インド

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インド旅行記(下記の分散して記述されたものをまとめました)

35 インド旅行 Date:3/6/2006-Mon-5:56:31-PM
36 インド旅行 2 Date:3/7/2006-Tue-6:01:03-PM
37 インド旅行 3 Date:3/8/2006-Wed-5:48:30-PM

38 インド旅行 4 Date:3/13/2006-Mon-5:37:54-PM

インド旅行記(平成18年(2006年)2月23日〜27日)

1 インドへ

2月23日から27日まで、またインドに行ってきました。私にとって3度目のインドです。
5年前に計画し、01年のニューヨークテロに起因するアフガン戦争のために中止した旅行が復活したのです。

3泊5日というインド旅行としては最も短い日程です。ゴールデン・トライアングルというデリー、ジャイプール、アグラの三角形の都市を結んだコースでパッケージ・ツアーの定番になっています。
昔、旅行雑誌に1泊3日のインド突撃体験旅行記が載っていました。初日日本からデリーへ飛んでデリーに1泊し、次の日にアグラへ特急列車で行ってタジ・マハールを見学し、またデリーに戻り、その日の夜発の飛行機で日本に戻るというものでした。結構良い企画だと思いましたが商品化にはなりませんでした。

さて、今回は往復JALのデリー直行便です。中国の雲南省の上空からミャンマーに入りインド東北部のカルカッタ辺りに抜ける航路で片道9時間かかります。
直行便の無かった昔は南回り便で香港、バンコク等を経由し16,7時間はかかりました。

この直行便の目玉は天気がよいとヒマラヤの山が見えることです。
ヒマラヤの上を飛んでインドに入るではと誤解する人がいますが、高度1万メートル位で飛ぶ旅客機が8千メートルを超えるヒマラヤ山脈を飛び越えることなど出来ません。
今回はただのヒマラヤ山系ではなくエベレストが見えました。雲ぐもの上に三角形の頂を見せていました。
機内放送でエベレストが見えると放送されると満席の乗客が右側の窓と通路に集中し、一瞬飛行機が傾いた気がしました。
東海道新幹線上で富士山が見えると得をした気になりますが、それを数倍する喜びです。元々デリーの町からも天気が良いとヒマラヤは見えたようですが最近の大気汚染の結果見えづらくなっているようです。
と言ってもデリーからエベレストは遠すぎて無理です。

私の海外旅行体験の最初はロンドン、パリ、ローマとギリシャ旅行でした。ロンドンのヒースロー空港から市内に向かうバスの窓から見える景色だけで別世界に来た思いがし、町々の景観、建物等を見てヨーロッパの文明の深さに感銘し、日本はまだまだ遅れていると思ったものです。
次の海外旅行は香港でした。アジア、特に中国の文化文明がイギリスの植民地としてヨーロッパのそれと混じり合い、活気ある街、人々を見てアジアはこれで良い、日本もゴチャゴチャして調和がないがこれで良いのだと納得しました。
3度目の海外旅行はインドで、約2週間の田舎回りの旅行でした。ヨーロッパ、香港とは異なり、文化だの文明だのといったものはすっかり吹き飛び、生きるとは、死ぬとはという根元的な問題をぐいぐいと突きつけられた旅行でした。
これがインド好きになった理由でしょうか。

20年前の第1回目のインド旅行は、初日成田空港に集合したところ、我々の乗るインド航空の飛行機が日本に来てないところから始まりました。日本に向かう途中で台風に遭い、香港に着陸できずマニラに寄港して台風の収まるのを待っているとのこと。その日のうちに日本に届かず、1日遅れとなりました。私たちは丸一日成田空港で待ちくたびれ、空港施設内のトランジット用レストハウスで旅行最初の晩を過ごしました。
翌日は1日遅れの時間通りに出発。機内に入るとお香の香りがして、シタールの音楽が流れ、サリー姿のスチュワーデスが迎えてくれました。
当時のインド航空は、機体はメジャーのお下がりの古い物だが、機長は軍人上がりで腕がよいとの評判でした。私は軍人上がりの腕の良い機長はいざというときに無理をしそうで、それより新しい機体の方が好ましいと思ったものです。

香港、バンコクを経由し、お尻が痛くなった頃、深夜のニューデリー国際空港に着きました。
薄くらい空港に真っ黒の顔をした現地の人が群がっていました。深夜でしたので特に用がありそうにもないのに人だかりがしていました。なにか凄いところに来てしまったというのが第一印象です。

翌日はデリー市内観光です。デリーとかニューデリーとか云いますが元々一つのデリーの市内でイギリスからの独立後政府機関や大使館等外交関係の建物等とそれにかかわる人や外国人の為のホテル等を作った街をニューデリーと呼び、従来からの下町をオールドデリーと呼びます。
極寒の日本から突然30度を超えるカンカン照りの太陽の下に引き出されて体温調節が利かず、日射病になりました。

3日目はデリーからベナレスへの国内線で移動します。飛行機が遅れデリーの空港の待合室で2時間待ちました。遅れた理由、予定時間等は勿論発表されませんが、私たちには1日待った経験がありますので誰も文句を言うことなく時間を潰していました。

4日目はベナレス近郊のサルナートに出かけました。ここで私は突然鼻血が出てきてバスの中で寝ていて観光地に行けませんでした。
この当時のインド旅行はコレラの危険があるというので予防注射をしていったものです。それに現地に行ってから虫歯が痛み出すとまずいと思い旅行直前に歯を一本抜いていったのが体調不良の原因だったようです。
それから2,3日は元気でしたが、とうとうインド旅行に付き物の下痢になりました。この時は抗生物質の服用で直ぐに収まりました。しかし、気力が無くなりマイナス思考になります。バスの窓に映る暗い顔をした自分を見ながら「アーア、何でこんな所に来ちゃったのか。アーア、いつまでここに居なけりゃならないのか」と指で後の日程を数えたものです。

まあその後は元気も戻ってきて楽しい旅行が続いたのですが、今までの旅行経験の中で途中で嫌になったのはこの時のインドが最初で最後です。
この頃はミネラルウォーターがなく、各自が日本から水筒を持っていきました。毎朝食時に食堂でウェイターに「ボイルド・ウォーター・プリーズ」、「ガランパニ・プリーズ」と熱湯を頼んで、それがその人の1日分の水分補給用だったのです。口に入れると生ぬるい時もあり、これは一度熱湯になってから冷めたものなのか、熱湯になる前のものなのか気になることが度々ありました。
今から考えると煮沸が不十分の水を飲んだから云うより旅の疲れが溜まり胃腸が音を上げたと云うことだと思います。

それにしてもミネラルウォーターの出現でアジアばかりでなくヨーロッパの旅行も楽になりました。
そのお陰でインド旅行では胃腸を壊さなくなったかというとそんなことはなく、旅の疲れや、香辛料の利いたインド料理、あるいは真冬の日本から真夏に近いインドへの気候の変化に身体が追いつかない、あるいは風邪等が胃腸を壊す原因だと思います。
今回のようにたった実質3日間の旅行でも12人中半数近い体調不良者が出たと言うことはインドはやっぱり厳しいと云うことでしょう。

2 デリーからジャイプールへ

さて今回の旅行に戻ります。

私には7年ぶりのインドになりますが、益々自動車が増えているのには驚きます。
それにようやくニューデリー市内で道路の立体交差の工事が始まりました。
又、ジャイプールに向かう道は片側2車線化の工事が進められています。現地のガイドさんの話にもIT産業を始めとする経済発展の話が度々語られていました。
デリーも近々オリンピックに立候補するような気がします。

まあ、この鼻高々もニューデリー近郊までで、そこから離れれば相変わらずのインドが車窓に広がります。
格差社会が日本でも問題とされていますが、この国では元々ある大きな格差が更に広がっているようです。

ジャイプールは、デリーから南東に約250キロ、ラージャスタン州の州都です。
インドでは○○プールという名の町が結構ありますが、これは城壁で囲まれた都市を意味するそうです。18世紀にこの町を作ったジャイ・スィン2世の名に由来します。
又、○○スタンは土地の意味だそうです。パキスタン、アフガニスタン他ソ連の崩壊後○○スタンという国名が増えましたが、これも○○族の土地と言う意味が殆どだそうです。ラージャスターンはラージプート族から来ています。
ただパキスタンのパキは純粋、ピュアを意味するそうで純粋なイスラム教徒の国と云う意味なのでしょう。パキスタン独立時の混乱と今以てインドと仲の悪い国情もこの国名からも察しられます。

このジャイプール郊外の小高い山の上にアンベール城という城があり、この城に登るのに象の背に乗って登るのが観光の売りです。
私たちが行った日は象が3頭しか働いていなく、かなり待たされると云うことで象タクシーは中止になってしまいました。
その代わりに壊れかけたボロボロに近いジープに乗って往復しましたが、私はこちらの方が面白く思いました。
本来象は数十頭はいるようです。象が観光の目玉ですが、象をまとめて飼育しているわけではなく、それぞれの象に飼い主がいて、その飼い主の家から10キロ近い道を通ってきているようです。いわば個人タクシーのようなものです。朝夕、何頭もの象がぞろぞろ道路を歩いています。
ガイドさんに象をどのように飼っているのか聞きましたが、家に簡単な象小屋を作っているようです。大きな犬を飼っているのと程度の違いしかないのでしょう。
私の友人の息子さんがタイで象使いの免許を取ったそうですが、インドにも免許があるのかは聞き漏らしてしまいました。

こちらのインド西部では、あまり馬車や牛車はなく、ラクダ車が多いのは驚きました。結構愛らしい眼をして頭を上げ気味にして健気に荷車を引いています。

自動車は増えていますが、その他の乗り物等は昔からのものがそのまま残っていますので交通が混乱するのも無理はありません。
国道でも自転車、ラクダ車、トラクター、トラック、バスそれに乗用車がひしめいています。
片側1車線の国道でもその両脇には舗装されていない路肩が広く取られています。私たちのバスはビービー、クラクションを鳴らして前を行く車等に道を譲るように迫りますが、簡単には抜かせてくれません。誰でも舗装されているところを通りたいのですし、舗装されているところから舗装されていない路肩に移るときはかなりの段差があり衝撃が大きいので、下手をすると車がひっくり返る危険もあります。
譲りたくとも、その前に更に遅い荷車やトラクターが走っている場合もあり、それをパスしてからようやく譲れることもあります。

何台ものトラックを追い越しているうちに、トラックの荷台の後ろに「BLOW HORN」「PLEASE HORN」と書いてあることに気付きました。「HORNは確かアルプスの角笛だったナー」「BLOWは吹くだナー」、何のこっちゃと思って娘さんに「あれは何だ」と聞いたら「クラクション鳴らせでしょ」と教えられました。しかし、こんな表示がなくとも少しでも邪魔になりそうならかまわずビービー鳴らしてますし、鳴らされた方も直ぐにどくわけでもありません。そのうち飾り文字で書かれているのを見て、規則で書くように命じられているから書いてあるだけに違いないと分かりました。それだけ交通が混乱していることなのでしょう。

娘さんは今自動車免許を取ろうと教習所に通っていますが「この国ではとても車の運転は無理だわ」と言ってました。私でもとても無事では済みそうにありません。
バスの前部には運転手の部屋があり、運転手と助手が乗っています。私たちの席とはガラス戸で仕切られています。
後ろから見ていると追い越しの際はウインカーはあまり使わずに窓から手を出して前後の車に色々な合図をしながら進んでいます。右側は運転手が手を出しますが、左側は助手の仕事で運転手と呼吸を合わせて合図を送っています。なるほど、この国では助手がいなくてはバスは進められないと思いました。トラックも同様です。

20年前は交通量は少なく、片側1車線の国道も舗装されているのは真ん中の1車線だけで、双方から車が迫ったときはスリルがありました。遠くにこちらに向かう車を発見すると直ちにクラクションを鳴らし、ライトをビカビカとビームを切り替えます。だんだん近づいてくると相手がどのような車かで立場が分かり、自分より階級あるいは権力が上だと判断するとギリギリの所で道を渋々譲ります。一番強いのはやはり軍隊のようでした。次は政府あるいは行政関係だったようです。私たち外国の観光客を乗せたバスも結構強い方でした。新しいバスですので直ぐに判断できたのでしょう。
よく道ばたにトラックや荷車がひっくり返っていました。

街の路上には人、自転車、サイクルリクシャー(輪タク)、オートリくシャー(昔の日本のミゼットのような3輪車のタクシー)、オートバイ、トラックそして乗用車、それに加えて牛、犬、猪があふれています。不思議に猫は見ませんでした。家の屋根の上には猿まで獲物を狙っています。緑のあるところにはリスも普通にいます。

何もかもが溢れているこの国では、動物、人間等生き物に差がないと考えるか、動物には動物の中に差があり、人間には人間の中で差があると考えるかに別れるような気がします。
ご承知のとおり、この国は未だにヒンドゥー教による厳格な階級社会です。勿論観光客の見えるところでは明らかとは云えません。それは私たち観光客は常にそれに触れられないままに旅が終わるようになっているからでしょう。
現地のガイドさんはカースト制について質問されるのを好ましくは思っていません。何処の国にも差別はあるとか、カースト制によってインドの人々は職業を得て暮らしていけるのだとかの答えをします。しかし、答えているガイドさんはこの国では上級のカーストに属しているはずです。彼が上級でなかったら旅の案内がスムーズに行くわけがありません。上級カーストであるからこそ、バスの運転手、ホテルの従業員、観光地の案内人その他関係者が彼の指示で動いて行くのでしょう。
当然多額のお金を落とす私たち観光客も上級カーストとして扱われているのです。

下級カーストにあるいはアウトカーストの不可触民に生まれた人々が信仰により来世ではより良いカーストに生まれ変わることを切実に願う心情も理解できましょう。祈るしかないんだろーナーと納得してしまいます。

同行の人は、この国の問題点は「牛」だなと話していましたが、核心をついていると思います。政治、経済、社会体制、対パキスタン、対イスラム諸国等の問題はこの牛が全てを象徴していると思われます。

3 ジャイプールからアグラへ

ジャイプールには未だマハラジャが住んでいてその住居である「シティ・パレス」があり、一部が博物館になっています。並べられているのは王族達が着た衣装や武具などです。日本のお城と博物館と云ったところです。
この町のシンボルは「風の宮殿」という建物です。町の中心道路に面した薄っぺらなピンク色の建物で、昔宮廷の女性達がこの建物から街やパレードを見下ろしたと云われています。本当かナーと疑り深い私は思っていますが、彫刻の凝ったテラスが並ぶ不思議な建物です。
確かにこんなに薄い建物では風通しが良いに違いないとネーミングの良さに感心しました。これが「ペラペラ宮殿」という名ではお笑いになってしまいます。

ジャイプールからは地方の1級国道を220キロ、5時間かけてアグラに向かいます。
そしてこの旅行のハイライトの「タジ・マハール」にたどりつきました。
タジ・マハールについては以前「旅の小話」に書きましたので省略します。
前回は、排気ガス対策のためにバスの駐車場から電気自動車に乗り換えて行ったのですが、今回はなぜか電気自動車の台数が少なく、代わって馬車になってしまいました。馬車組合が生活権の侵害だとごねたり賄賂を使ったりして電気自動車を排除したのかも知れません。どちらも排気ガスは出しません。馬車は旅情としてはよいのですが、走っている途中にしぶきが飛んでくるのが難点です。

さて、私たちがインド滞在中に何を食べていたかをご説明します。
ご承知のとおりインドはカレーの国です。庶民は基本的に朝昼晩3食カレーを食べているようです。日本で云うところの具だくさんの味噌汁のようなもので、これとご飯やパンあるいはナン、チャパティーだけで済ませているようです。詳しくは分かりませんが、一皿のカレーにナンをちぎってカレーを付けて食べている位なのでしょう。
日本の庶民が日常何を食べているのか一言で言いづらいのと同じですが、かいま見るとそんな感じです。

私たちは泊まりが西洋式というかインターナショナルのシティーホテルですので朝はバイキング(ビュッフェ)です。ジュース、ミルクから始まり、肉料理、野菜料理、パンが各種にデザート、コーヒーか紅茶。この形式は洋の東西を問わずシティーホテルに共通でしょう。
しかし、昼もその晩泊まる予定のホテルに寄って、レストランでバイキング、夜も当然バイキング。結局3食共バイキングでした。
外国人の観光客が安心して食べられるレストランというとホテルのものに限られてしまうと云うことです。
田舎回りの場合は私たちの使えるレストランはありませんのでランチボックス(弁当)をホテルで用意して貰って出かけることになります。粗末な紙の箱にフライドチキン一切れ、バナナ、コールスローのようなもの、そして缶ジュース。道ばたに停まったバスの中でいただきます。回りに近所の暇な子供達が取り巻く中で。
お腹の丈夫な人は現地の人のカレーを試してみますが、取り立てておいしい訳ではなさそうでした。

ホテルのバイキングといってもカレーは必ず何種類かは並んでいます。その他に中華、フレンチ、イタリアンもどき等が並んでいますが。日本料理だけはありませんでした。同行者はインスタント味噌汁だの醤油だのを持ち込んでいますので不便はありません。又朝昼晩の料理は全く同じではなく多少の変化はありました。

インド人のうちヒンドゥー教徒は牛を食べません。イスラム教は豚を食べません。前者は牛はヒンドゥーの神様の使いだから尊重して食べず、後者は豚は何でも食べて卑しいから食べないということです。豚がバカにされているようで可哀想です。でも食べられてしまうより良いか。
牛もダメ、豚もダメで、残りは鶏になります。
というわけでカレーは鶏カレーが主となり、その他羊マトンに少々魚が加わることになります。
この魚カレーは不味かった。口当たりが悪く味もモヤーとして締まりがなく、さすがインドの大河でのんびり育った川魚という感じでした。
ところが今回は鶏が出ませんでした。朝のバイキングにも定番の卵料理が出てません。目玉焼き、スクランブル、オムレツ一切なし。カリカリベーコンはあるのに。
鳥インフルエンザの影響のようでした。現地ガイドさんに尋ねると「偶然ですよ」ととぼけていましたが。
よって毎日マトンの肉のカレーや挽肉のカレーでした。羊の挽肉のカレーはおいしいのですが毎食となると飽きます。

日本でもインド式のカレーを出す店が町に何軒もあるような時代ですから本場に行っても戸惑うことはなく、日本と同じように食べられます。辛さも外国人向けですからせいぜい中辛といったところです。
そんなに量は食べなくとも毎食カレーを食べ続けることで胃腸が弱ってしまうと云うことはあるのでしょう。

日本人は、事前にインドの食に関して大げさな話を吹き込まれてきますから、最初はオッカナビックリで恐る恐るスプーンを出しています。殆どノイローゼ状態。そのうち大丈夫だと云うことが分かり、反動であれもこれもとスプーンを伸ばし、結果として自滅して胃腸を壊すというパターンが多いように思います。それなのに「インドの菌恐るべし」とかインドのせいにします。インドが怒っているゾー。

飲み物はビール、ワイン、コーラ等があります。
ビールはキング・フィッシャーですが、インドで生産されているようです。味は普通のビールです。ワインもインド産のようです。赤も白もおいしいワインでした。私たちが回った範囲ではぶとう畑はありませんでしたのでカシミールとかの高原の方で作られているのかも知れません。
ウィスキーもあります。元はイギリス領だったので当然スコッチ風です。

一日バスに揺られた後のビールは格別ですが、バイキングの食事ですと、乾杯の後でゆっくり飲む暇がないのが酒飲みにとっては残念です。
尚、飲み物の代金は国際値段で日本と違いは殆どありませんでした。ホテル内は何でもそうですが。

4 アグラからマトゥラーに寄ってデリーへ

さて旅の最終日となりました。
通常のパッケージ・ツアーですとこの日はアグラからデリーに戻り、デリー市内の世界遺産を数カ所見て夜の飛行機で日本に帰りますが、私達はデリーへの途中にあるマトゥラーに寄ることにしました。

マトゥラーは観光客はあまり寄りませんがヒンドゥー教の有名な聖地でヤムナー河の河岸に沐浴場があります。

インドの観光の目玉は第1にアグラのタジ・マハールで、第2はベナレスの沐浴場だと思います。今回の旅は日程の都合からベナレスには回れません。
デリー、ジャイプール、アグラは何処もムガール帝国ゆかりのイスラム文化の遺跡が多く残っている地域で、ヒンドゥーの遺跡はあまりありません。
ヒンドゥーの遺跡と言ってから現在もヒンドゥー教が生活全般に根付いているのですから遺跡という言葉はふさわしくないかもしれません。正確にはヒンドゥーの関係地とでも呼ぶべきでしょう。
そこで一つくらいはヒンドゥー関係地に寄ってみても良いと考えました。ベナレスの代わりです。そこでマトゥラーにしました。

ベナレスはシバ神の聖地で、マトゥラーはビィシュヌ神の聖地だそうです。ヒンドゥー教ではこの二人にブラフマー神を加えて三大神様となっています。

マトゥラーを訪れた日はシバ神のお祭りの日でした。
ビィシュヌ神の町でもヒンドゥーのお祭りはお祭りで、盛大に祝っているようでした。

又、マトゥラーには考古学博物館があり、マトゥラーの仏像が展示されています。
私は数年前に上野の国立博物館で「インド・マトゥラー彫刻展」と「パキスタン・ガンダーラ彫刻展」を観ました。
この頃はインドとパキスタンの仲が特に悪かった頃で同じ国立博物館で、同時期なのに、右側でインド、左側でパキスタンの各彫刻展が別々に開かれていました。
パキスタンのガンダーラ仏は、ギリシャ彫刻の影響受けた彫りの深い顔を特徴とします。石は黒色です。ラホールの博物館の「釈迦苦行像」が世界的に有名です。
インドのマトゥラーの仏はガンダーラ仏と同年代に作られ、この地方特産の赤色砂岩で作られ、穏やかな丸みのある顔を持っています。
この日は、先ずマトゥラーの博物館に寄り、次いで沐浴場に行く予定でした。
ところが町中の博物館に行ってみると閉まっています。
この日はシバ神のお祭りなので休館なのだそうです。お祭りだと何故博物館が休館となるのか良く理解できません。
旅にはハプニングや予想しないことが多くありますが、このハプニング確率はインドは高い方でしょう。
仕方なく博物館は諦め沐浴場に向かうことになりました。
沐浴場までは道が狭くバスは入れません。輪タクのサイクルリクシャーに二人ずつ乗って行きます。
この片道30分、往復1時間のサイクルリクシャーの行進が同行者たちにとってこの旅行の一番想い出深いものになったようです。
リクシャーを漕ぐ人はリクシャー・マンと呼んだり、リクシャー・ワーラーと呼んだりします。どの人も年齢が高そうに見えますが実際は30代から40代位でしょう。
今のインドの平均年齢がどの位か調べたこともありませんがそんなに長生きは出来そうにありません。ですから実際以上に老けて見えます。

沐浴場の規模はベナレスに比べると極々小さいものでした。
護岸工事をしているせいもあって、ゴチャゴチャしています。
ヤムナー河はガンジス河の支流ですが、川幅も狭く、聖地の雰囲気は感じられませんでした。
沐浴は朝日の昇る時間に行うのが最も御利益があるようですが、私達が行ったのは午前10時頃だったので一人しか沐浴をしていませんでした。
火葬場もあるということでしたが何処がそうだか分かりませんでした。分かったところでお祭りでは火葬はしていないでしょう。
滞在時間数分で河岸で牛も並んだ記念写真を撮って退散しました。

インドの物乞いの話をしましょう。
今の日本では乞食や物乞いは殆どいません。
ホームレスはいても彼らは乞食ではありません。
20年くらい前までは靖国神社や上野の山に傷痍軍人がいました。本当の傷痍軍人の訳はありませんが戦争のご遺族に人々にとっては本物だろうが偽物だろうが関係なかったのでしょう。まあいわばコスプレですね。
今でもたまに「電車賃が無くなった」とお金を貰いに来る人がいますが、この様な人は乞食と云って良いのでしょうか。下手な詐欺師と呼ぶべきでしょうか。

インドでは何処にでも乞食、物乞いがいるようです。
私達の観光バスが止まると直ちに物売りや物乞いが集まってきます。
典型的なのは左手で赤ん坊を抱えている子供が右手を出して「バクシーシ」「ルピー」「マネー」とお金をねだったり、右手を自分の口に持ってきて「何も食べていない」「何か食べる物をくれ」という仕草をするものです。
日本人は普段こんな目にあった経験がありませんから、想定外の出来事にうろつきます。恐いものや見たくないものを見たように顔を背けて真っ正面を見ながら足を早めたり、バスに逃げ込んだりします。逃げても簡単には諦めてくれません。しつこく付いてきますし、バスに逃げ込んでもバスの窓や車体をトントン叩いて催促されます。
何か自分が冷たい人間、人でなしに思えて暗い気持ちになります。

しかし、どうも彼らはダメモトでやっているように思えます。現地の人が小銭を与えているのを見たことがありますが、与える方もそれ程大したことをやっているような態度ではなく、貰った方もそれ程感謝しているようにも見えませんでした。
インドでは持っている者が無い者に与えることは持っている者の義務で、貰う方は与える方に布施の機会を与えたことで、感謝されるべきは貰う方であると聞いたことがあります。
そんなことも物乞いが多く存在する理由となっているのでしょうか。
別に物乞いでなくとも、普通の近所の子供らもバスに寄ってきて左手の平に右手の人差し指でものを書くような仕草で「ペン!」「ペン!」とボールペンをくれと催促します。以前は「ライター!」「ライター!」と百円ライターをせがまれたものですが、近頃はテロ防止のため飛行機にライターの持ち込みが厳しく制限されていることを知っているのかライターの催促はなくなりました。

以前田舎で近所の子供らが集まってきて「あれくれ」「これくれ」と言い出したときに、同行の人が「私も進駐軍が来ると、ガムくれ、チョコレートくれとねだったものだ」と言っていました。
何処でもたいした違いはないのでしょう。
物乞いや乞食というのは職業や身分ではなく、誰もが乞食であり物乞いであるような気持ちになったりします。物売りも半分以上は物乞いを兼ねているかにも思えます。言い過ぎであるとは思いますが。

最後にデリー国立博物館に寄りました。
ここにはインドの歴史を辿った美術品が並べられており短時間で見て回れるものではありません。が、ここにはお釈迦様の御遺骨「舎利」が展示されています。
舎利は普通は五重塔の真柱の元に埋められているのが通常で博物館に飾られているのはここだけでしょう。このようなものを展示することの賛否は別です。
時間がないので駆け足で30分間だけ見学し、後はインデラ・ガンジー国際空港に向かいました。

5 帰国

デリー発の夜行便で早朝の成田に、とりあえず全員無事で帰ることが出来ました。

次は西部のアジャンター、エローラの石窟寺院に行きたいと思っています。又、東北部のブッダガヤ周辺にもう一度行ってみたいと思っていますので都合2度行かなくてはなりません。5年後と10年後くらいでしょうか。
ご一緒にどうです。


 

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