を上げかけた。かすかになった音楽が絶え、かわりに彼の静かな声が読みはじめた。

 じっと耳をかたむければそれは、主人公が昔愛したインゲ・ボルグホルムというなんとも北欧風の名らしい娘を、海ぎわの暗くて冷たい窓の外から、明るい室内にいる姿として久しぶりにトニオ・クレーゲルが眺める追想場面らしいことに気づいた。

 架空のトニオにかわってトニオ本人となった菊地先生は、彼の存在に気の付いていない今のインゲの姿へと、届かぬ心の中を語りかけてゆく。インゲと過ごした楽しかった少年時代のことをふりかえり、花のワルツの旋律の余韻がまだ聞こえているような教室のなかで、想いを告白してゆく。

 「じっさい僕ら芸術家は美しい声で鳴くからなあ!」  などという訳の判らぬセリフもあるのだ。人を孤独にするらしい芸術に魂を捧げているトニオ・クレーゲルになり切って(かすかなお国なまりは消えないまま)彼はずっと大学ノートを読み続けた。

 といっても切れ目なく読み続けたのではない。ある文節ではプレイヤーのそばに行き、一瞬読むのを停めたあいだに、レコードの途中のどこかへ針をおろし徐々に音のボリュームをのしぼりを解いた。ただしとてもひそやかな音にだ。

 そして指を舐めてにツバをつけノートの次ページをあけて、読むのかと思ったら、彼はじっと花のワルツに聞きいっている。どうやらここは、場面に余情を添えるための間奏曲のようだ。ラジオ番組の朗読より緻密だった。

 その間奏のあいだ、視線を遠くへやっている先生の立ち姿から、もしかしてこの中年の先生には、美しく育った女性インゲボルグホルムの波打つながい金髪や、長身の彼女が着ている黄色いヒダつきのドレスの下の、細いような感じの輪郭線が見えているのではないかなと思った。

 というのは、先生の、へんに抑揚をつけた印象的な読み方のせいか、こっちにも物語の情景が浮かんでくるからである。

 もっとも、ボクの頭に見えたトニオという男は、じぶんと同じぐらいの年の少年だったし、一方インゲのことは、何となくかなり年上の二十五歳くらいの婦人が思い浮かんだ。朗読の内容からするとそれではおかしいのだが。

 花のワルツが大団円にかかろうとして旋律を震わするように変化させた箇所のテンポは、彼がやや読む声を高めたことでもそれと知れた。先生の声は少し涙声で詰まってしまったように聞こえた。

 やがて朗読の声がすっかりやみ、彼の手はプレイヤーのボリュームを大きくなる向きにひねった。作曲者のチャイコフスキー自身が興にのって指揮棒を振っているような楽曲のゆらぎが、音高くはないが皆を圧するようだった。レコードはそのまま曲のおしまいまで回された。曲が終わったときに室内には、音楽のかわりに空気があるという感じの静寂がしばらく続いた、先生が身じろぐまで。

 菊地先生はレコード針をあげ、それからごく短い間みなのほうへ目を向けながら、何かを期待するように待っていた。ほっと息を吐きながら生徒は誰も何も言わなかった。先生に何を期待されているのかわかっているような気もした。しかしそれを、先生がひとことで自分でいった。

 「え、よかっただろ、違うかい?」  朗読の賞賛を求めたかったらしいのに、少しばかりこっち側を馬鹿にするようなひびきだった。作品を恵んでやったんだという奢りのようなものも感じた。彼はそう言いながら唇をゆがめるように閉じた。

7.読書への目覚め

 たしかにこの奇妙な朗読の授業を経験してよかったと思う。その時ボクは生まれてはじめてオトナの本を、つまり菊地先生が模写した文庫本にあるらしいトニオ・クレーゲルとかを探して買い、いちど家で読んでみようかなという気持ちになっていたのだ。

 滅多にひとりで本屋に入ったことがないボクみたいな劣等生でも、なんだか気があう人柄の好い、二人の秀才を同じクラスに見つけていた。気恥ずかしい本屋には彼らのうしろについて行けばよかった。それが国分君とG君だった。

 卒業ののちに夭折してしまった国分君と、G君とボクの三人はあの頃ときどき一緒に下校していた。G君は東京方面の船橋から、そして国分君はたしか千葉のもっと南の木更津方面から鉄道通学をしていた。国鉄の駅へ彼らが歩く途中までをお喋りしながら、ボクも自転車を押していった。

 その国分君は列車までの時間があると、丘の上の学舎から長い坂をくだり県庁近くで最初にあらわれる本屋(海宝堂といったか?)で、立ち読みをし列車入線時刻にあわせて帰るしっかり者だった。どうしっかりしているかというと、彼は、本屋で時間調整するときにレジの女店主へ、「立ち読みさせていただきます!」と堂々とお願いする。

 それから足元にカバンを置き、悠々と週刊誌や雑誌の類ではなく、参考書や辞典の立ち読みを始める。そういうものだけを立ち読みする人は珍しいのだろう。レジの女主人は文句をいわない。

 当時は制帽にぐるりと横一文字に白線が入っていて、登下校時にこれをかぶるのが校則だ。同時にそれはこの帽子のしたの脳味噌は上出来であるゾ、無礼があってはならない、と市民へ告げているのだ。頭が高いぞ、これが見えぬか、の印籠みたいなものだった。

 世間のかってな評判というのは恐いものだ。うちの親父などは、合格したあとで、歩いて行けない距離でもないが自転車通学をしてみたいと愚息が恐る恐る申し出てみたら、翌々日には無条件で金色塗装すらしてある高そうなピカピカの新品を買いあたえてくれた。 その時ボクははびっくりしたわけだが、親父のほうがきっと秀才校に入れるはずの無い伜が受かってしまったので、嬉しくて気が動転していたのだろう。

 文庫本コーナーで密かにトニオ・クレーゲルをボクが目探ししていたとき、国分君よりは読書趣味の固くないらしいG君が、そばから秀才らしい落ち着いた声で教えてくれた。この秀才には目の潤んだ忠実な犬のような優しさがあった。

 「『罪と罰』なんかロシアの作家の長編だけどおもしろいと思うよ。ロシア人て変てこなのばかり出てくるんだ。イアン・フレミングの007シリーズと同じだね」

 その助言をありがたく覚えた。ある日ひとりで、思い切って家の近くの本屋でその本『罪と罰』を買った。いかにも大人の読むような厚い本を買うのは恥ずかしかった。

 しかし、殺しの許可番号を与えられている007のジェームズ・ボンドといえば映画館で「007危機一髪〜ロシアより愛をこめて」を中学三年のときに見て、B君からサントラ番のレコードを借り、英語のまま意味もわからずに主題歌を丸暗記したことがある。 ああいった映画の面白さを備えている本だというG君のすすめにしたがったのだ。

 『罪と罰』は緑色のハードカバーの厚い本だった。自分で買ったのは高校にはいって小遣いも増えていたらしい。『罪と罰』を興奮しながらほとんど一晩でねじ伏せるように読んでしまった。

 その後もう一度読み返したことはないし中身もすっかり忘れたが、深夜になっても眠る気がしないままどんどんページを繰っていった『罪と罰』の展開の、引き込まれるような緊張感が、ボクの初めて知った読書世界だった気がする。

 自分で本をよむ楽しさを知った。考えてみたら何を選ぼうが読むのは自由なのだ。予習復習をやって来たかと先生に責められることもない。この文章のいわんとするところを一行に要約せよ等という無茶なテストとも関係ない。

 それからは昼休みや放課後に学校の図書室へいっては手当たりしだいに借り出した。図書室には、大学受験にかかわりの無いかなりな量の本があった。いま思えば内容がちゃんとわかって読んでいたのか怪しい。

 なにせゴーリキーの『幼年時代』と岩野泡鳴の『眈溺』とアンリ・ファーブルの『ファーブル昆虫記』を同時に読んでいるような選択をしていた。目的の無い雑読である。芭蕉の連句の『猿簑』や『冬の日』などは分からないなりに気に入ったのか、その必要がないままそっくり連句一巻を覚えた。

 といって本の虫になったのではなかった。幾冊読んでも身のうちに何も残らないのだ。今までとちがって知識の暗記ではなく、夏にシャワーで身の汗を流し落とす勢いのように、読む行為で活字のみずみずしい噴射を自分の頭の汚れに浴びせていただけらしい。

 受験用の棒暗記ばかりやっていた中学後半の生活から解放され、暗記グセはまた残りながら、目当てもなく捜しものをしていた一時期なのだろう。

8.菊地先生に対する生徒会からの要望

 ある日、下校途中に菊地先生が例のよちよちした歩幅の出し方で一人で前を行くのに気づいた。その日はG君と二人だった。行く方角が我々としばらく同じだったから、国鉄の千葉駅かなと思った。あのころ先生がどこに住んでいらしたか知らない。その後ろ姿が奈良屋百貨店のわきを抜けて京成千葉駅方面へ折れ、そこから緑屋の前を右折し都川ぞいに出て、富士見橋を渡った。間違いなく千葉駅へ向かっている。

 G君が小声でこう言った。
 「菊地先生が時々やってくれている朗読の授業方法に、生徒会か何かでクレームが出ているらしいよ。普通の授業をしてくださいという決議を取りかかっているんだって。不思議だけど教員室でも反対はしていないらしい。生徒会にオブザーバーで出ている先生は頷いていたそうだ」
 「なぜ、先生方は反対しないんだい?」
 「他の国語担任に受けているクラスと授業の進みが合わなくなるということさ。H君から聞いたんだ」
 「…へーっ?」

 H君は生徒会の委員をつとめている。こせつかないで落ち着いた大人的な雰囲気があるので皆で彼の立候補を推したのだ。
 「H君は、朗読の時間を楽しみにしてたよ、確か? 彼は授業方法に反対してないだろう」と、聞き返してみた。
 「うん、でも生徒会の他の委員がさ、何人かで、各クラスの声をまとめてきちゃっているんだって。一年生だけじゃなくて、二年生、三年生の分もまとめてあるらしい。もう大勢は見えているらしいよ」
 「失礼だな、生徒のぶんざいでさ。生徒会の決議なんかに、先生の授業方法を変えさせる効力があるってのか?」
 「うーん、わからない。でも生徒会で決まったら一要望として、朗読授業の廃止願いを職員室へ出すんじゃない? そのあとは先生がたで話し合うんじゃないかな、職員会議か何かでね」

 G君のいう通りなのだろう。
 「生徒会はその議決、もうしちゃったのかな? 畜生、そうだ、議決してあってもいいや、そんなものに従うことはねえよ。うちのクラスだけは菊ッチャンにたのんで朗読の授業をやってもらおうぜ!」

 その声が聞こえてしまった訳ではなかっただろうが、歩きながら先生がチラッとこちらを振り向いた。とくに我々を認めた様子はない。うちの生徒の服装だぐらいに思ったらしい。小脇には例の紫色の風呂敷包みを抱えていた。ポータブル・プレイヤーは入っていない。嵩ばりからすると四六判の少し厚めの本が二冊包まれているふうだった。

9.当時の千葉市

 新しいビルディングの建った国鉄千葉駅の正面から真東へとまっすぐのびている、目抜き通りであるブロードウェイの東側入り口に来ていた。ブロードウェイでは歩道ができたてのタイル張りに替わったところだ。タイルは絵をもかたどってある。

 このころの千葉市は、まだ今みたいな巨大過ぎる都市ではなくて、蒸気機関車時代にくすんでしまった旧千葉駅が今の場所に引っ越してきて間もなくで、まわりの再開発が新たな都市空間をなしつつ、タール工事の匂いをさせ、舗装がじゃんじゃん進んでいる時期だった。しばらく行かないでいると元あった古い道が新規の建物により塞がれて、地下道に代わっていたりする。

 それは新しい千葉駅が何十本もの引き込み用線路を増やしたおかげだ。そして、この新たな千葉駅からもう少し裏手のほうに向けて京葉自動車道がバイパスでどこかから延長してくるはずだった。

 千葉は、道路も鉄道も、隣接する首都との大動脈を繋ごうとしていた。駅の北にあたる裏側などはまったく昔のわびしい景色が無くなってしまった。国鉄旧千葉駅から続く小さなバーや一杯飲み屋などがゴチャゴチャとあったのだが。小学時代の友達の一人は、その辺りのバーの坊ちゃんだった。

 そして、駅前から市街地へとまっすぐ伸びた幅広い二車線は、片側一方向ずつにわけた車道に沿って銀杏が街路樹としてかなたまで植えられた。その両側に、電気会社や通信会社の名がはいった、ガラスのキラキラ光る巨大なビルディング群が従ってゆく。すでにここがマンモス都市になる予兆はあった。

10.菊地先生の最後の朗読

 ずんぐりして内股で、決して見栄えの良い体型ではない、地味な菊地先生のうしろ姿は、こういう都会化の進みだした千葉駅前のしゃれた風景に何かそぐわなかった。
 一つには、背中が寂しげで頼りなく見えたこと、二つ目は、先生の様子が明らかに、新時代へと変わり目のスピードを上げている外の風景に無関心らしいことだ。三つ目は、この新都市側が先生を異端者として際立たせようとしている感じであったことだ。

 当時の発展する千葉市の歩行者で、先生みたいに孤独な様子をもろに現わしてしまっている人影はなかったのではなかろうか。

 翌日、クラスでH君に生徒会決議の件を聞いてみたら、もう数日前にことが済んでいた。最終的には、生徒が決議を取るようなことではないと真っ向から反対したH君などの意見がとおり、菊地先生の朗読の件は、生徒会決議ではなく、多くのクラスの要望としてオブザーバーの先生が黙って持ち帰ったという。

 「先生方どうしの反目もあるのかも知れない」とH君は感想をいっていた。

 他にも生徒が出した要望点、たとえば売店に新たにおいてほしい日用品の一覧、全校朝礼時のならび方、校内放送用器具の改善などいったものと一緒に職員会議に回されているとのことだった。

 その結果と思われるものは、すぐに出た。

 一週間ほどしたある日の朝、我々のクラスへと一時間目の授業をしに入って来た菊地先生は風呂敷包みからポータブル・プレイヤーを、例の、伏し目がちなしぐさで取り出した。ボクを含む五、六人で拍手。他からは小さめなブーイングだ。先生はいつもみたいに生徒の反応を気にする風がなかった。

 H君は僕の方へ握り拳からぐいと親指を天に突き立ててみせた。アメリカ人の得意な、やったぜのしぐさだ。僕も真似をしてそのガッツポーズを返した。こっちを向いたG君へも笑って同じ合図を送った。心配するほどのことではなかったのだ。

 「厭だろうけど、これで終わりにするからさ。反対なんだろ?」

 コードをつなぎ終えた菊地先生の目が一瞬クラスじゅうを見まわし、素早い口調で、確かにそういった。あれっ、今の声音は、やけに捨て鉢なものの言い方だったようだ。

 何のことだ、これで終わりにするからさ、とは。でも、先生はそれきり伏し目になって薄赤い顔は、それ以上なにも言わなかった。

 先生はレコードをかけ、いつもの朗読時間の折のように、曲のどこから読みに入るのか分からない姿勢で教壇にもたれ、うっとりとする短い間合いをおいた。

 流れた曲はチゴイネルワイゼン。一斉な出の管弦楽にすぐ続き、バイオリン・ソロが弓で強く擦られながら切なげに奏でられて出る。ジプシーの激しい熱情の変化をゆらめかしているような旋律だ。この作曲者サラサーテという人は長らく当時の音楽界から離れていて、あるとき戻ってきたら、演奏困難なこの名曲をひっさげ自身で弾きこなした、と何かで読んだ気がする。

 菊地先生が朗読をはじめたのはシュニッツラー原作の「盲目のジェロニモとその兄」を、先生がかなり縮めたもの。いつもよりはずっと短い、十五分ぐらいの朗読だった。

 先生にしては、いつものように文の切れ目に充分な間合いのある沈黙を挟むことで、余情感を込めるといった工夫もなかった。ただ淡々と、盲目の弟ジェロニモとその兄との会話を読みすすめただけだ。それなのに、やがて生徒の耳には、音質の違う二人の兄弟の声が、別々に聞こえ出した。

 ……一シーズンを旅籠の庭先にいて、馬車で着く旅客にギター曲を弾いては小銭を稼ぐ弟は、その面倒を見てくれている目明きの兄をひょんなことから疑りだす。自分の稼ぎ高を、兄に騙し取られているのだと思い込む。その疑心は、この兄弟を仲違いさせるためにある旅の男が、盲目の弟へ、あんたはだまされていると悪意で言った嘘の告げ口が始まりなのだ。それからは、兄がどんなことをして弟の気分をほぐしてやろうとしても、弟はひどく凝り固まった心を兄へ解かない。

 とうとう兄は、盲目の弟の心が、たった一人の兄弟をも疑っているその元であると知った架空の金貨を、ただ弟の気を晴らしてやりたいがためだけに、旅籠の、ある泊り客の財布から夜中に盗んでしまう。

 兄弟はその明くる朝早く、新しいシーズンに向け例年のように稼ぎ場を求め、南へと旅立ってゆく。少し離れる時期が早いが、ここにはもう居られないと思う兄の提案でだ。この旅の路上で兄は、弟にブツを触らせる。盲目の弟は、金貨の手触りに喜んだか?

 

 いや、喜びはしない。どうだオレの思ったとおり、兄貴は俺をずうっと騙していたんだと、そうかたくなに言ったのだ。だが、山路を彼らの下って行く街道の、はるか先に見える街から歩いて来た一人の憲兵が、道で彼らを待っている。二人はその憲兵に、宿で金貨を盗んだだろう泥棒の嫌疑で裁判所へしょっぴかれるのだ。

 その前に盲目の弟が、兄へ問う。  「何故おまえは、憲兵に何ももんくを言わないのさ兄貴? 何故、おまえは、これが俺の稼いだ財産だって言わないのさ、なあ兄貴」と。

 だが兄は弟へ答えられずに黙っている。全ての罪は自分一人にあると裁判所で告白するつもりで、兄は歩き出すのだ。盲目の弟も、兄の腕に回した手をひかれるまま歩き出す。が、やがて弟は立ち停まってしまい、その両手で兄の顔へ触れる。盲目の弟は悟ったのだ、自分が、長らく間違っていたことを。立ち停まってしまった弟のする不思議なその変化に、兄も、やがて気づく。弟は兄を抱き締め、その口へ接吻する。憲兵が、早く先へ行けと兄の背をどついても、兄は気づかぬ風だった。

 その時の兄の様子に付いて書かれた、物語の最後のフレーズが、こう読まれた。  「…彼には、今はもうなんにも、いやな事なんか起こらないような気がした。−彼はふたたび弟を持った……いや、彼は今、はじめて弟を持った……」

 その箇所では、指先で横に涙をそうっとぬぐう女生徒も何人かいた。いや男子生徒も多くが机へ上体を被せ、こぼれそうな涙を人に見られまいとしていたのが本当だ。

 しかしそのシーンとした好い雰囲気は、なが続きはしなかった。次に先生が言った、例のどこの国の訛りかしれない鈍臭い響きのコトバでもって一瞬に消されたのだ。

 「もう、今日でおしまい、これからは、朗読はしないよ。でも覚えておくんだね、私は、きみたちに……愛を教えたのですね」
 菊地先生はかすかに微笑んだ。思い切って言ったように赤らむ顔を上へ反らしていた。舞台の上で言ったようなセリフだ。

 まさか、という無言の反応のあとで、途端に、げらげらとばかり男の子達は、その涙のこぼれるのもかまわずに笑った。最高の冗談を聞いたみたいに必要以上に肩をゆらした。ヘーエ愛だってェ? 愛だってさ! 愛なんて気恥ずかしいこと、よく言うよ。この年頃の少年に、愛とは、とても口に出せぬこそばゆさがある言葉の一つだったのだ。

 これは、後で聞けば、この日に先生が最後の朗読の授業をやったどこのクラスでもそういう反応があったという。しかし女生徒は一人も笑わなかったらしい。人間の発明した重大なコトバに関する、真面目な知識の成熟度は、はるかに女生徒のほうが上だった。

11.都川に投げ込まれたポータブル・プレイヤー

 この最後の朗読の日は朝から強い雨つづきで、自転車を諦めてボクは、自宅前の国道14号線を走っている京成電鉄の路線バスで登校していた。下校時は40分程ブラブラ歩いて帰ればよかった。放課後に図書室であれこれと読み、新たに一冊を借りて夕方の雨のなかを一人で、国鉄千葉駅に寄る遠回りルートで来ると、コウモリ傘の向こうに菊地先生が歩いているのに気づいた。

 劣等生だったボクは、いつか機会があったら、このよちよち歩きのずんぐりした国語の先生に、一言だけお礼の様なコトバを、自分が言うかもしれないつもりでいた。先生の朗読を聞いたのが切っ掛けで、おかげで本を読むようになりました、まだトニオ・クレーゲルは読んではいませんが、と。しかし、それをいう機会は無いだろう、もしチャンスがあったとしても気恥ずかしくて言えないな、とも思っていたのだ。

 が、この強雨の日、大きな風呂敷包みを小脇にして、ゴム長靴姿でコウモリを揺らしながら行く、低い背中を目の前に見たら、今なら近づいてゆき一声だけ、言えそうな気がした。先生は、「そうかい」と物憂げに答えるだけだろうが、顔が喜んでくれるだろう。授業中に観察しているから分かるが、先生は、そういう隠しワザが苦手な人だった。澄まそうとしても、感情が顔つきや顔色に出てしまう。

 先生の抱いた風呂敷包みは、後ろ側が風向きのせいで、雨にかなり濡れていた。
 「ねえ菊地先生、もっと前に出して持ち直さないと駅へ着くまでに、荷物に水がグッショリ染み透ってしまいますよ」と言ってあげるつもりでボクは足を早めた。
この先生の風呂敷包みのだかえ方が、なんだか心がそこに無い気の抜けたような感じだったこともある。時々そんな様子がある人だったから、早めに注意してあげないと…。

 追いつきそうになったら、そこは市の真ん中をくねりながら通っている都川の、すぐ手前だった。富士見橋たもとの信号を、都川の上流側へ渡るとすぐ、石畳の歩道が付いた平たい富士見橋がある。橋ぎわは市を横切るメイン道路を、市街の三方向へ分けている。うちの一本は、新しい国鉄千葉駅正面へと向かい、銀杏のブロードウェイに続くのだ。

 先生は、その橋ぞいの途中で急に立ち止まったかと思うと、一瞬に右向きになり、石橋の手摺へヨチヨチ寄っていった。そして下の川をのぞき込んだ。都川はいつも、潮臭さの混じっているドブ川だ。東京湾の潮流の干満で、その水位が一日で何度もかわる。きょうは朝からの強雨で、今が干潮時か満潮時かも判らないほどに増水で膨れ上がり、乱れながら下流へ向かっている。ボクもそれをのぞきこんだ。あと五、六歩もあるけば先生の傘に触れられる距離まで来ていた。

 が、それ以上先生へ近づく前に、先生のコウモリ傘の下で、傘をゆらした何かの仕草があった。すると解かれた風呂敷の、紫色のはしっこが、重たげにぶらんと傘の下方に垂れた。それからすぐに、赤蓋付きポータブル・プレイヤーが不意に傘の外にあらわれ、雨粒を受けながら、水滴を弾き、真っ逆様に川へ投げ落とされた。ちゅうちょのない放りかただった。雨音よりも強くバシャーンと水面を打つ音がした。驚いてボクが再び川をのぞき込むと、箱状のプレイヤーは、まだ空気が入らずにプカプカ浮かび、しかも、増水に踊りながら、幅広い富士見橋の下の暗がりへと踊り込んで、消えるところだった。

 顔を上げて左を見たら、菊地先生のフラフラするような後ろ姿が、もう国鉄千葉駅のほうへ歩き出していた。コウモリ傘を変なふうに斜めにさしているので、先生は肩先から濡れているのだが、それには気づいていないらしかった。

 ボクは橋上に突っ立ったまま、夕方の人通りを眺めていた。もうコウモリ傘の間に消えた菊地先生を追って行く気がしなかったのと、何とはなく、バシャーンと激しい音を立てて水面を打った物の未来を考えていたのだ。ボクに、本を読む気をおこさせてくれたポータブル・プレイヤーは、さっきのあのまま、ここから2キロ程下流にある出州港まで浮かんで行けるだろうか、と。

12.●菊地先生との別れ

 そして三学期の終わりに近いある日だった。全校朝礼があった。我々のクラスの教室は、全校朝礼をする石畳の中庭からは一番遠い位置にあったから、前回から生徒会提案で、集団の一番後ろに来て並べばいいことになっていた。ボクは、このクラスの仲間とも直ぐお別れだなァと思いながら一番遅く列のうしろに付いた。二年生になったらクラス替えがあるのだ。

 集会をする露天の中庭は石畳で、全校生徒1200人をあつめられる広さだ。中庭は周囲の三方に二階建ての高い校舎が建ち、また、我々の直ぐうしろ側を、雨天用の渡り廊下つきで理科教室などが取りかこんでいた。マイクを使った朝礼の声は、だから、校舎群がかこんだ真ん中の空間に、とてもよく響いて聞こえるのだった。

 かなた前方には、石段を両脇から上がる式の演壇がある。この朝、長話の好きな教頭があれやこれやと何の話をしていたのか、今は、疾っくに忘れてしまったが、やがて、ある一つのことだけがボクに聞き耳を立てさせた。そのときのことをくっきり記憶している。ぼんやりしていたら、一つの名が耳へ飛び込んで来たのだ。

 この学校を去るという、ひとりの転任教師の名が呼ばれた。去るというその赴任先は、県庁のあるこの市よりも、県のだいぶ南部にあたる山の中にあるはずの地名だった。

 そして次に、中央の石の演壇上にあがったのは、教頭から名を紹介された国語の菊地先生だった。先生の様子は、かすかに恥じらっているみたいだった。30余年前の少年である当時のボクは、いま思うと嘘みたいに目が良かったらしい。先生は上ったら、ちょっと赤らめた顔で、ここでお別れに言うコトバを、今探るようにどんくさい身をモゾモゾとうごめかせた。するとそこから周囲へ感染するみたいなぎこちなげな沈黙の間がひろがった。

 それだけでもう男子生徒は、ワーッと声を上げた。思えば今迄この先生が、こんなに派手やかな場所である演壇上に現われたことは無いのだ。生徒みなの上げた声は、舞台上に主演役者の出番を迎えたように、嬉しそうで、そして、ぶしつけなほど親しげだった。

 菊地先生は決して生徒に不人気であったのではない。生徒とは距離をとって、個人的に親しい口をきくわけでなく、又どんなに出来る子であってもえこひいきをする甘い様子は一度もなかった。だから進学高校の教師の陥りがちな、出来ない子を嫌うという悪癖とは無縁なひとなのだ。

 調子のいい生徒が甘えかかろうとすれば、厭そうに身震いすらしたものだ。孤独を保とうとして努力していたのは確かだ。孤独に徹し切れないときに彼は、プレイヤーを回す朗読の時間を設けていたのかも知れない。

 どっと前のほうが笑った。先生がなにか言う身ぶりをしたのは見えた。だが、先生の立った位置がマイクと遠すぎたらしくて、声がマイクには通らず、その肉声しか聞こえない遠い前列のほうだけが沸いたのだ。

 ずいと一歩前へ出る先生の姿が見えた。マイクの声がボワーンと広がった。先生は今度、前へ出すぎてマイクに口をくっつけすぎたみたいだった。でも、どこの訛りとも知れないあの泥くさい声がよーく聞こえてきた。

 「スーウ、こ、ここを去ることになりました。皆さんは、きっとじきに、ちんちくりんの私のことなど忘れてしまうだろうね? それは仕方がないことだ。でも、ひとつ言っておこうね、これだけはいつまでも忘れないでいてください。ワタクシが、あなた達生徒にここで教えたのは愛なのです! わかりますか、愛が、人生や、スーウ、その人の生きてゆく未来を変えるのですね」

 「ん…?」なんだ、なんだ、この挨拶は。
一瞬もない直後に千名以上の男子生徒の頭上に浮き出たマークだ。ボクにはそのマークが見えた気もした。

 「エーッ!」
 どっとばかり一つになった旋風のように、男子生徒から一斉に歓声がおこった。生徒の羽目を外した笑い声と、口へ指さえ突っ込んでピーピーふき鳴らす口笛と、ただもうワアーッと言っているのがごっちゃになっている。笑い声には可笑しがっているのと、何か哀れがっている響きと、そして、シャイな菊地先生が、よくぞ群集を前にあんな壇上で言ったもんだなァ、と半分呆れているものまであった。

 小学校時代から、いろいろな先生の別れの挨拶を聞いてきている生徒たちだろうが、こんなのは初めてだったに違いない。数の少ない女生徒の反応は分からなかった。でも見回したら彼女達は騒いではいなかった。

 菊地先生は、生徒のざわめき反応に勇気を得たみたいだった。今日はレコードを回す必要はない。かるく片手さえ挙げ、生徒のざわつきを制する仕草をした。その顔の紅潮に、うっすらと笑みが浮かんでいた。彼が今この一瞬を楽しんでいるのは確かだった。

 「もう一度いっておこうかね…スーウ」と、マイクで膨らんだ鼻息と声が、校舎ではねて谺しつつ広がった。聞こえてきたのは彼らしい優しくて恥ずかしげな声であった。

 「生徒は、憶えておきなさい! きみたちに教えたのは愛なのです。どこまでも人への愛を忘れずにゆきなさいね!  じゃ…ワタシとキミ達は、これで…もうサヨナラだよ」

 伊藤三平君の記によれば、菊地久治先生の名は同窓会名簿にもないそうである。

       

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