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2 日本3大ガッカリ Date:10/5/2003-Sun-11:04:15-AM

日本3大ガッカリというのは知らなかった。

札幌の時計台
ナッツさんのおっしゃるとおり札幌の時計台に罪はない。素晴らしい建物だと思う。

あそこに置いておかなくても大通公園、北大植物園か北大の校内に移転した方が良いのではないでしょうか。

長崎のオランダ坂
ただのダラダラした坂。昔、オランダ人が通ったであろうというのが由来らしい。低地のオランダと坂は結びつかない。

これは本当に日本3大ガッカリに入るのでしょうか?ガッカリ以前だと思うけど。

高知のはりまや橋
川がない。昔は大きな通りの両側に赤くケバい欄干が置いてあるだけだったが、今では橋らしく造り替えてある。

よさこい節が流行らなければとうに消滅していたはずだと思う。

橋と言えば数寄屋橋も名前だけ。お江戸日本橋なんかガッカリを通り越して無惨としか言いようがない。

● ナッツ ●:時計台に罪はない Date:9/30/2003-Tue-9:34:55-AM

札幌の時計台が三大ガッカリの一つ、との書き込みがありましたが、札幌に住んでいたことのある私としては、、あまり愉快ではありません。でも解るような気もしないではない。

あれは、カメラマンが悪いんですよ。悪いんじゃなくて上手なのかな?

ビルに囲まれた街中に建っているのに、まるで草原の中にでもあるように撮るのですから。絵はがきにしたって、観光ガイドブックにしたって、かなりきついアングルでうまく撮ってますね。それで皆さん、勝手に期待して、勝手にガッカリするのでしょう。

もともとは北海道大学の演舞場として使われていた所ですから、そんな原野にある訳がないです。今は札幌市の管理するところですが、一番、時計台の景観を損ねているのは、すぐ側にそびえ立つ高層ビル。市役所庁舎です。

専属の時計屋さんがメンテナンスしてくれているお蔭で、時は正確に刻んでいるようです。かわいい建物で私は好きですが。

● 伊藤 三平 ●:3大がっかりとベスト百 Date:9/24/2003-Wed-5:33:40-PM

リュウさんは、「世界3大ガッカリ」とか、「ヨーロッパ3大ガッカリ」を書いているから、てっきり「日本3大ガッカリ」にも触れているかと思ったら、まだのようだ。

今夏、九州の長崎に行ったら、ガイドさんが「長崎のオランダ坂は日本3大ガッカリに挙げられております。ちなみに後の2つは札幌の時計台と高知のはりまや橋です」と述べていた。

山に行く人は深田久弥の選定した「日本百名山」にこだわっている人も多い。
私は、山は新田次郎の世界だけだが、このようなブランド化は、かえって山好きな人の眼を見えなくしているのではなかろうかと思ってしまう。

息子の机の上に新潮文庫ベスト百冊の小冊子あった。この歳になると「良書百冊なんて、嘘っぱち。あんなの信じるな」と言えるが、こんな私でも、昔は良書に感動しない私の読み方が悪いのかとか、感動しない性格に問題があるのかと気に病んだ純真な時期がありましたよ。

えっ、伊藤は、もっと気に病むべきだと。


3 熱海 Date:10/9/2003-Thu-3:23:50-PM

熱海は車でも都心から約1時間。

早く着きそうだったので「久しぶりに箱根を回っていこうか」と箱根ターンパイクにハンドルを切った。坂道をユンボを乗せたトレーラーがのろのろはい上がっているのをようやくパスし、快調に走り出しだした。

暫くすると、道路脇から赤い旗を振りながら白い服を着た作業員風の男が飛び出してきた。旗に「止まれ」と書いてある。「ウン?何だ?」

スピードの一斉検問だった。

「ここは制限速度50キロです。貴方は74キロでしたので24キロオーバーで減点2で、15,000円の反則金です」
「すみません。25キロオーバーだと違いました?」
「はい。減点も金額も増えます」

聞いて「ラッキー!」と思ったが、瞬時に「俺は本当にポジティブシンキングな奴だ」と情けなくなった。

宿について捕まった旨話したら、従兄弟の子が「私も箱根に寄ろうかと思ったんですが、父親が「ターンパイクは一斉やっているぞ」と言うので止めました」と言う。

「何でお前のオヤジはそんなこと知っているんだ?」と聞くと「父も捕まったんです」とのこと。しょうがない一族だ。

この旅行は先輩が招待してくれるもので2年前にも熱海では老舗の同じ旅館に1泊した。費用は先輩持ち。ごちそうになるのは4人だった。

夕食に芸者二人が付いた。終わって芸者が2次会にカラオケに行こうと誘う。

私は招待を受けた方では一番の年かさだったので、2次会まで丸抱えという訳にもいかないと殊勝な考えを起こし、2次会の芸者の花代は俺が持つと宣言した。
2次会の途中で部屋に帰って寝てしまった。

同室者がえらく遅く帰った記憶はある。

翌朝、風呂場で「いやー。夜中にラーメンまで食べに行きました」と言っていた。芸者の花代の請求書を見たら目の玉が飛び出た。心臓が熱を持った。

クレジットカードを持っていて良かった。

私が若い頃、色々な会の会計だの書記だのの下っ端をしていて、宴会の幹事になると何が大切かというと2次会以降の芸者やコンパニオンの扱いで、彼女たちはいつまでも居たがるので、いかにして1次会だけで断るか、2次会まで呼んだとしてそれ以降は必ず「切る」こと、仮に先輩が続けると言う場合は費用はその先輩に払わせることを納得させること等であった。

今時の若い者はそんなことも知らないのか。

芸者と夜中過ぎにラーメン食べてもその間タイムチャージが付くのも知らないのか。
時給いくらだか知っているのか?

身の程も考えずに見栄を張った私が馬鹿だった、と良い勉強をした。

● 伊藤三平 ●RE:旅の余話 3 熱海 Date:10/10/2003-Fri-5:46:09-PM

リュウさん、豪勢ですな。いや悲惨と言うべきでしょうか。

このHPに熱海の芸者の花代相場が出ていた。旅館によって違うらしいけれど。
http://www.atami-furuya.co.jp/geisha.htm
最初の2時間が1人23140円とある。以降は30分単位に1人5250円とある。

若者は2人の芸者と4時間程度遊んだのでしょうか。
そうすると84000円(5250円×2人×4時間×2(30分単位))だ。
大変だ。大好きなハワイに行けてしまうのではないですか。

よけいな計算をするなと? 失礼しました。
「同期にはこういう奴もいるから」と言って、妻に言い訳する時に使えそうだ。

● リュウ ●:旅の余話のこぼれ話 熱海 Date:10/11/2003-Sat-9:13:01-PM

まさにこのHPの熱海の「古屋」でした。ぴったしカンカン。

但し、花代は外れ。ブー。もっと高かった。何てったって夜中過ぎのラーメン屋までですから。


10 立ち食い蕎麦 Date:12/2/2003-Tue-5:15:00-PM

根が貧乏性なのか立ち食い蕎麦が好きです。旅先の駅のホームに蕎麦屋があるとそそられます。高速道路のパーキングでは必ず立ち食い蕎麦です。

JR千葉駅の万葉軒の天玉そばも値段を考えれば満足のゆくものだと思っています。

この蕎麦のつゆは元々とても辛かったのですが、5年くらい前に味が変わったので社長に聞いてみたら
「関東出身じゃないと思われるお客さんから辛すぎると苦情を頻繁に言われるのでつゆを一晩多く寝かせて少し甘くした」
と言っていました。

皆さんがおいしくなくなったというのは、これが原因かもしれません。


11 雪の銀閣 Date:12/27/2003-Sat-9:40:03-PM

仕事で滋賀県の大津に出かけた。
普通だったら日帰りだが翌日が休みなので京都に一泊しようか迷いながら。仕事は午後2時には済み、それでも迷いを引きずりながら京都に出た。

「まだ時間はあるし、せっかくだから円通寺に寄ってみるか」
円通寺は、京都の北、宝ヶ池の近く。比叡山を借景にした庭が有名。書院に座って庭と叡山を眺めていたら小雪が舞いだした。

「今夜は祇園で雪見酒だ」
迷いは簡単に吹っ切れ途端に元気が出てきた。だが、その夜は雪は止んで空振りだった。

翌朝、窓の外は雪。銀閣に向かう。

庭に入って息を呑んだ。今風の用語例で鳥肌が立った。

銀沙灘、向月台には雪が被り、見越す銀閣の屋根は降りしきる雪の向こうに檜皮の茶と雪の白の市松模様。裏の杉林は東山魁偉画伯の屏風絵の様。

時に降り止み雲が流れる。「うーん!」言葉はない。後、哲学の道を南に下りて南禅寺脇の奥丹に入り、湯豆腐とお酒で一息ついた。

10数年前に雪の金閣を見たことがある。この時は雪の止んだあと、青空の日の光差す下の金閣。金色と言うよりプラチナ色に輝いていた。

豪奢な金閣と侘びの銀閣。好対照の雪景色は共に美しい。


12 浅草 2 三社祭り Date:1/23/2004-Fri-5:41:26-PM

浅草の観音さまはの隣に浅草神社、三社さまがある。ご神体は観音様を隅田川から掬い上げた漁師の兄弟二人と何だったか忘れたもう一人の三人。だから三社と言い、お祭りが三社祭り。本社の神輿も他の神社と異なり3台ある。

昔から不思議に思っているんだが、どうして本社のお神輿は胴に腹巻きみたいにサラシを巻いているのだろうか。グルグル巻きにされていて中に載っている神様は外も見えず暑苦しくてかなわないのではなかろうか。

ナンデダロー、ナンデダロー。

次ぎに神門の若い衆だか地回りだか知らないが、神輿の担ぎ棒の上に乗り扇子を持って調子取っているのがいるが、神様にけつを向けて無礼だと思わないのだろうか。
神輿には神様が載っているのだということが浅草の連中は頭が悪くて分かっていないのだろうか。
お祭りでもないのに神輿を引っぱり出してパレードなんかする場合は神様が載っていないのでかまわないと思うが。

浅草の氏子の各町内の神輿の中には子ども神輿みたいな小さいのもある。これ見よがしな入れ墨、ふんどし一本の大の大人達がちっけー神輿をつま先立ちの足を揃えて右、左、右、それにセイヤー、セイヤーなんて声を揃えている。

「町内で金集めて、もっとでかい神輿買えよ」とか
「バレーじゃあるめえし、みっともねえったらありゃしねー。やめろよ」と言う人はいないのだろうか。まあ、大喧嘩になるだろうけど。

やっぱり祭りは自分が生まれ育った街の祭りが一番なんだろう。

神輿といえば滋賀、大津の日吉大社の神輿はスゴイね。いかにも比叡山の荒法師が担いで都に駈け下りたという感じがする。今の人ではとても担げそうにない重量を感じる迫力満点の神輿がずらーと並んでいる。一見の価値はあると思う。


13 千葉の下町「蓮池」 Date:2/21/2004-Sat-3:47:21-PM

久しぶりに浅草に遊びに行った。浅草は下町の代表。

桂文楽の「明烏」の主人公時次郎が、浅草の観音様の裏手に御利益のたいそうあるお稲荷様があってお籠もりに行こうと連れ出されたのが「吉原」。
辺り一面葦の原っぱだったから葦原、吉原と呼ばれたそうな。

私、こう見えても生粋の下町っ子です。浅草の川向こう。といっても大川ばかりでなく更に離れた江戸川も越した、はるか先の千葉の下町ですが。

田舎の下町。
生まれたところは葦の原っぱではなく、蓮だらけの池を埋めたところ。今でも「蓮池」と呼びます。

葦の原だの蓮の池だのは住むにも商いをするにも適しない場所だから、いつかは遊郭街、花街になることが多かった。その様な名前の場所が日本全国にある。
京都の先斗町なんかも鴨川の川端で時々川が氾濫していたのではないだろうか。

千葉は戦前、県庁と千葉医専と陸軍の町だったそうで、それらに携わっていた人の息抜きの場所が蓮池界隈。
昭和10年頃の蓮池の地図を見ると割烹、料理屋、待合、カフェー、芸者屋、置屋、映画館、玉突き屋、で埋まっている。人力屋なんてえのもある。これは人力車屋のこと。この地図がおもしろいんだ。いちどマーカーで今でもその場所にあるものを赤、場所が変わっているがこの蓮池にあるものを青にしてみたら結構残っていた。

その頃の我が家の回りは割烹、寿司屋、見番、料理屋が囲み、お稲荷さんまでいた。

かの勝新太郎が「我が人生最大の汚点が千葉で生まれたことだ」と生前語っていました。父親の杵屋勝東次が常磐津の出稽古に来ていて蓮池の娘に惚れ込み、出来たのが若山、勝の兄弟。
その出生地がうちの隣の割烹。

最近まで営業していたがこの世の中の不景気に煽られて廃業し、今はコインパーキングになっている。

我が家は戦後は区画整理で道の反対側に移り、私が生まれたのはその後だが、それでも小学校の時は隣に別の割烹が越してきて毎晩三味線の音が聞こえていました。

幼稚園に入る前はキリスト教の幼稚園だったのに。えらい差だと思う。

近所の人々もほとんどが商人。その中に風俗関係の人が混じる。芸者、二号さん。
それに外国人。中国人、朝鮮人。これらの人はパチンコ屋、中華料理屋、支那そば屋等。特に差別ということもなかった。

良く可愛がって貰ったおばあさんの姉妹がいて、姉妹という割には年も違うし、似てもいないので幼心にもおかしいナーと思っていたが、やはりそれ系の姉妹だった。まあ、粋な人々でした。今、写真を見ると普通の人でないのは明か。

そんな街で育ったので自然関係は全く分からない。
小学校の頃カブトムシを採りにいって畑の穴にはまり怪我をしたり、市原の方の川に釣りに行ったが、川面に死んだ魚が浮いているのにそれでも何か釣れるかと糸を垂らしていて何も釣れなかったという経験しかない。

遊び場がデパートだった。デパートが開店したり、拡張すると直ぐに遊びに行きエレベーター、エスカレーターで遊んでいた。

頼まれてうちの庭に街頭テレビを置いたこともあった。この時の人出は凄かった。
番組はプロレスだったようだ。
その後は早く買った家に行って見せて貰った。テレビの前にきちんと座り始まるのを待った。テストパターンの長いこと、つまらないこと。

紙芝居は回りの子はよく観ていたが、我が家は教育に悪いからか観ることは禁止されていた。それでも観にいったがお金がないので飴や煎餅を買うことが出来ず、ただ見は後ろと言われ悲しい思いをした。

映画館はいくつあったか分からない。千葉劇場、新光館。この二つは地元では「臼井さんちの千葉劇場」等と呼んでいた。臼井さんとは衆議院議員、国務大臣だった臼井荘一先生で、その二男が同じ衆議院議員で防衛庁長官、法務大臣をされた千葉高の先輩の臼井日出男氏。同期の人の義理の兄さん。その他日活、松竹、演芸館、竹沢、ちょいと新しくて京成ローザ。それに大橋際のダイヤモンド劇場。

お祭りに子ども神輿を担ぐと映画館のただ券を何枚も貰えるのがうれしかった。そのただ券で見たジョン・ウェインの「リオブラボー」と「アラモ」が私の生涯最高の西部劇となっている。

うちの父親も時々夕食後に映画を見に行っていた。200メートルも歩かないで数軒の映画館があるので、今夕食後に居間のテレビで映画を見るのとさほど差がないのだろう。うちに下宿していた叔父さんは毎晩だったとか。

お祭りと言えば千葉神社の祭りが8月の16日から22日まで7日間ある。これは妙見さまのお祭りで、妙見さまは星の神様で北斗七星だから祭りも7日間続く。妙見さまの紋は月星紋あるいは九曜紋で、現在の千葉市の紋章はデザイン的にこれを模したようなものだが、市の6つの区を表しているので星が6つしかない。四街道が千葉に合併されると丁度7つになり、きっと紋章も7星に替えられるはずと密かに期待している。

同期の人には合併反対の人がいらっしゃるようだが。

16日と22日には千葉神社の大人神輿ばかりでなく、町内の子ども神輿も練り歩く。丁度中日の19日には子ども神輿パレードがあり、氏子町の子ども神輿が千葉神社から銀座通り、中央銀座、市場町通りを経て県庁まで練っていった。全部でいくつあったのか記憶にないが、氏子町には必ず子ども神輿があったから、20から30の間だろうか。

私の街の子ども神輿には八日市場からお囃子の応援が付いていた。マーチングバンドみたいなものか。これは町内の寿司屋の主が八日市場出身で、この主が自腹を切って自分の郷里のお囃子を呼んでいたのだ。調子の良いお囃子で耳に残っている。

商店街の町内だから当時は豊でもあるし派手でもあったのだろう。神輿を担げば映画館のただ券ばかりでなく、何やかにやのお土産が貰えた。昼は赤飯のおにぎりだったがこれも素人の握ったおにぎりではなく、商店で売り物になっているおにぎりだった。あのころ飲んだ色の付いたシロップも懐かしい。

千葉の町の人は元から地元の人というよりどこかから出てきた人が多く、それは県内各地ばかりでなく県外からの人も多い。むしろ江戸時代からの人というのはほんの少数で、みんないわゆるよそ者だからじめじめしたところがない。

その代わりかどうか気が短いようだ。何をやっても長続きがしない。お祭りの内容も良く変わっていたようだ。

現在は、千葉市が主催する「親子三代夏祭り」というものが華やかで、千葉神社の祭りは陰になってしまった。

昔は平日でも人で溢れていた通り、今はまるで人がいない。日曜日は交差点の信号から次や、その次、更にはもっと先の信号まで数百メートル間に誰も歩いていない通りになってしまった。
ただ、年に一度だけこの「親子三代夏祭り」にだけは昔のような人波が戻ってくる。

もう下町なんていう言葉はなくなってゆくのかもしれない。


19 高野山 Date:9/13/2004-Mon-7:05:00-PM

今年7月にユネスコの世界遺産に登録された「紀伊山地と参詣道」。
吉野、熊野、高野、というと人の名みたいで他人事とは思えないネ。
それにしても、何でみんな「野」なんだろう。

高野山。
険峻な紀伊山地の中にあるがここだけ盆地のようになっていてかなり広い。
山に着くと予想外の広さと明るさが不思議に感じ、直ぐに山の上にいることを忘れる。
道も平らな道が数キロ続き、両脇には築地塀、四脚門、薬医門等に囲まれた塔頭寺院が並ぶ。まるで時代が数百年遡ったような気がする。

山全体が聖地となっている。
坊さんか、寺の生活に必要な出入りの人か、観光関係の人しか住んでいない。
魚屋もあるが、表通りではなく裏通りにある。スナック、バーも裏通りにはあるらしい。

日本の総菩提所と呼ばれる。
こんな場所は日本どころか世界にも珍しいと思う。
奥の院には宗旨にかかわらず数万の墓所、墓石が並ぶ。上杉謙信と武田信玄の墓が向かい合わせに立ち、その他織田信長、豊臣秀吉、前田利家等の戦国大名、徳川の各家。
勿論そこにはお骨が埋まっているわけではなく供養塔である。
それから近代の大企業の社員関係者の慰霊碑、そして名もない庶民の墓。今でも増え続けている。
これを案内の人の解説を聞きながら右だ左だ、手前だ奥だとキョロキョロしながら歩くと約2キロの参道がアッという間に過ぎ、弘法大師空海が未だ生きていて禅定しているという奥の院御廟に辿り着く。

今では高野山へのアプローチは電車か自動車が普通。
昔の参詣道である町石道が残されてはいる。麓の九度山から高野山まで約20キロ、1町毎に石塔が置かれその数が180とも言われる。
私は歩いたことはない。勿論。

電車では、大阪の難波から特急で約2時間。東京での感覚から言えば日光くらいの距離である。
高野山に近づくとうねうねと川岸を曲がりくねった上りになり、山の手前でとうとう電車では登り切れず、ケイブルカーに乗り換えて高野山に着く。

自動車では、これも曲がりくねった道を登る。日光のいろは坂ほどの整備はされていない。ちょっと油断をすると車酔いになる。
山上で大きな行事が行われると数百台の大型バスが上り下りする。
道が狭く、バス同士のすれ違いがかなり難しい箇所が多く、その交換に時間がかかる。
大型バスの一番前の座席で見ていると、運転手の力量がよく分かる。
2台が角をつき合わせると運転が巧いか否かは運転手同士では直ぐに分かるようで、たちどころに巧い方が主導権を取る。へたな方はできるだけ端に寄せるだけで後は巧い方が動く。ハンドルを右に左にグルグル回して数10センチの範囲で何回もバスを前進後退させる。必要があるときはへたな方に指示する。別に言葉を交わすわけではない。
数センチの隙間でバスを行き来させる。
相手のバスの運転手が巧い方で、その運転をガラス越しに目の前で見ていると「いやー、たいしたもんだ」と感動する。明らかに職人の世界だ。

これも現代の参詣道である。


21 幕張ベイタウンDate:12/9/2004-Thu-5:54:10-PM

今日日はクリスマスが近づくとあちらこちらの住宅地で競ってクリスマスイルミネーションを飾っているが、幕張ベイタウンも結構有名になっている。
2年前に娘さんを誘って見に行った。
幕張新都心のマンション群はパティオスと名付けた欧米風のこぎれいな建物が並んでいるが、一棟の建物の何軒もが思い思いのクリスマスイルミネーションを飾っていて、そんな建物が並んでいるので見応えがある。
車で見て回ったが、停車発進、右折左折を繰り返したのと、車のエアコンの熱風に当たったようで娘さんが車酔いになってしまった。

うちではクリスマスの飾り付けはしないのかって?
しませんよ。「宗論」だもの。


23 京都 苔寺(西芳寺)Date:12/30/2004-Thu-4:26:07-PM

高校の修学旅行以来初めて苔寺に出かけた。
修学旅行で行ったでしょ?憶えていない?
私の記憶には庭一面の苔が瑞々しく輝いていたことが残っている。

現在、この寺は一般拝観を許していない。
予め往復葉書で申し込み許可を得る必要がある。
拝観料が一人3,000円。冥加金という。これは高い。
それに必ず般若心経の写経をすることが義務付けられている。
「俺もやんなきゃなんないの?」
要するに写経代込みの値段ということか。
拝観時間は写経の時間を含めて1時間半は掛かるとのこと。

午後1時に指定された。遅れてはいけないと緊張して早めに出かけた。
門前の茶屋で「とろろ蕎麦」を食べて待つ。
有名寺院の門前にしては鄙びている。
完全予約制で訪れる人が限られているからであろう。

午後1時少し前になってようやく門が開けられ入場できた。

寺にはいるとまずは本堂で写経を行わなくてはならない。
一人一人に経机があてがわれ、写経用紙、筆、硯が用意されている。
一度に100人くらいが入れる。
「100人×3,000円は」と直ぐに計算が始まる。
1日何回やっているのか分からないが、午前午後の2回ということであればたいした額にならないことは確かであろう。

写経が始まった頃に坊さんが出てきて般若心経を3回読む。

読み終わると案内人が「どうぞ写経をお続け下さい。
尚、お急ぎの方は途中までで結構です」と話す。
待ってましたと席を立つ人がいる。

「なに?途中までで良い?話が違わない?」
「何のために写経しろって言うの?3,000円を根拠付けるためでしょ?」
「だったら全員キチンと最後まで写経しろと言え!できるまでは庭を見せるな!」
「般若心経を金取る道具にするな!」

門前の看板に一般拝観を止めた理由が書かれていた。
この苔寺は山に近いところにあり、道が狭く、参詣者が多い頃は交通渋滞を引き起こし、近隣住民からの苦情が激しかった。駐車場の整備を繰り返したが追いつかず、結局少数の者にしか拝観を許さない方法にした、とある。
それはそれで結構だ。苔や庭の整備に莫大な費用が掛かることは明らかだし、歩く人が多ければ苔も乾燥する。拝観料を3、000円としようが5,000円としようが希望者だけ行けばいいので何の問題もないと思う。
嫌なのは、写経をくっつけていくらだと請求するところだ。それも義務だと言っておいて実際は抜け道を用意しておくところだ。
他の寺院でも写経を体験させているところはあるが、義務ではなく希望者が行っている。
写経料はせいぜい1,000円というところだろう。

庭の拝観は30分くらいだった。
期待していた程ではなかった。
12月だからか。昨今、苔の庭が珍しくなくなったからか。
修学旅行の時は、苔寺と龍安寺の石庭が比べられたからか。
記憶の中の瑞々しい輝きはなかった。こっちも当時は未だ瑞々しかったからか。


27 千葉海岸Date:6/20/2005-Mon-5:38:55-PM

千葉海岸に旅行したという話ではない。

この話は、オーストラリアのグレートバリアリーフでの話。と言ってもグレートバリアリーフの話ではない。
旅先で時間が余った時に、ダラダラと馬鹿話をして時間つぶしをすることがある。これはグレートバリアリーフの船の上の馬鹿話。文字通りの旅の余話。

京成線に「千葉海岸」という駅があった。今は「西登戸」と変わった。隣の「黒砂」も「みどり台」になり、海の香が消えてしまった。

旅の同行者の我々より20位年上のご夫婦から聞いた話。

その人は元は県庁の幹部だった方で、実家が千葉海岸で海の家を経営していた。その商号は「千葉海岸海の家」と言い、海の家の経営を止めてからも最近名称変更するまで「有限会社千葉海岸海の家」という会社名は残っていたそうな。
海の家を経営しています、なんて表だって言える程の立派な商売ではない。
どちらかというと軟らかな商売だと思う。
本人は県庁職員だったので海の家の手伝いをしたわけではないが、結婚したての奥様は夏の間借り出されて帳場に座っていたそうな。帳場と言っても銭函があるだけで、貸席料を受け取って銭函に放り込んでおけばいいだけの仕事だったそうだ。
実に品の良いご婦人で商売なんぞには不向きだが夫の親の頼みなので断れず、それでも通町の家から千葉海岸まで人力車で往復することを条件に手伝うことにしたそうだ。
時は、昭和20年代後半から30年代。海岸の埋め立てが始まる前の頃。その頃までは人力車があった。通町は吾妻町の北隣で現在は中央1丁目になり、吾妻町は中央2丁目から4丁目になっている。吾妻町には蓮池があり芸者衆は人力車や輪タクで料理屋に出かけていたから大分遅くまで残っていたらしい。私は輪タクは良く憶えているが、人力車は憶えていない。勿論乗ったことはない。当時はもう堅気の人の乗る代物ではなかった。

夏になると、千葉の市内、県内ばかりでなく、東京からも海水浴客が京成沿線に押し掛けた。

海の家は商売としては簡単なものの部類だろう。
場所という既存権益だけで成り立っているようなものだと思う。

さて、夕方、3時頃になるとそろそろお客は帰り足になる。
しばらくしても脱衣かごだけがポツンと残されていて、人が海から上がってこない。
時々、と言っても何年に一度の割で、潮の加減で遠くまで流されたり、時には溺れ死にする人が出ることがある。
脱衣かごだけが残されていると次第に店の者の顔色が変わる。ひょっとすると・・・。
店の者ばかりでなく、警察まで頼んで探したあげく、遠く出州の方に流されていたなんてこともあったようだ。

溺死者が出ると何かと後が面倒になる。警察や保健所への届け。事件じゃないかと警察に取り調べられたり。身元が分かればその家への連絡。引き取られるまでは丁重に安置する必要もある。
なので店としてはなるべく問題が表面化しない方が都合がよい。

ある年、やはり潮に流され溺れ死にが出た。
友人との二人連れだったので、丁度良いやと死人に浴衣を着せ、友人の背に帯で縛り付けて京成電車の千葉海岸駅まで送り、電車に乗せて東京まで帰らせたことがあったそうだ。
「大丈夫。大丈夫。分かりゃしないよ。ずーと立って行け。座るなよ。何か言われたら友達が気分が悪くなったと言っておけ」と安心させて。
友達が溺死したことで友人もパニックになり、何がなんだか分からずに死人を負ぶって帰る羽目になった。
溺れ死にだから最初から冷たくなっていたであろう。そのうち死後硬直も始まるだろう。電車の中の周りの目もあろう。
生きた心地がしなかったのでは無かろうか。
勿論その後どうなったかまでは知らないそうだ。突然死人が背負われて帰ってきた家の方も大いに困ったと思うが、今ほど世の中が窮屈じゃなかった時代だから何とかなったのだろう。

まるで落語の「らくだ」。
でも、この場合は「かんかんのう」は踊らせなかったのだろう。 


28 日本橋 浜町・人形町Date:6/25/2005-Sat-4:16:52-PM

 日本橋浜町。
浜町なんていうと「浮いた浮いたの浜町河岸に 浮かれ柳の恥ずかしや」なんて訳の分からない歌くらいしか頭に浮かばない。この歌詞はいったい何を意味しているのだろう。
隅田川は、堤防が高くなり見えないし、上を高速道路が走っていて情緒は全くない。

浜町には明治座という劇場がある。昔で言えば芝居小屋。最近訳があって明治座に年に数度芝居を観に出掛けることになった。
風間杜夫の「火焔太鼓」、川中美幸「引越大名」、中村玉緒藤田まこと「夫婦善哉」、神田正樹池上希実子「とおりゃんせ」等々挙げてみると恥ずかしい、人に言えないような芝居ばかり。エーこんなの観てんのー、って言われる。
昼日中からぼーっとして観ている。ゆるーい時間が過ぎて行く。
こんなコトしていて良いのだろうか?まだ隠居には早過ぎる。5年は早い。
何言ってんだ、お前はとっくに隠居していると言われそうだが。
数年前に、近所のバーのマスターに「貴方は半分隠居してますよ」と言われたことはある。半分なら納得するしかない。
実は、20代の頃もこんな生活をしていたことがあった。20代の男性が一人で芝居を観ていると周りの人も奇異に思うらしかった。こっちもなじめない部分は大いにあった。
特に幕間の過ごし方に苦労した。30分くらいが2回もある。この間に観客は食事を取る。1回では観客全てが食事をするだけの食堂のキャパシティーがないので2回に分ける営業目的もあるのだろうけど。食事代も高いし、何より時間がつぶせない。
今では観念してブラブラしてコーヒー飲んだり、アイスクリームを食べたりして時間を潰している。

明治座から甘酒横町を通って隣り町は日本橋人形町。
この辺りの町名はみんな「日本橋」が付く。プライドかな。

昔、学生だった頃「末広」に何度か通ったことがあったが、その後直ぐに無くなった。

この近辺は震災や戦災で街並みに江戸の面影は全くないが、それでも下町の情緒は色濃い。水天宮様も近い。

食べ物屋も結構多い。人形焼き、鯛焼きその他の和菓子系。蕎麦、すき焼き、鰻その他の和食系。下町の洋食屋の老舗も並んでいる。
親子丼の発祥の店「玉ひで」に行った。日本で初めて親子丼を作った店で、昼は親子丼を出すが夜は鶏料理で親子丼は出さない。
昼も午前11時30分から午後1時まで。
「いつも人が並んでいるから早く行かなきゃダメよ」と忠告され、店の前に着いたのは11時40分を少し超えたころ。
びっくりしたー。店の前からずーっと並んでいる。その最後尾は横町の方に曲がっているらしく見えない。行ってみると近くのビルの駐車場の中まで入
り込み、又道路に出てきて最後は通りの反対側に分断されている。「ここが最後ですか?」と聞いて並んだ。店の従業員が整理している。「こんなに並んでいて食べられますか?」と尋ねると「午後1時までに並んだ方には必ずお出しします」と言う。ジャー大丈夫かとホッとしたが、待てよ、どのくらい並ぶのだと次の疑問が湧き出る。「そうですネー。ここだと2時間くらいでしょうか」「エッ、2時間?」直ぐにタオルを投げました。たかが親子丼だよ。ミロのビーナスじゃねーよ。あれは3時間だったか。
でも次の機会には11時までには行こうと未練たらしく思っている。


32 東銀座 歌舞伎座 Date:11/28/2005-Mon-9:49:40-AM 

東銀座のランドマーク歌舞伎座。

若い頃に何度か歌舞伎を見ていた。
昨年の海老蔵襲名からまた見だした。今年は勘三郎襲名。まさに松竹の思う壷。

歌舞伎座の建物は相当疲れが見え建て替えが避けられないのだろうけど、芝居小屋らしい華やかな雰囲気は残して貰いたい。

好きな演目は、何と言っても「勧進帳」

私の両親は福島市の近くの出身で母親の姓は「佐藤」
義経の奥州平泉以来の家来だった佐藤継信、忠信兄弟の子孫だと言っていた。
と言っても母親の郷里には佐藤姓が多く。みんな佐藤兄弟の子孫だと称しているらしいので当てにはならない。
兄の継信は屋島の合戦で義経の身代わりとなって戦死。
弟の忠信は義経静に従っていたが吉野で別れて後京の都で死亡。
だったら「義経千本桜」の筈だが、あっちでは狐になってしまっていて情けない。
だから佐藤兄弟が義経に従って安宅の関を通った訳ではないが生きていたら付き従っていたろうと考えるとつい身が入ってしまう。

若い頃には幸四郎(後の白翁)の弁慶、松禄の富樫、梅幸の義経を見た。又当時「三之助」と云われていた新之助(現団十郎)の弁慶、辰之助(後の松禄。現松禄の父親)の富樫、菊之助(現菊五郎)の弁慶も見た。染五郎(現幸四郎)と吉右衛門のもあった。
今考えると凄いものを見てきたなあと思う。
歌舞伎座だったか、帝国劇場だったか、明治座だったか見た劇場までは思い出せない。

こうなったら勧進帳の追っかけになろうと決意し、9月には歌舞伎の一幕見で吉右衛門の弁慶、富十郎の富樫、福助の義経を見てきた。
この一幕見席は3階席の一番後ろで4階席とも云うような席なので高度が高いせいか空気が薄い。どうも熱中度に不足する。歌舞伎を見慣れている人が多いせいでなにか白けている。構造上花道が見えないので飛六法の始めしか見られないし。でも生の芝居が900円で見られるのだから文句は言えない。

ついでに梅沢武生劇団の梅沢登美男の弁慶、武生の富樫、前川清の義経まで見に行き、昨夜はNHKの大河ドラマ「義経」の「安宅の関」まで見てしまった。

一生の趣味だな。


33 銀座から湯島へ Date:12/14/2005-Wed-10:57:27-AM 

今夜は赤穂浪士の討ち入りですね。そしてお歳暮のシーズン真っ最中。

年に2回、とにかく歳暮と中元さえ贈っておけば義理は果たせるという便利な仕組み。
毎年何を贈るか悩んだこともあった。
酒が好きな人だからと贈ると酒好きの評判は出来上がっているので酒が集中する。
酒好きは酒に卑しいから片づけなきゃと飲むので飲み過ぎになる。特に最近の良い日本酒は日持ちがしないので焦る。大吟醸の一升瓶なんかうかうかすると飲み終わる前に酒が黄ばんでしまう。
缶ビールのセットの箱を積み重ねると1メートル以上になり飲みきれないうちに次の贈答品シーズンになってしまい泣く泣く流しに捨てたとか。
ひどいのは庭の松の根元に日本酒やビールを撒いて栄養にするという話を聞いたことがある。

最近は冷凍物や冷蔵物に珍しい物や良い物があるが、贈る相手の家の冷蔵庫の容量まで知らないから入りきれなかったらどうするんだろうと思う。
大体、冷蔵庫なんて食品保存庫になっていて奥の方や下の方には賞味期限のとっくに切れた物、腐りかけた物や干からびた物が詰まっていてこれ以上は入らない状態なのに突然要冷凍、要冷蔵食品が押し掛ければパンクするか外に出されたまま味が落ちるに任せる運命になる。
入れっぱなしにしている人が慌てて冷蔵庫の整理をするとも思えない。
いつ貰ったか分からない鰻の蒲焼きがテーブルに出てくると身の危険を感じる。これはうちだけの話しかね。

饅頭とか羊羹とかが山と積まれれば如何に甘い物が好きだからと云ってそうは食べられない。
子供達はあんこ類は見向きもしない。ひどい家は飼っている犬も食べないとか、犬が糖尿病になったという話も出
てくる。夫婦二人暮らしの人には量が多過ぎる。

いろいろ悩んだがデパートが一度贈ったリストを翌年に送ってくれるようになって悩みは止めた。
歳暮は稲庭うどん、中元は三輪素麺で決まり。これで良いやー。面倒だ。
どの家でも食べるだろうし、日持ちもよい。送った相手から同じ物が送られてくることは気にしない。

さて、そんな訳で歳暮中元では悩まずに済んでいたのだが、昨年から気が変わり、その都度気を使ってみる気になった。

一年に2回、銀座に出て散歩がてら老舗を尋ねて何か良い物はないか、自分で食べたい物はないか探すのも面白いかと考えるようになった。

今回は「かりんとう」が食べたかったのでこれを贈ろうと決めて銀座に出かけた。
何ヶ月も前、何かの記事で銀座8丁目西五番街の路地に「たちばな」というかりんとうの専門店があると知って手帳にメモっておいた。

出かけてみた。確かに気が付かずに通り過ぎるようなしもたやの店構え。狭い。雰囲気は良し。だけど肝心のかりんとうがどうもイマイチ。かりんとうしかなく、それも太いのと細いの2種類だけ。と言うより同じかりんとうの太いバージョンと細いバージョンしかないという感じ。それぞれ化粧缶に入って2本セットの贈答品となり、値段が5,000円。
これじゃー受けないよ。
量がありすぎ。食べ終わるまでに飽きが来る。かりんとうは後を引くからポリポリ食べているうちに気が付いたら無くなっていたと言うくらいにしたい。
それにたかがかりんとうで5,000円はコスト・パフォーマンスで失格。勿論缶代が高いのだけど。

ということで銀座の違う店で違う物を探すか、一度家に帰りかりんとうを改めて調べ直すか考え、後者にした。

さすがインターネット。ありました。湯島の「花月」。出かけました。こっちはもっと狭い路地。
もっと狭い店。店内に入れる客は一人だけ。その客が用を足し終えるまで他の客は店の外の道路で並んで待つ。
商品も少しだけ豊富。ここで「かりんとう」と「あられ」のそれぞれ化粧缶入りのセットに決定。
インターネットで注文が出来るのに支払いにクレジットカードが使えないのは不便だと思いながら、まあかりんとうだし、老舗だから仕方ないかと納得。

おまけに貰った形が不揃いのかりんとうの袋入りを開いてポリポリ食べながら久しぶりの湯島散歩となった。

湯島は昔「旧岩崎邸庭園」の中にある学校に暫く通っていたことがある。
向かいに湯島天神があり受験シーズンは人混みがしている。ちょっと北へそれると不忍池。ここに出ると急に空が広くなる。都心でこれだけ空が広いのは皇居の周辺とここだけくらいではないだろうか。
池の端に「東天紅」が目立つ。
湯島から春日通りを御徒町に向かう左右は飲食店街となっていて、うなぎ「伊豆栄」、そば「池之端藪」「蓮玉庵」、とんかつ「双葉」「井泉」。
そんな中にツゲ櫛の「十三や」や組み紐の「道明」の江戸情緒系の店も点在する。
昔櫛では空振りしたので今度は帯締めと羽織紐のペアールックにしますか。
ちょっと良いアイデアだと思うけど。
そして「鈴本演芸場」。近くに黒門町の師匠も住んでいたとか。

ここまで来ると次はアメ横か。

なんだか頭でっかちでバランスの悪い話となってしまった。


34 鴨川グランドホテル Date:2/5/2006-Sun-3:44:12-PM 


鴨川グランドホテル

千葉屈指の老舗リゾートホテル。
温泉を掘り当てて露天風呂を造ったと聞いて行ってみたいと思っていた。

昨日、いすみ市(新しく市になった)に仕事で出かけたので一走り足を伸ばして行ってきた。

日帰り入浴1,260円。

海岸に、と言うより殆ど砂浜に面している感じ。
どっぷり首まで湯に浸かってしまうと柵が邪魔をして空しか見えないが、少し身体を浮かすと風呂に浸かりながら大海原やサーフィンをしている人が見える。
カモちゃんは見えなかった。

なかなか快適。

しかし、昨日は日中の最高気温が南房でも5、6度程度だったから、お湯の中では良いが出ると寒い。
身体を洗う場所も露天だから洗っている間に湯冷めし、一度では全身を洗いきれない。
床のコンクリートも冷え切っていて足が冷たい。

残念なのは露天風呂と従来の大浴場と離れていて行ったり来たりが出来ない。係りの人は一旦服を着けて移動すればよいと云うが、そんなことできるか。やはり後付の限界であろう。


39 飯坂温泉 Date:5/26/2006-Fri-5:38:17-PM

4月に祖父母の50回忌の法事、5月に伯母の米寿の祝があり、泊まりがけで福島市郊外の飯坂温泉に出掛けた。あちらの人たちは気楽に温泉に出掛けられるのがうらやましい。

飯坂温泉は、以前は東北随一の温泉と呼ばれ繁盛していた。
「行こか松島 帰ろか東京 ここは飯坂湯の香り 寄らんしょ 来らんしょ 回らんしょ ささか さかさか 飯坂へ」
と唄われた温泉街は現在は御多分に漏れず寂れ果てている。しかし、郊外には新しい大規模な旅館が建ち、飯坂の奥の穴原にも綺麗な宿が出来ている。

飯坂温泉の手前に医王寺という古い寺がある。源義経の家来の佐藤継信、忠信兄弟の一族の菩提寺である。
頼朝に追われた義経主従が平泉に向かう際に立ち寄り、戦死した兄弟の遺髪を埋め、義経の太刀と弁慶の笈を残して行ったと伝えられ、これらは寺の宝物となっている。

何年に一度は義経や源平に関わるテレビドラマが放映され、その都度観光客が訪れるらしく、新しい宝物館が建てられていた。同行した弟は始めて来たので「本物かよ?」と疑っていた。私は「バカ言うなよ。実在しない弁慶じゃ本物のわけないだロー」
但し、弁慶が負ったものでなくともかなり古く且つ立派なものであることは間違いない。県の文化財だそうだ。

謡曲の「摂待」の舞台でもある。

松尾芭蕉も立ち寄り「笈も太刀も 五月(さつき)にかざれ 紙幟(のぼり)」の句を「奥の細道」に残している。

端午の節句に相応しい旅になった。


40 松山・道後 Date:6/8/2006-Thu-10:40:36-AM

業界の会議があり仲間と松山に出掛けた。

四国の4県はライバルで何かと張り合っている。アイランド・リーグもその例。
タクシーで祭りの話になり、徳島の阿波踊り、高知のよさこいは有名だが、高松、松山はどんな祭りがあるのか運転手さんに聞いてみた。
松山の祭りは「野球拳」なんだそうだ。
「脱ぐんですか?」と聞いたら、「脱ぎません」ときっぱりした答え。
何が面白いのだろう。高松の祭りは何だったか忘れた。

松山は、道後温泉とお城とでも有名だが、何と言っても「坊ちゃん」。何にでも坊ちゃんを付けたがる。
坊ちゃん列車、坊ちゃん団子、坊ちゃんカラクリ時計、果ては坊ちゃん球場。

小説の中では松山あるいは松山の人はバカにされているのに何で坊ちゃん、坊ちゃんとうれしそうなのか理解できない。

さて、道後温泉本館。重厚な木造3階建ての立派な建物。でも浴室に入るとただの銭湯なのよ。温泉のお風呂という風情が全くない。お湯も無色、無臭なので沸かし湯と区別が付かない。
日本間の休憩室があり、浴衣に着替えるのだけど今時男女が同じ部屋で着替えるなんて考えられないのじゃないだろうか。

近くに石手寺という名刹がある。弘法大師ゆかりの伝説を持つ四国八十八霊場の札所。
妙におかしい、それも悪い方におかしい寺で、この類の寺を「珍寺」と呼ぶそうな。
先ず、入口にインディアンのトーテムポールのような木の柱が聳えていて、騎兵隊の砦のようなやぐらが組んである。脇には中国の道教の女神の石像がある。短いが浅草の仲店のようなおみやげ屋が並んでいるが暗い。猫がうようよいる。境内にはイラクの戦争反対を訴える看板が立っている。裏の方には小汚い洞窟があり、おかしな仏像が並んでいる。住職の好みだろうが要するに敬虔な雰囲気が全くない。石ころが寺の宝で、これにちなんで石手寺というのだが、明らかに怪しい。道後まで行ったら一度試しにお寄り下さい。

尚、松山というと正岡子規が有名だが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」も正岡子規と秋山好古、真之兄弟の話。
文庫で8冊。ある夏に意を決して読んだ。詰まるところ明治は良かったというような話で時間の無駄だった。


 

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