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3 上野 Date:7/10/2001-Tue-8:29:09-PM

何で上野が旅なんだなんて細かいことは抜き。
上野の街へ行くと「とんかつ屋」の看板が目に付きませんか。浅草だと天ぷら屋だけど。

今日は上野とんかつ御三家の話。

いつの頃からか、上野の「双葉」「蓬莱屋」「ぽん多」を御三家と呼ぶそうだ。
私は子供の頃からとんかつが好きで、今でも週に一度か10日に一度はとんかつかかつ丼又はカツカレーを食べている。根が貧乏のせいか、ステーキだと何か緊張してあがってしまう。あがるのはとんかつでステーキは焼くんだけれど。

そしてとんかつではヒレよりロースだ。これもヒレなんか大人になってと言うより最近になってから食べられるようになったんで昔は当然ロース以下だった。ハムかつなんかも今でもサンドイッチでよく食べてる。

どうしても気になって御三家を回ってみた。二度ずつも。

まず店の位置は、上野広小路松坂屋前の交差点から200メートルとは離れていない。店の造りは、「双葉」が昔の食堂風、「蓬莱屋」は近所でも目に付く木造の古い建物、「ぽん多」は建て替えて近代的ビル。

肝心のかつは、「双葉」は、ロース、平型、白色系。「蓬莱屋」は、ヒレ、厚型、茶色系。「ぽん多」は、ロース、平型、白色系。つまり「双葉」と「ぽん多」は同一傾向。

どこが一番うまいかというと、その人の好みだけど、私は「蓬莱屋」ですかね。ここはカウンターに座るとかつを揚げているのが目前に見える。そしてかつの揚げ方は二度揚げで、どれが俺のかつかなー、なんて眺めている楽しみがおまけで付いている。但し二度揚げるので時間はかかる。この間にビールを飲んで待っているわけ。元々私はロース系なんだけど、ここのは総合点で一番だと思う。

「双葉」と「ぽん多」では、「双葉」が上か。同じ様な傾向だが、何となく「ぽん多」のほうが水っぽい気がする。

値段はどこでも定食で3000円位でどっこいどっこい。かつのくせに高いと言われればそれまでだけど、日本で一番のかつだと思えば許せる範囲でないの。

上野には他に「井泉」というおいしいとんかつ屋もある。

ところで千葉駅の万葉軒のとんかつ弁当が安くてうまいんだけど知ってます。


伊藤三平 Subject:ソースカツ丼はまだ許せない Date:7/12/2001-Thu-0:13:09-PM
どなたか知りませんが、私はとんかつに3000円は出せない。長年食べてきた
ものだから値頃感が染みついている。だけど今度上野に行ってきますか。

とんかつと言えば、20年くらい前に群馬県に行ってカツ丼と頼んだ時は驚き
ました。卵とじの部分がなく、とんかつがご飯のどんぶりに乗っているだけ
でした。ソースカツ丼と言うのですが、当時は(あるいはその店では)カツ丼
としか書いてなかった。

手抜き、美意識の欠如、食文化の冒涜と思いました。今でもなじめない。

今、群馬の方ではとんかつ屋のチェーン店もできてきて、結構美味しいのを
食わします。私もロースの方が好き。もっともとんかつが胃にもたれる歳だけど。

8 大阪 Date:9/9/2001-Sun-3:11:45-PM

関東の人間にとって大阪は妙な街だ。
どこが一番妙かというと、私の少ない経験では「鶴橋」。

コリアタウン、韓国朝鮮料理店、焼き肉屋の街。

JR環状線で鶴橋の駅に着き、ホームに下りるとホーム全体に焼き肉の煙が漂っている。

店の前に行列ができている店もあるが、大阪でまずい物を出す店などあり得るはずがないのでどの店でもおいしいとのこと。

焼き肉はやはり大阪が日本一。本場韓国より断然うまい。


10 松江 Date:10/12/2001-Fri-6:33:23-PM 

渡辺(神保)公子 様

10月4日(木)から6日(土)まで、松江とその近郊に旅行してきました。

松江の街は、以前貴方がこのHPに案内をされていたように落ち着いた風情のある街でした。

業界の会議があったので参加したのですが、業界の会議などというものは半分は観光を兼ねているものです。気のあったおじさん仲間6、7人で出かけました。

4日は玉造温泉に泊まり、日本一の120坪の露天風呂を楽しみ、宴会で騒ぎました。

5日は、午前中はホテル一畑で会議、午後は松江城、小泉八雲記念館等観光スポットを回り、堀川めぐりの観光船に乗船しのんびりと街並みを見上げ楽しみました。夜は立食パーティーで、おろち退治のお神楽を鑑賞しました。

6日は、一畑電鉄で出雲大社に向かい、参拝後出雲そばを賞味し、日御碕まで足を延ばして来ました。

今月10月は、出雲では神有月だそうですが、旧暦とのことで神様は未だお集まりではなかったようです。おじさんでも縁結びをお願いをしましたが、おかしな縁が結ばれるような危ない期待もございます。

楽しい旅でした。同期会の皆様も未だ松江に旅行されていないのでしたら、お勧めします。

神保公子 Subject:松江より愛をこめて Date:10/20/2001-Sat-6:31:46-PM 
リュウさん、松江の旅日記をありがとうございました。
伊藤さんからお知らせを頂き、落書き帳にlove letterを発見して、わーい!
しかし、待てよ。よく考えたらこれは私へのlove letter ではなく、松江への恋
文ではないか。でも、ま、いっか。大好きな松江に対してだものね。
神無月ならぬ神在月は陰暦10月、今年は11月15日から。全国の神様が出雲に
集合なさいます。この時期に来松されれば全国の神様に一度に願い事をきいてもら
えるかも。もっとも、お仕事をほったらかして観光にうつつをぬかしている神様も
いらっしゃるかもしれないから、御利益が期待できるかどうかは…?
秋は宍道湖の夕日が一段と美しい季節。ゴズ(ハゼ)釣りシーズンでもあり、湖畔
は釣り糸を垂れる人々でにぎわいます。そういえば10年ほど前、PTA役員とし
て小学生だった子供のお供をしたとき、ゴズどころかウナギを釣り上げた子がいて
大騒ぎしました。今でもウナギが釣れるんでしょうか。
堀川遊覧が始まり、レイクラインというレトロ調のバスが観光施設を結んで走り、
松江城も櫓が修復されて立派になって、最近街が一段ときれいになりましたが、一
方で所謂空き地が整備されてなくなり、ネコジャラシやアカマンマさえ簡単には詰
めなくなって、ちょっぴり寂しさもおぼえます。JRの駅並に、全国にあるパター
ン化された城下町と同じになりませんように。

12 銀座 1 Date:11/4/2001-Sun-4:04:12-PM 

ここ2,3日急に冷え込んできて秋らしくなりました。

夕方の風が寒いと感じる頃となると「おでん」を思い出しませんか?あつあつのおでんで燗のついた日本酒をいっぱい、日本人で良かったー!と感じる季節です。

以前の上野のとんかつ屋の続きで、今日は銀座のおでん屋の話。

銀座のというより日本のおでん屋というと「お多幸」と「やす幸」の2巨頭が挙げられます。
どうして似たような名前なのかは知りません。どなたもどちらかの名前はお聞きになったことがあるでしょう。

場所も近いところにあり、「やす幸」は並木通り、「お多幸」は近くの角を入った横町。

似たような名前でいて、店の営業方針、出すおでんが全く違うところがおかしいところ。

「お多幸」は、色が真っ黒、味は完全な関東風。卵や大根の色が焦げ茶色。しょっぱいのなんの。あまりの塩辛さにビールがガンガン飲めてしまう。

「やす幸」は、色は白、味は関西風。といっても塩味は強い方なので全くの関西風とは言い得ないとも思います。たんなるおでんというより手の込んだ料理と言う感じか。

どちらが好みかは人によりはっきりと別れる。

「テヤンデー。こちとらエドッコデー。ナマッチロイものがクエルカー」と言う人。そばとうどんでは当然そばを選ぶ人。ラーメンは支那そば、しょうゆ味、ちゃーしゅーになるとに支那竹で、「何が豚骨だー。札幌だー。ふざけるな」と言う人。鯛とマグロだとマグロを選び、鰹の季節が気になる人。銭湯でとびきり熱い湯に入ってウーウーと我慢している人。

これらの人は「お多幸」

京都が好き。和食は懐石。そばよりうどん。豚骨もみそラーメンも可。刺身は白い色。気どっている人。これは言い過ぎか。

こちらは「やす幸」

私は、「お多幸」のおでん屋らしさ、居心地、店の心意気、庶民的な感じが好き。

味は迷うが少し「やす幸」の方か。「お多幸」のしょっぱさも考えただけで涎が出そうで暫くすると又食べたくなる。

ところで、店の狭いカウンターの中に50年輩の板前が4,5人もいるのが不思議。なんでおでん屋にそんなにたいそうな板前が必要なんだろう。こいつ等の人件費を食っている気がして油断できない。おでんを5コ、酒を2本で何で4,000円を超えるんだ?どちらの店とは言わないが。


24 信越線横川駅 碓氷峠鉄道文化むら Date:2/24/2002-Sun-5:55:56-PM 

伊藤三平様

伊藤様のご子息が、鉄道マニア、電車おたくであると知り、「碓氷峠鉄道文化むら」をご紹介いたします。

もう既にご存じであれば失礼いたします。

私、昨日今日と業界の会議が伊香保温泉であり、帰りがけに少し足を伸ばして信越線横川駅にある碓氷峠鉄道文化むらを見学してきました。

鉄道マニアであれば京都の梅小路蒸気機関車館は既にお出かけだと思います。梅小路蒸気機関車館は蒸気機関車を展示、保存していますが、碓氷峠鉄道文化むらは電気機関車を展示、保存しています。

信越線が長野新幹線開通により横川で断ち切られ、急勾配の碓氷峠を列車が越えることがなくなり、この急勾配対策の補機連結用のEF63が役目を終えてしまいました。このEF63を中心にスマートなEF58、古いEF15、EF53等の電気機関車、DD51等のディーゼル機関車、キハ35等のディーゼル車、それに花を添えるようなナメクジD51の蒸気機関車等、数種の客車が常時静態保存され展示されています。

そして予約をするとEF63の実車の体験運転をさせてくれます。構内の300メートル程度ですが。但しこれは3月から10月までです。

尚、私はおたくとまでは凝っていません。多少好きだという程度です。いい年をして蒸気機関車がどうだとか、電気機関車がどうだとかはまあ恥ずかしい気がしますが、楽しい施設です。

京都がお好きな方が多いようですが、梅小路蒸気機関車館もおもしろいと思いますよ。

伊藤三平 Subject:リュウさんへ
1 Date:2/25/2002-Mon-11:37:14-AM 
「碓氷峠鉄道文化むら」ね、息子は碓氷峠の電車がなくなる時に、「さよなら碓
氷峠」というイベントに妻と一緒に行ってました。私が誕生日のプレゼントに碓
氷峠のジオラマをあげたのですが、これはあまり喜ばれていない。

京都の梅小路蒸気機関車館は行きました。暑い日でした。

この3月20日から家族で京都に行ってきます。3年前に娘の十三参りに行きま
したが、息子も十三になりましたので、墓参も兼ねて行ってきます。私と妻は椿
めぐり、子供達にとって、寺と庭は退屈かもしれないが、見せるべきものは見せ
ておきます。

37 横浜 Date:5/18/2002-Sat-4:51:17-PM

港町、横浜。行ったことない人なんていないと思うけど、泊まりがけで行ったことあります?
あんなに近いところに何で泊まるんだ?とお思いでしょう。
でも、なかなか良いですよ。

日帰り定番のコース。

JR横浜駅に着き、そごうの脇の桟橋からシーバスで山下公園までミニクルーズ。
氷川丸の隣に上陸し、山下公園を散歩。外人墓地まで歩いて山手十番館辺りでお茶かアイスクリーム。外人墓地の脇の小道を降りて元町に。元町でお買い物。ポピーという古い紳士服店でオリジナルのネクタイを1本、フクゾーで小物とか。

川を渡って中華街。どこがおいしいか、いつも気になるけど、私はどこでもおいしいと思える。

これが一泊になってもコースはあまり変わらない。出発点が泊まるホテルになるだけ。だけど、夜、食事をしていて帰りの時間を気にする必要がないし、車を運転するんじゃおいしい紹興酒が楽しめないでしょう。

私が泊まったことがあるのは、ホテルニューグランド、ザ・ホテル・ヨコハマ、ホリディ・イン横浜。
良かったのはホテルニューグランド。但し、今の新館が出来る前の旧館。コロニアルな風が吹いていました。

あの重厚なロビーでは思わず姿勢が良くなります。
部屋は広くはなかったが、バスタブは足の付いている古い形の物だった。

中庭に面した部屋と裏通りに面した部屋があった。私が泊まったのは裏通りの方だが、窓を開けて見下ろすと何となくヨーロッパの裏通りのようだった。

シーガーディアンズバーという古いバーが歩道に面してあり、キザを絵に描いたような男や外国人の船員達がたむろしていた。

ザ・ホテル・ヨコハマも港や山下公園に面している。大桟橋に近い。不倫カップル御用達と聞いたことがある。

ホリディ・イン・横浜は中華街の隣。というより中華街の中。アメリカの安宿っぽい。またそれも良し。

朝がのんびりしていて、さーて、真っ直ぐ帰るか、どこかに寄ろうか、鎌倉まで行くかと考えるのも良いし、何より旅行に来ていると実感できる。

年寄りだからMM21の方は興味が湧かない。

どうです?みんなで行きません?ミニ同期会なんては?


38 横浜 2 Date:6/12/2002-Wed-0:42:53-PM 

泊まりがけで横浜に行って来ました。

突然空からヒラヒラとサッカーのチケットが散華のように降ってきたのです。サッカーファンの皆様ごめんなさい。

11日、横浜スタジアムのアイルランド対サウジアラビア戦でした。
3対0のアイルランドの一方的な勝ち。

試合開始7分で先制ゴール。これでアイルランドの勝ちだと予想され、あとはサウジアラビアがどれだけやるかと思って見てましたが、やはりレベルが全然違いました。

それにしてもスタジアム中アイルランドのサポーター、ファンばかりでサウジアラビアの旗も応援している人も全く見えないのはかわいそうでした。

サウジアラビアはいつもそういう雰囲気の中で試合しているのかも知れませんが。

試合後山下公園前のホテルに辿り着いたのがほぼ午前0時。泊まりにして良かった。

念ずれば叶う。


40 京都 Date:6/24/2002-Mon-9:44:32-PM 

京都

毎年6月に「京都五花街合同伝統芸能特別公演」の「都の賑い」と題するいわば演芸会が平安神宮近くの京都会館で開かれます。今年は、15日、16日でした。

私は、昨年、行ってきました。ヨカッター!!!

普通は、花街を「はなまち」と呼ぶことが多いのですが、京都では「かがい」と呼びます。

五花街とは、5つの花街のことで、つまりは祇園甲部、祇園東、先斗町(ポントチョウ)、宮川町、上七軒(カミシチケン)の5つを指します。
元はこれに加えて島原がありましたが、今は花街としては消滅してしまいました。

場所は、祇園甲部は八坂神社の門前から鴨川までの間の花見小路の辺り。祇園東は八坂神社のすぐ下の北側。先斗町は鴨川と高瀬川の間で三条と四条の間の細長いところ。宮川町は祇園の南側の建仁寺の南辺り。上七軒はチョット離れて北野天満宮の門前。

平成13年1月現在の統計では、祇園甲部はお茶屋82軒、芸妓(ゲイコ)89人、舞妓(マイコ)16人。祇園東はお茶屋11軒、芸妓11人、舞妓4人。先斗町はお茶屋38軒、芸妓44人、舞妓5人。宮川町はお茶屋41軒、芸妓33人、舞妓23人。上七軒はお茶屋12軒、芸妓18人、舞妓4人。

まあくだらないことをよく調べた人がいるものだ。

このお茶屋というのは料理屋、割烹というようなものですが、料理は出しますが、自分のところでは作っていません。仕出しを頼みます。ですからお客の好みで取り寄せることも出来ます。

芸妓とは普通は芸者のことです。舞妓は普通は半玉と呼びます。一本ではない、半人前の見習いです。ですから姿は童女の姿を模してあり、髪も島田ではなく割れしのぶとか着物は肩に上げがあり、だらりの帯を締めています。

何と言っても我々の興味の対象は、この舞妓であり、日本の重要無形文化財だと思います。みんなが守らなければ滅びます。

先の統計から言っても祇園東と上七軒は各4人、先斗町は5人ですよ。宮川町の23人は努力は認めますが、チョット変なのも混じっていないか疑問もあります。

ところで最近、京の街に偽物の舞妓がうろうろしています。一般人が舞妓の衣装を着飾り、写真を撮っていたのが、写真だけでは物足りないと街に出てくるようになったのです。とんでもない奴です。年齢を問わないので化け物みたいのがシャシャリ出ているのです。

本題の「都の賑い」に入る前に力尽きてしまいましたので次回に続きとします。


41 京都(続) Date:6/29/2002-Sat-6:58:16-PM 

「都の賑い」の続きです。

花街は女の世界ですから、そのライバル意識は想像するだけでも怖い。(これってジェンダーですよね)

五花街それぞれ同じ日本舞踊でも流派が違う。
祇園甲部は、井上八千代さんで有名な井上流。
祇園東は藤間。
宮川町は花柳。
上七軒も花柳だと思う。
先斗町はチョット分からず。

それぞれの発表会(?)も違う。祇園甲部は「都をどり」。祇園東は「祇園をどり」。先斗町は「鴨川をどり」。上七軒は「京おどり」。宮川町はチョット分からず。それぞれの歌舞練場で毎年一回公演されている。

そんな五花街が合同して公演会を設け、互いの技を競い合い、火花を散らすのが「都の賑い」なのです。

年に一回、ライバルが正々堂々ガチンコ勝負をする。6月が近づくと火花だけではなくバズーカ、ミサイルが京都の町の上空を飛び交っている。観光客には分からないうちに。

出し物は、各花街の自由で課題曲のようなものはない。出したいものを出すのだが毎年同じというわけにはいかず工夫もいるし、他とかち合ってもいけない。演目選びだけでも大変。それより練習が大変。

踊りでも、一人だけで踊るもの、二人、あるいはそれ以上。
バックも長唄、清元、常磐津とか、素人の私にはどれがどれだかNHK教育テレビの土曜午後の邦楽の番組を見ていてもさっぱり分からん。

演奏だけの花街もある。

各花街の代表選手だからへたくそが出てくることはないでしょうが、各花街の期待も大きいし、プレッシャーもすごいと思うな。失敗したら則廃業だろうな。

但し、勝敗は付けません。付けたら二度と続かないでしょうね。

観客は、ご贔屓さん、旦那さんのおとうさん、おにいさん、お茶屋や置屋のおかあさん、芸妓のおねえさん、舞妓も浴衣姿でぞろぞろしている。そこら中で挨拶している。みんな京都の人らしい雰囲気ぷんぷん。

観光客もいるはずだが、雰囲気に圧倒されて小さくなっている。ほんと場違いなところに来てしまった感じ。

公演の最後は、各花街から舞妓が5人づつ「祇園小唄」を踊りながら出てくる。各花街の踊りが違うことがよく分かる。

合計20人の舞妓が総踊りとなり、舞台が満開の花に包まれます。

カワイー!!!

誰か来年でも一緒に行かない?一人じゃ行けないヨ。


53 羽田 Date:10/5/2002-Sat-5:27:37-PM 

東京国際空港、羽田。

年に数回しか利用しないけど、あの東京モノレールは何とかならないのだろうか。昭和39年東京オリンピックに合わせて開業。それ以来進歩という進歩無し。新幹線だって高速道路だって少しは進歩しているのに。

まず、何で浜松町駅なんだろう。何で東京駅まで乗り入れないんだろう。モノレールの路線くらい東京駅まで延伸するのは簡単だと思うが。

地方から羽田に向かうと、例えば新幹線で東京駅に着いて、山手線等で浜松町まで出てモノレールに乗り換える。千葉からだと総武快速で新橋に出て、地中奥深くから地上に出て山手線等で浜松町に。せめて新橋まで伸ばして貰いたい。

浜松町のあの乗り換えのしづらさ。少なくて狭い階段、通路。モノレールの切符の買いづらさ。人の動線を全く無視している。

空港まで直行することもなく、ダラダラいくつもの駅に停車して進む。途中の駅に降りる人は少ない。空港まで行く人が圧倒的に多いはずだ。直行便があっても良いと思う。

偉い国会議員さんはモノレールなんか利用しないから気にしないのだろう。

品川まで出て京浜急行の羽田線を使う手もある。数年前に羽田と成田を結ぶ電車ができた。でも品川からだとこれもダラダラしていて気が短い私はイライラする。

大鳥居なんて通り、70年安保の時に火炎瓶が炸裂していた場所で懐かしい気がするが。

ついでだが、何でJRで羽田と成田を結ぶ高速鉄道ができないのだろう。


55 奈良 西の京 Date:10/20/2002-Sun-5:59:54-PM 

奈良 西の京

2つのものを対比しライバルとすると違いが鮮明になり俄然おもしろくなることが多い。回りもはやし立て、そのうち本人もその気になって来る。

アメリカ対ソ連、フランス対ドイツ、東大対京大、早稲田対慶応、東京対大阪、三菱対三井、トヨタ対日産、いくらでもある。

昔、床屋に散髪に行くことは憂鬱だったが、待ち時間、あるいは散髪中に漫画や雑誌が見られることは楽しみだった。少年マガジン、サンデー。時には月刊の平凡や明星。
平凡だったか明星だったか忘れたが、ある時誌上対決と称し「ビートルズ対ジャニーズ」のファン対決対談が載っていた。なんでビートルズ対ジャニーズなのか不思議だったが、どちらが「すごい」かという対決だった。
方やビートルズのファンは「ビートルズは自分で曲や歌詞を作り演奏しながら歌うことができるのですごい」

此方ジャニーズのファンは「ジャニーズは歌いながら踊れるのでもっとすごい」読んでいてナンノコッチャと呆れた。でも今でも私は元ジャニーズのあおい輝彦の歌をカラオケで歌っている。私以外で他に彼の歌をカラオケで歌う人は未だに知らない。

何の話しか訳が分からなくなりましたでしょう。

さて今日は奈良の話しです。

奈良と京都はライバルとは扱われていないようです。違いすぎるからでしょうか。
京都に比較し、奈良の街、寺院は広々として明るくおおらかさがあり、気持ちが明るくなります。

その奈良の郊外、西の京。並び立つ薬師寺と唐招提寺。

超国宝級の寺院。横綱ががっぷり四つで組み合って並び立つ。
横綱と言っても貴乃花と武蔵丸という情けない横綱達ではなく、大鵬と柏戸級の名横綱の取り組み。これほどまでに違う寺と寺はない。柔の大鵬が薬師寺で、剛の柏戸が唐招提寺。すごい比喩になってしまった。

マア、聞いて下さい。

全体の印象は佳麗、優美な薬師寺。質朴、豪快な唐招提寺。

近年変容甚だしい薬師寺。私達が高校の時に修学旅行に行った時は、目に付く古い建物は東の塔一つであった。「凍れる音楽」と称されたこの塔の優美さに感激した。又、金堂内の薬師三尊が金箔が落ちた銅の肌がぬるりとした感じで光っていた。今は、新しい西の塔、金堂、中門が金色、極彩色に輝いている。

全く変化のない唐招提寺。高校の修学旅行の時と全く変わっていない。全く変わっていないことに感激し、寺を出て門前の茶店に入った。9月とはいえ暑い日であったので一休みのつもりだった。この茶店も何十年前からあった様子の茶店で、床はコンクリートの打ちっ放し、テーブルとイスは昔の鉄のパイプの足が付いている代物。テーブルの天板は化粧合板。今時クーラーがない。扇風機がゆるゆると回って熱気をかき混ぜている。門前の茶店も唐招提寺を倣っているのかと呆れた。

建物は真新しい建物群の薬師寺。天平の遺風を伝える唐招提寺。

お坊さんは薬師寺の元の住職、昭和の名僧、故高田好胤師、現代のおおぼら吹き。ほらは吹き当てることがたまにはある、ほらは大きいほど吹き当てた時も大きいとは聞いていたが、この人のほらもここまで当たればたいしたもの。写経というたった一枚の紙に写した般若心経が積もり積もってこの大伽藍となり、今でも続いており留まることがない。行くたびに工事中。

高校の修学旅行の時に本野先生が「ついこの間まで高田好胤さんが修学旅行生相手に金堂の軒下で説教をしていた」と言っていたことをいつも思い出す。

中国が生んだ名僧、鑑真和上、律僧。ほら吹きの正反対。日本に仏教の正当な戒律を広めるために渡海を決意し、5回の失敗の後、12年目の6度目に成功。この時は盲ていた。井上靖氏の「天平の甍」に詳しい。異説があり、確かに12年かかったとしても5回の失敗の中にはたいしたものではなく失敗のうちに入らないものも数えてあるとか。失敗の回数は多い方がそれだけ箔がつき和上の意思とは別に呼んだ側の事情もあるとか。

この和上像は中国を始め全国津々浦々までと言っては大げさだが出開帳されており、ご覧になった方も多いと思う。唐招提寺では年に3日しか公開されていない。なにか納得できないものが残る。

近年、薬師寺に玄奘三蔵堂ができた。これにより玄奘三蔵対鑑真和上という構図もおもしろい。これは鑑真和上に対抗して玄奘三蔵を引っぱり出したに過ぎないと思うけど、薬師寺では法相宗の開祖が玄奘三蔵であるからだと言っている。

障壁画は薬師寺の玄奘三蔵堂の障壁画は平山郁夫画伯。平山画伯のライフワークのシルクロードの仏教東漸が描かれている。余談だが、平山画伯が近年書いたお釈迦さんとキリストさんとマホメッドさんの三人並んだ絵にはビックリした。こんな絵を平気で書けるなんてよっぽどの非常識な人としか思えない。そりゃー世界平和の願いを込めてという意図は分かるが軽々しく三聖人を並べればよいというものでも無かろう。

唐招提寺の新しい鑑真和上の御影堂の障壁画は東山魁夷画伯。

本尊さまが銅製の薬師如来か木造の釈迦如来か。
祭りの小道具が造花(花会式)か団扇(うちわまき)か。
きりがない。

でもどちらの寺も素晴らしい。


58 葛飾柴又 Date:11/9/2002-Sat-6:57:43-PM 

葛飾 柴又
帝釈天、題経寺の門前町。

門前町としては大きい方ではない。浅草、成田等に比べればはるかに小さい。
最近は巣鴨が門前町として発展し、年寄りが溢れている。たいがいはバーさん。群れている。

門前町というと直ぐに草団子 、くず餅、煎餅が思い浮かぶ。何で草団子かと思っていたらあることに思い至った。草団子は製造が簡単。誰にでも作れる。材料さえ用意しておけばさほどの時間もかからずに店に出せる。急に人出が増えても、直ぐに増産が利く。「さくらチャン悪いけど手伝っておくれよ」と姪でも呼び出せば対応が可能。予想ほどの客数が出なければ生産ラインを簡単に止めることができる。弱点は日持ちがしないこと。在庫ができないので大量生産の資本主義的な生産が不可能。だから草団子が名物になっている門前町の規模は小さい。その神社、仏閣の参拝者の人数がそれ程多くはなく、参拝者はあまり遠方からは来ていないと判断できる。

成田は全国的に見ても参拝者が多く、全国から来る。ここでは草団子ではなく羊羹が名物になっている。羊羹は日持ちが良く、在庫が利き、お土産として持ち帰るのに便利で、土産として貰った人も直ぐに食べなくて良い。浅草の「雷おこし」も同様。

例外は伊勢の「赤福」か。地元だけでなく、名古屋、京都、大阪等に溢れている。あれっておいしいですよね。私も、家のじいさんも好きなんですよ。新幹線の京都駅なんか買い逃すことがありますよ。

草団子と羊羹の中間にくず餅があるという位置関係でしょうか。

それにしても草団子の原料のヨモギは本当に地元産なのでしょうか?まさか中国産なんてことはないでしょうね。

さて、葛飾柴又とくれば「寅さん」に触れないわけにはいきません。私、寅さんシリーズのファンでして全48作全部見てます。この年くらいのオヤジになると全部見たというのが自慢にならないのがしゃくですが。

昔、ガールフレンドから寅さんは喜劇ではなく悲劇で、劇場でバカ笑いをすると他の観客から怒られると聞いて緊張して見たものです。

48作中どれが一番のお気に入れかと問われれば、やはり第1作「男はつらいよ」でしょう。久しぶりに故郷柴又に帰った寅さんが妹さくらの恋愛にちょっかいを出し、自分は帝釈さまのお嬢さん(光本幸子)に惚れてこっぴどく振られる。今見直しても勢いが違います。若かったのでしょう。

当初の6作目位までは、ギャグはギトギト、テカテカ、いやらしい。動きも小細工が目に付きます。大阪の吉本ばりです。あれが浅草喜劇の流れなんでしょう。ストリップ劇場でのコント出身ですから。

寅さんもこんなにイヤな奴はチョットいないと思われるくらいです。御前様、マドンナ等の目上の者にはこびを売る、へつらう、お追従笑いをする、胡麻をする。おいちゃん、おばちゃん、タコ社長、博等の目下の者には威張るバカにする、怒鳴る。果ては拗ねる。小さい目で上目遣い。本当に上目遣いかどうかは今はビデオで見てますので目が小さすぎてしかとは分かりませんが、きっとそうだと思います。特に源公、昇なんかは人間として扱っていない。殴る、蹴る。
人間としてこういう人とは付き合いたくないと思わせる人です。

私の弟の友人は寅さんが大嫌いだそうですが、理由はその人の兄さんが寅さんそっくりなんだそうです。勿論顔ではなく、性格、生活態度がです。こんな家族を持ったらたまらないだろうな。

初期の寅さんシリーズは、寅さんが惚れる相手のマドンナもひどいものです。女の残酷さ、我が儘、薄情さ、身勝手丸出し。

お寺のお嬢さん冬子さんは、まるで寅さんをペットとしか思っていないのではないでしょうか。相手が感情を持った人間なのだということが全く分かっていない。深窓のお嬢さんで、暫く病気療養をしていて、少々天然ボケが入っているとしても余りに残酷です。悪意がないだけ始末に悪い。

一番ひどいマドンナは、豆腐屋の娘のせっちゃん節子さん(第5作「望郷篇」、長山藍子)。自分の母親のババアとくたびれた豆腐屋を寅さんに押しつけて自分は恋愛相手と結婚しようという魂胆。そのくせ寅さんが居なくなった後「どうしてかしら?」なんて白々しい。

やっぱりこの様な路線ではシリーズとしてここまで続かなかったと思います。客は飽きますよ。イヤになります。というわけで7,8作目くらいから変わり始め10作で寅さんが惚れられるという逆転現象になってしまい、お客さんも安心して笑っていられる名画になったと思います。めでたし、めでたし。

マドンナの中で誰が一番のお気に入りか、ですって?よく聞いて下さいました。浪速の芸者ふみさんです(第27作「浪速の恋の寅次郎」、松坂慶子)。ふみさんが寅さんの泊まっている宿屋に夜、酔って尋ねてきて寅さんに泣いて良いか、泊まっていって良いか尋ねる。いいですねー!きれいですねー!

この映画が上映された大阪のある劇場で、このシーンで「寅!イテマエ!」と声がかかったそうです。すぐさま他のお客さんが「ドアホ!寅はそーゆーことはせんのじゃー!!」と返したというエピソードが残っています。

寅さんについて書くと終わらなくなってしまいそうなので無理矢理止めます。

伊藤三平 ● Subject:矢切の渡しから柴又へ Date:11/10/2002-Sun-4:55:45-PM 

リュウさん、葛飾柴又の案内は地元の甲田夫妻に聞くといいです。あの有名な川甚なども馴染みです。

市川に住んでいると、柴又には矢切の渡しからいけるんですよ。
これまで2度、家族揃って、自転車部隊で矢切から柴又まで行ってます。自転車で行くと言っても結構遠いですからハイキング。

江戸川土手に自転車を止め、ゴルフ場にもなっている河川敷に降りて、片道100円で渡し船に乗る。シーズンになると結構混んでいる。載っている時間は5分程度。

お客が「船頭さん、”矢切の渡し”を歌わないの?」「私どもは歌わないです。お客さんの中に歌う人いますよ」とのこと。うちの娘は今度乗ったら歌うなんて言っている。

柴又帝釈天の参道の、くず餅、せんべい、飴なども美味しいですよ。

柴又の帝釈天の境内では寅さんのそっくりさんが、いましたよ。おもしろいところです。


59 京都2 Date:11/18/2002-Mon-7:13:41-PM

京都にも、通りに面した商店等に長屋のような形式の木造の建物が多い。
いわば虎屋の羊羹を横にして置いた様と言える。何故か黒っぽい。
最近商売がうまくいかなかったりして店を畳む人も出る。長屋が全部一人の持ち物なら問題はないがそこにいる人がそれぞれ自分の使っている部分の持ち主である場合は処置に困る。

羊羹の真ん中だけ切り取って食べようかと言うことと同じ。羊羹だったら何をしている端から食べろと一喝されてお終いだが建物となるとそうはいかない。真ん中の人が自分の分だけ壊して駐車場や空き地にしてしまう。両側の人はいい迷惑だと思う。空き地に面した残った建物の壁が養生されてはいるが建物の設計図の側面図をそのまま見ているようで妙におかしい。

京都の町屋は細長い。通りに面した幅は狭く奥行きがその何倍もある。といって私は町屋の中まで入っていって篤と見たわけではないが通りを歩いていると想像が付く。

この町屋や長屋の一部を壊してビルに建て替えているが敷地の形状、面積から細長いペンシルビルばかりとなっている。虎屋の羊羹ほど立派ではなく、むしろ成田の米屋の羊羹を立てたように見える。

バブルが終わりかけたが余韻はまだまだあった15年くらい前に、我が家も古い家をぼっ壊してテナントビルでもおっ建て、ビルの上の階に住もうかと考えたことがある。まだまだ浮かれていたんだと思う。

敷地が狭いのでたいしたビルは建たずペンシルビルにしかならない。そこで京都を思い出した。今では細長いペンシルビルはどこの町にも溢れているが、当時の京都はペンシルビルの見本市のような体だった。
それも飛び切りに斬新でモダンなデザインのビルが多かった。京都には先鋭的なデザインをする建築家が多いらしい。街が古いからといって誤解してはいけない。住んでいる人々は進歩的というか新しい物も好きだという。

デザイナーは良いが残念ながら同じ様な小さいビルばかりで自然と競争になった。意匠を凝らした目に付くデザインのビルがやたらと多かった。街を歩けばそこここに目に付いたが、特に北山通りの方にその様なビルが多いと聞いた。

我が家もその様なビルを見本にしようと思った。その為にわざわざ京都まで見学に行く計画まで立てた。しかし、銀行で簡単な借入、返済のシュミレーションを作ってもらったが、当時は利息が年に9パーセントを超えていたので20年経っても、30年経っても返済が終わらないという計算となり、ビルおっ建て計画は即座に終わった。京都旅行も中止になった。

建てなくて良かったと心の底から思っている。危なかった。建てていたら今の我が家はない。倒産とか夜逃げまでは行かなくともえらい目に遭っていたことは確かである。

京都にはそんな想い出がある。

伊藤三平 ● Subject:京都の町家 Date:11/20/2002-Wed-9:44:28-AM 

リュウさん、京都に当てはまるかわかりませんが、江戸では町屋は間口で税額が違ったようだから、細長くしたのかもしれない。

伯父の家も、八坂の塔の近くの、そんな京都の家でした。
入ると玄関のたたきがあり、家の左側は台所、廊下、風呂と便所と縦に続いています。
右側の並びは、玄関のたたきの横の2畳くらいの部屋、次いで居間(台所の右側になる)と、8畳くらいの寝所(ここも台所の右。すなわち台所が細長い)、そして縁側があって狭い庭(風呂、便所につながる廊下の右側にあたる)。
そして居間から2階の階段。2階には、それぞれの部屋の上に3部屋あるという構造でした。

薄暗い室内です。都会の住居(町人)はどこでも、このような長屋形式(テラスハウスというのか?)の構造だったのでしょうか。

従姉妹は、京都のこのような町屋が嫌で、この家を売り払い、京都郊外で、ごく普通の一戸建てに住んでいます。

観光客はあの町並みが魅力だけれど、住んでいる立場に立つと、従姉妹の気持ちもわかります。古民家の保存は難しい問題です。もっとも京都は、街並みを考慮した和風の近代的住居も多くありますが。

杉浦さんの栄村の民家の改築に、建築家の高橋(英)君がボランティアでアドバイスするようですが、住みやすく、改築費は安く、そして地域に調和する建物になるといいですね。


富良野 Date:12/8/2002-Sun-9:16:11-PM

業界の会議が旭川であり、翌日、公式半日観光に参加した。総勢20人くらい。オヤジばかり。観光バスに乗って。

大雪山を眺め、富良野に入り、ドラマ「北の国から」の撮影現場に行った。ガイドさんが、「ここが北の国からのロケ地です」「これがあの五郎の家です」「本当に火を付けて燃やしたんです」とか熱心に説明してくれた。
だが、お客の我々は「フーン」「へー」「あっそう」とか全く熱が入らない。

私が「そのドラマは知っているけど、見たことない。田中邦衛とかが出ているのは知っているくらい。誰か見たことある人いる?」と聞いたら、20人くらい居るのに誰一人見ていなかった。

そりゃーそーだよ。4,50のビジネス・オヤジがテレビドラマなんて見ているわけがない。
この20年間、仕事、仕事で過ごし、夜は夜で接待、付き合い、休日はゴルフか寝ているだけで、家庭サービスなんかほっぽっていた連中。

ロング・バケーション、古くは金妻も話しに聞いているだけ。見るテレビはスポーツ・ニュースにニュース・ステーションくらい。

その後のワインとステーキにはうって変わってやたらと活気づいた。

ところで、吉岡君、有紀さん、ご結婚おめでとう。内田有紀、きれいですネー!


62 高輪 泉岳寺 Date:12/12/2002-Thu-10:26:20-AM 

12月14日。赤穂浪士討ち入りの日。
私、生来、討ち入りに縁がありまして毎年この日が楽しみなのです。

京都には寺町通りがあり、その名のとおり寺院が並んでいますが、東京にも谷中を代表に寺町がいくつかあり、三田にも残っています。慶應義塾大学の近くから南に下がり、果てが高輪泉岳寺辺りになります。その先、暫く離れて品川の先にもあります。昔の東海道に沿って造られており、敵が街道から迫って来ると寺を防御の拠点とし、墓石を並べて陣を敷くつもりだったのでしょう。

高輪の泉岳寺が浅野内匠頭と赤穂浪士の墓所。
鉄道唱歌に「右は高輪泉岳寺四十七士の墓どころ 雪は消えても消えのこる名は千載ののちまでも」と歌われる。

一年に一度必ず日本中の話題になる寺。墓所に四十七士の粗末ながら凛とした墓石が並ぶ。反逆者の墓らしくて潔い。

「たそがれ清兵衛」が話題となっており、私も観て参りました。私の先祖は山形の上山藩の下級武士だったそうで、映画の中の清兵衛の生活模様が懐かしく感じました。

「たそがれ清兵衛」の原作者藤沢周平には「用心棒日月抄」シリーズがあり、この第1作が裏忠臣蔵話でなかなかおもしろい作りになっています。ご一読を。


 65 函館・神戸・長崎 Date:12/19/2002-Thu-6:00:45-PM 

日本三大夜景は、函館、神戸それに長崎と言われている。

函館
夏に仲間10人とゴルフに函館に行った。2泊3日4ラウンドの旅。早朝、羽田発の飛行機で函館空港に。大沼を見て、昼前にゴルフ場に。
午後に1ラウンド。夜はコテージ泊まり。

次の日は午前7時頃から2ラウンド。カートではなく徒歩。終わると午後5時にはなった。

湯ノ川温泉の高級温泉旅館に移動。一風呂浴びて宴会。

しこたま飲んだ後に夜景見物。函館山の頂上付近は霧が出ていて視界が利かない。途中の中腹で夜景が見られたが100万ドルとは言えず50万ドル。

夜景見物に行ったのは8人。ほとんどがゴルフ疲れと酔いのせいでぐっすり寝ていた。次の日も午前7時から1ラウンド。午後の便で帰京。ゴルフを知らない人はお分かりにならないと思うがこんな馬鹿はいないという強行軍。本当に芯から疲れた。

神戸
六甲山からの神戸の夜景が評判。
元千葉高3Cの土提内君の実家が宝塚の岡の上にあり、見晴らしが良い。神戸そのものとは言えないが30万ドルくらいの夜景が楽しめる。

神戸港沖からの夜景も良いが横浜港沖も同じ様なものだと思う。

長崎
長崎の夜景は市街から稲佐山を見るのか、逆に稲佐山から市街を見るのかどちらだったか憶えていない。
稲佐山のホテルで宴会が終わったのは午後10時を過ぎていた。遊び好きのオヤジが市街に遊びに行きたがったが夜も遅いので付き合う人がなく、それでも諦めきれずにホテルの部屋の窓にへばりついて長崎の街を見ながら、「あっ、灯りが消えた」「あっ、また消えた」と寂しそうにつぶやいていた。

● 伊藤三平 ● :神戸ーホスピタリティと紅茶ー Date:12/22/2002-Sun-11:01:50-PM 

リュウさん、これも、昔の話になりますが、神戸で仕事を延べ4ヶ月ほどしたことがあります。北野の方か、どこかは忘れましたが、繁華街ではなかったと思いますが、家族で運営しているスナックというより、もう少し家庭的な店があったんです。後輩がそこの姉妹を気に入り、よく出向きました。

品のある姉妹で、媚びを売るようなことはないし、かと言って生意気なことも冷たいこともない、そして一人、一人をそれぞれもてなす雰囲気がありました。

私は、この店の姉妹によって、英語のホスピタリティという言葉の意味がわかった気がしました。世界から客人を迎える港町の遺伝子を見つけました。

兵庫県庁の仕事でしたので、時々出向いた県庁の近くの喫茶店。別に有名な店ではないです。カウンターがあり、中年の女性店長が色々な種類の紅茶を飲ませてくれるんです。

通っている内に、アールグレィのミルクティーが一番の好みになりました。美味しかったです。
その後、紅茶の銘柄が指定される店に行くたびに注文をしましたが、みんな違うんですよ。東京のどこかに美味しい店があるのかもしれませんが、高名なホテルでも駄目でした。今では諦めてますから、こだわらないです。

西村のコーヒーも有名ですが、神戸の喫茶文化は奥が深いと思います。

そういえば、この前、有名な香港のペニンシュラホテルのハイ・ティも団体で経験してきました。おみやげで買ってきたパッションフルーツ、プーアール茶の缶。中国茶はブームになるかもしれないね。


67 神戸 Date:1/12/2003-Sun-6:48:44-PM 

何をやっても中途半端。子供の頃からおよそ「根性」という言葉には縁がない。
そんな私にも一つだけ「根性」がある。「野次馬根性」。こんなの根性に入らないか。

1995年平成7年。阪神淡路大震災。
2月18日に業界の会議が和歌山であった。翌日、仲間に「神戸を見に行こうよ」「今が旬だよ」「今を逃したらもう見られないよ」と誘った。

震災後1ヶ月が経ち、落ち着きを取り戻しているようである。今なら被災者、被災地の迷惑にさほどならずに見てこれるであろう。もう1ヶ月経てばあらかた片づいてしまう。ただの馬だが大義名分を作る。

兵庫の同業者に「お宅の組合の事務所にお見舞いと激励に出かけたいが」と相談すると「是非来てくれ」「来てくれるだけでうれしい」と快諾を貰う。なにか騙しているような後ろめたさもあったが。

5人で出かけた。大阪駅で早めの昼食を済ませる。
「被災地の皆さんにご迷惑をおかけしてはいかん」「腹が減って被災地の炊き出しをいただくようでは情けない」「不法勢力の炊き出しなら喰っても良い」トイレも使えるのか否か分からないので大阪駅ですます。

大阪の駅の構内にヤッケ、ウィンドブレーカー、リュックサック、ザック姿の人がやたらと多いのに気が付く。

電車に乗って神戸に向かった。淀川を越え、尼崎に入る頃に沿線に青いシートを屋根にかぶせた家がポツリ、ポツリと増えてくる。JRの住吉駅までは復旧していたがその先は代替バスに乗る。住吉駅で降りると駅前の商店街に倒壊した建物がある。

国道ではなく、裏の住宅街にバス乗り場があり、ここで列を作ってバスの来るのを待つ。国道沿いはさほど変わった様子はなかったが、一歩裏の住宅街に入ってたまげた。

一般木造住宅が倒壊、つぶれている。何軒も。並んでつぶれている家もある。その脇でバスを待つ。言葉が出ない。仲間も。口が利けない。涙が出そうになる。わけが分からない気持ち。この辺りは火は出ていなかった。こんな状況で火が出たら。

自宅に押しつぶされて抜け出ることができず、家族らの前で火に包まれて無くなった方が何人もいらっしゃるとは聞いてはいた。現実のものと実感させられる。

バスで三宮まで行き、その先歩いて兵庫の同業組合の事務所に着いた。事務所には被災者の方々が避難していてロビーや会議室でそのまま生活している。被災者の方が居たのでは組合の事務に支障があるのでそろそろ立ち退いて貰っているとのこと。

事務所の責任者は震災当日徒歩で自宅から何時間も掛けて出てきた、自宅の靴は取り出せず、偶然外に落ちていた他人の靴を履いて来た、事務所の建物は何ともなかったがロッカーが倒れ、機具は使えず、書類はバラバラ散らばり手が付けられなかった、職員は今は交替で出ている、組合員の死亡者は出ていないようだが、家族には無くなった方がおられる、今後の組合の運営は見当も付かない、大阪等の援助を受ける予定である等の説明を受け、些少ながらのお見舞いを置いて早々に引き上げた。

帰りに何人かとはぐれ、伊丹に向かった人と別れ、二人が大阪駅に着いた。「リュウちゃん、ビール飲んでいこうよ」と誘われ、駅近くのレストランで生ビールを飲んだ。ようやく一息ついてビールがうまかった。

ただの野次馬であったことは間違いない。野次馬の見物人が批判されていたことも承知していた。でも、行って、見て良かったと思っている。見てきたことは周りの人に伝えることが必要だと考え、暫くどこに行っても誰と会っても震災の話をしていた。


76 浅草 Date:3/6/2003-Thu-0:38:07-PM 

観音様の門前町。下町の代表。服を誂えに浅草まで出かけた。

地下鉄銀座線。私はこの銀座線が地下鉄らしくて好きだ。車両も小さい。
若かった頃、デートに行くために良く乗った。駅に近づくと急に明かりが消えた。あれは何だったんだろう。今は懐かしい。

上野、稲荷町(チョウ)、次が田原町(マチ)。ここで降りて服屋に。色々注文をし、来冬用のコートまで作ってしまった。帰りは合羽橋商店街を冷やかしたり、浅草寺の方へ回ったりその都度気の向いた方に。

地元の友人は「街が元気なのは三社のお祭りの時だけさ」と言ってはいるけどまだまだ元気に見える。確かに年寄りばかりで、若い人がいない。だから落ち着く。まあ銀座もそうだけど。

でも外国人観光客が多い。彼らが何に興味を持っているのかを見ているのもおもしろい。雷門の前の通りに新しく地下駐車場が出来た。

この通りも新しい高層ビルばかりになってしまったけど一軒だけ古い木造の建物がある。
これが有名な「並木藪蕎麦」。

20代の頃、蕎麦屋巡りをしたことがあった。かんだやぶそば、池の端藪蕎麦、ここの並木藪蕎麦。合わせて藪御三家。
上野蓮玉、室町砂場、永坂更科。そして神田の出雲そば本家等。

まだ片倉康雄氏のことは知らなかった。一茶庵も勿論「竹やぶ」も知らなかった頃。そばルネサンス前夜。色々食べてみたけれど、どれが旨いのやら不味いのやらよく分からなかった。一言で蕎麦といっても結構種類が多い。

歳も若かったということもあろうがそもそも舌が肥えていない。両親は、東北の盆地の農業地区の出身。私が子供の頃も家でろくな物は食卓に出なかった。そんな育ちだから食べ物の味など皆目分からない。この歳になれば少しはカッコウつけて知ったかぶりはするけど。そんなわけで蕎麦屋巡りも止めた。

でも今でも好きな蕎麦屋の一つとして、この並木藪がある。いかにも江戸の蕎麦屋の雰囲気を残し、小さい店でうるさくもない。一杯引っかけてからもりの1枚をたぐって終わり。時には天ぷら蕎麦。ここのざるは量が少ない。蕎麦つゆはとても辛い。

この日は春一番の次の日で北風びゅーびゅーのものすごく寒い日だったので、まずは菊正宗の樽酒の燗1本。キューと胃袋が暖まってから鴨南蛮で全身ホッカホカ。幸せになれた。


78 TDL・USJ・TDS Date:3/15/2003-Sat-5:04:00-PM

TDL・USJ・TDS
何のこと?って思った人もいるかも知れません。

私、ミーハーだからどこも開業4ヶ月以内には出かけた。この歳のオヤジにしては珍しいだろう。

TDL 東京ディズニーランド
USJ ユニバーサル・スタジオ・ジャパン
TDS 東京ディズニーシー

同期の人で、どこにも行ったことがないという人も希にはいるらしい。どこも似ている。テーマパークだから当たり前か。

TDL

日本にディズニーランドが出来て直ぐくらいに弟がロスの本場に行った。帰ってから弟に「どうだった?日本と変わらないだろう?」と尋ねたら「全然違うよ。あっちは白人ばっかしさ」「客もだよ。日本は日本人やアジア人ばっかだろう。あっちは自分らを除けば周り中白人ばっかりで雰囲気が違うよー」と言っていた。

そういえばディズニーのキャラクターで黒人や東洋系はいただろうか。古き良き時代のアメリカか。
TDLでは場内に何語だか分からない言語が飛び交っている。見た目は日本人と変わらないが東南アジア中の憧れの観光スポットになった。

元々TDLはあまり好きではない。なにが嫌いかというと平気で人を待たせること。人というより幼児を数時間も待たせる。真夏の炎天下、真冬の寒風の中。
人の列を見た目ごまかしてさほど待たずに乗れるように見せている。

TDLが出来てからあのチェーン仕掛けが日本中に広まった。この間、巣鴨のとげ抜き地蔵に出かけたら境内にあのチェーンが張ってあって年寄り達がおとなしく並んでいた。

楽しいか?
オヤジにはチョット。

ミッキーやミニーの友達になれるか?突然冒険家になれって言われてもなれないだろう?シンデレラに恋をするくらいか。

USJ

色々問題はあった。火薬とか飲料水とか。
良いのは並んだ列を外から見せないように建物の裏や中に隠してある。少なくとも外側がすっきりしている。どっちにしろ人気のあるところは待つけど。

出し物は一度見たり、乗ったりすれば仕掛けが分かりもう一度見ようとする気は起こらないのではないだろうか。リピーターはTDL、TDSほどは出ないと思われる。

ジョーズ。大きいけどたいしたことのないブヨブヨの鮫の頭が急に飛び出す。この時に客の乗ったボートに水がかかる。客が濡れる。これは反則だと思う。誰が遊園地に出かけて半身ずぶぬれになりたい?レインコートを並ぶ前に売りつける。この為だけにレインコートを用意していったり、その場で買わなきゃならない。値段はともかくその場だけのために買わなきゃならんというのも腹が立つ。背広が水浸しじゃしゃれにならない。

映画の好きな人は一度は行ってみた方がよいと思う。

私は、アメリカン・グラフィティーが好きなのでメルズ・ドライブインでビールを飲んでロックンロールを聴いているだけでもそれなりに楽しかった。

でも、視線を上げると高速道路や隣の工場の屋根が見えるのはナー。いつかつぶれる。ハウステンボスのように。

TDS

これは凄い。本当に一度行った方がよい。金のかけ方が全然違う。

TDLを作ったときは恐る恐る作ったんだと思う。だけどTDSは作れば受けることは分かり切っていた。だからいくら投資しても元は取れると思っていたんだろう。

壁の厚さがまるっきり違う。TDLのように薄っぺらではない。塗装が凝りに凝っている。山や海の規模が違う。ショーもなかなか。

単に酒が飲めるから大人も楽しめるなんて話ではない。モノレールなんか千葉のモノレールよりずーっと立派。どっちが遊園地の電車だか分からん。

今度ご一緒にどうです?

帰りにイクスピアリのハワイアン・レストランのアラン・ウォンも結構ですよ。ここだけでもどうですか?
シンデレラも良いけど、ティンカーベルもイイかー。


79 銭湯巡り Date:3/21/2003-Fri-7:14:08-PM 

今日は小さな旅の話をしましょう。そんなのは旅と言えないとおっしゃるかも知れません。昔、永六輔さんは「普段歩いたことのない横町を曲がるだけでも旅だ」と言っていた気がします。お聞きになった記憶はありませんか。

日頃から運動不足なので数年前からウォーキングをしています。ウォーキングと言うより単に散歩しているだけですが、出来るだけ早く歩くようにはしています。最初は万歩計を付けていましたが、大体10分で1,000歩と分かってからは付けていません。1時間歩くと6,000歩になり、1万歩は1時間40分かかることになります。たまには2時間くらい歩くこともありますがせいぜい1時間が良いとこです。

休日しか時間は取れませんし、冬は寒い、夏は暑いで、最近は月に1,2度程度で「ウォーキングしています」とは言えないのかもしれません。ただ歩いているだけではなんともつまらなく、飽きてしまいました。

そこでひらめくものがあり、銭湯巡りでもしてみようかと思いつきました。私の家の半径5キロ以内に銭湯が24、5軒くらいあります。健康ランドとかの今風のものは除いた昔からの銭湯、風呂屋だけでです。そんなにあるの?とお思いでしょう。

今までに行ったことがあったり、場所を知っているところ以外は電話帳で調べ、地図に印を付けてみました。「竹の湯」「梅の湯」「亀の湯」「石の湯」なんて懐かしい名前がほとんどですが、一軒だけ「ビバークランド」という名のところがあります。

24、5軒とは結構な数ですが、正確な数ははっきりしません。行ってみたら廃業していたとか、行った後に廃業し駐車場となってしまったところもあります。

確かあの辺りに煙突があったはずだと煙突を目標に出かけ、ようやく辿り着いたら休みのようで、しかし日曜日に休むのも妙だなあと思って良く見直すと廃業していた、なんていうこともありました。悲しい思いをしました。

現在まで22軒行きました。はじめはそんなつもりはなかったのですが、全軒制覇しようと思うようになったのです。百名山登山が目標!なんていうのと比べるとはるかに小さい目標ですが。こうなりゃ巡礼です。

タオル1枚、石鹸箱、小銭入れ、それらが入った小さなポシェット。これを冬はポケットに入れ、夏は手に持って出かけます。小銭は1,000円あれば充分で、入浴料が385円、お湯から出て懐かしいコーヒー牛乳やたまには缶ビールを飲んだり、帰りに歩く気がなくなった時のバス代や電車賃、緊急時の電話代も念のために用意しても全部で1,000円あれば充分です。

最初は近いところから始めましたが、だんだん遠くなります。片道1時間。せっかく遠くまで来たのだからと頑張って長湯をしても30分。普通の銭湯は公衆衛生上お湯はぬるくは出来ないようでどこも熱い。昔はもっと熱く46度以上はありました。この場合はチョット入っただけで熱くて耐えられず、身体を丁寧に洗っても20分もかかりませんでした。子供を連れていって泣かれたこともあります。

現在は規制が緩くなったとかでぬるくはなりましたが、それでも42,3度くらいはあります。空いていると冷めないので過激に熱いです。たまに露天風呂がある銭湯もあり、出たり入ったり、のんびり休んだり、冷ましたりしていられるので1時間はもちます。得をした気になります。

帰り道がまた1時間。都合3時間の休日の小旅行。

「行きはよいよい帰りは怖い」で、お風呂から出てダラダラにだらけるのは身体ばかりではなく心もだらけます。ここから又1時間歩かなきゃならないと思うと辛いものがあります。くじけて電車で帰ってきたこともあります。
夏はせっかくきれいになったのに帰り道で汗だくになってしまいます。

ただお察しのとおり帰ってからのビールが旨い。これが楽しみ。銭湯で飲んでしまうと帰りが辛くなるのでなるべく我慢するようにしています。

最近はスーパー銭湯と言って、色々種類の違う浴槽、バスや露天風呂を備えたり、サウナ付きの銭湯もありますが、たいがいは昔ながらのままで何の営業努力もせずお客さんが減るに任せているのがほとんどです。

未だにトイレが汲み取り式の銭湯があったのには本当に驚きました。公衆浴場という言葉から公衆衛生という言葉を連想してしまいますが、21世紀に入っても浄化槽式でもない立派な汲み取り式、ポットン便所。このくらいの設備投資もしないのかね、補助金くらい貰えるだろうにと不思議に思いました。そんな話を友人にしたら、「なんでトイレなんかに入るの?」と聞かれました。「あのね、真冬に1時間も歩いてようやく辿り着いてホッとして、せっかく来たんだからゆっくり入るぞーと思うと自然にトイレに入りたくなるのよ」と答えると「そーゆーもんかねー」と半分だけ納得したような顔をしていました。

たいがいはすいています。私一人しか入っていないことも時々あります。やっぱり沢山の種類の浴槽があるスーパー銭湯は人気があります。日曜日の夕方は子供も多く賑やかです。うるさいくらいです。

スーパー銭湯には普通の浴槽の外に泡風呂、ジェット風呂、立ち風呂、寝風呂とか色々ありますが、私は腰が痛いので電気風呂がお気に入りです。浴槽の端に左右の電極があり、お湯の中に電気が流れていてビリビリします。銭湯によって電圧に違いがありビリビリ度が違います。初めての場合は気を付けて入らないと痺れて動けなくなります。電気の来ない所で中腰になり、そろりそろりとお尻の方から電極の方に後退すると丁度良い場所が見つかります。なにも考えずにドボンと入ると一発鳩尾にハードパンチが入ったようにウーンと唸って息が出来きなくなり、死にそうになります。私も一度強烈なものをくらって懲りました。慣れると身体をもぞもぞ動かして気持ちの良くなる場所を移動して当てることが出来ます。それでもチョット油断するとバチンと来て身体が痺れ、動けなくなり、焦ります。

心臓の悪い人は止めた方がよい、絶対に危ないと思います。

露天風呂については日を改めてお話ししようと思っていますが、こんな銭湯の露天風呂でも薬草が入っていたりして気分がよいものです。

銭湯にはヤクザ者も来ています。公衆浴場と言うからには「入れ墨のお方ご遠慮下さい」とは言えないのかも知れません。入れ墨のお方がヤクザ者と限ってはいませんが、モンモンオヤジがでかい態度で居て脇に若い衆が控えていれば間違いなくその筋のお方でしょう。あまり気持ちの良いものではありません。大体あの人たちは暇だから銭湯に入るくらいが楽しみなのかも知れません。

落語に出てくるような、熱い湯に入ってウンウン唸っているような年寄りはもういません。絶滅したようです。それでも水を流してお湯の温度を下げるのをはばかる雰囲気はあります。そうするのも何か情けない気もします。「子供じゃあるまいし、水をジャンジャン流して背中に当てながら入るな」と言われそうな気がします。

既に行ったところでも車で行ったところが2軒あり、これは徒歩でやり直しをしなければなるまいと思っています。まだ行っていないところの2,3軒も片道1時間コースです。片道1時間というと結構覚悟決めないと歩き始められません。

もう少し季節が良くなってからにしようと思っています。

片道2時間になると更に6,7軒はあります。この場合は往復徒歩は無理ですから帰りは電車になるでしょう。ここまで足を伸ばすかどうかは今のところは未定です。ご承知のとおりそこまでの根性はないでしょう。
こればっかりは「ご一緒にどうですか?」とお誘い出来ないのが残念です。


80 銀座4丁目 「天賞堂」 Date:3/26/2003-Wed-6:45:51-PM

銀座4丁目和光の角を曲がって晴海通り沿い直ぐに「天賞堂」という有名な貴金属、宝石店がある。昔、「オメガの天賞堂」と言ってオメガの代理店だった。たまに寄ることがある。

貴金属?宝石?そんなものに縁はない。

私が寄るのは店の上。狭い階段を登る。ここに知る人しか知らない模型店がある。天賞堂が模型店を開いている。特に鉄道模型はオリジナルを出していてブランドになっている。大量には作っていない。よって高価。

ここにオタク達が集まっている。

銀座で女性率の低いさでは一番だと思う。たまに男性に連れられて来ている女性はいるが、しょうがなくて付いて来たのか、騙されて来たのか、みんなつまらなそうな顔をしている。一人で来ている女性はいない。

鉄道模型、モデルカー、帆船模型に興味を持っている女性なんていないんだろうな。
4階には中古の鉄道模型の売場になっていて、中年以上の男が熱くなっていて、時々「オー!」なんて歓喜の声が上がっている。

大人になって何が良かったかと言うと小銭に苦労しなくなったのが嬉しい。子供の頃から鉄道模型が欲しかったが高かったので手が出せなかった。中古のHOの電気機関車とレールを買ったがパワーパックが組立式のが組み立てられずに結局動かないままに終わったという悲しい想い出がある。昔から理科は苦手だった。

大人になると果たせなかった子供の頃の夢を追いかける人も多いと聞く。車ではクラッシックカーだったりスポーツカーだったり。実は中古のポルシェ911が欲しかったこともあった。これは諦めた。小銭では足らない。

ある時、決断して鉄道模型を買った。自分で作るなんてことはとっくに諦め、金で解決できる所は金で解決するという大人の知恵で、Nゲージのブルートレインのセットを一式買い込んだ。

蒸気機関車C57、電気機関車EF15、100系新幹線ひかり、総武横須賀快速電車、茶色の客車、貨車等を買い足し、線路も増やした。

日本間に座卓を並べると1メートル掛ける3メートル位になり、ここ一杯に楕円の線路が敷ける。単線で一部複線となる。ただ線路があるだけで景色は全くない。ここに色々な編成で走らせる。

畳に寝そべって頭を上げると視線が線路と同じ高さになる。ウイスキーをチビチビやりながら、その視線で走っている列車を見ていると結構迫力がある。ポイントを通過するときは車両がうねうねと曲がる。

小さな旅だ。新幹線ひかりの赤いテールランプが目の前を通り過ぎてゆく。シンデレラ・エクスプレスだ。


84 お台場 Date:4/15/2003-Tue-6:36:44-PM 

車を走らせていてどこが一番きれいかと言うと私はレインボーブリッジだと思う。遊びで橋を架けたんじゃないかと思うが、橋の専門家さんはどう考えているのだろう。

遠くに東京タワー、佃島等の超高層マンションが見え、下の晴海埠頭には豪華客船が停泊し、羽田の方向では飛行機が離着陸している。大パノラマ。特に夕暮れ時が最高。どの車もよそ見をしていると思う。

娘さんの御機嫌を取りにお台場に行った。大観覧車に乗った。高さが100メートルを超えているが、横浜のMM21や葛飾臨海公園の方が少しだけ大きいらしい。

かなり並ぶ。2時間待った。後で乗って気が付いたが6人乗りのゴンドラにカップルの場合2人しか乗せない。同席禁止。ほとんどがカップルで時々家族連れが混じるくらいだから6人乗りの意味がない。これでは2時間も待つのは仕方ないと思う。

一番上になると揺れる。上に近づくにつれてゴンドラを支えている棒が下に下がり、真上では支えが見えなくなる。怖い。思わず中腰になり、終いにベンチに座り込んでしまう。15,6分の空中散歩。

海沿いのビルのレストランは広いテラスで食事が出来る。石窯で焼いたピッツァもある。味?どうでした?
今度はハワイアン・キュイジーヌの「サム・チョイズ」にしよう。


● 86 上野 2 Date:5/6/2003-Tue-6:41:38-PM

連休中はどこかにお出かけになられましたでしょうか?
私は、美術展を見に上野まで参りました。上野駅の公園口を出たところで気が変わり、あまりおもしろそうにない美術展より鈴本に行って落語でも聞くかと足の向きを坂の下の方に変えてしまいました。結構な落差です。

子供の頃から落語が好きでした。中2の時、クラスのお楽しみ会で一席話しましたが全く受けず、大人になったら落語家もいいなというささやかな夢が一つ消えてしまいました。「堀の内」でした。

高校の時には「志ん生」を生で聞いたことがあります。大病の後の復帰後で「えー。うー。・・・と申しましテ」と良く聞き取れない話でしたが存在感は圧倒的でした。
大学ではしばしば寄席に通っていましたが、卒業後はその機会もなくなりました。

最近は年に一度くらい鈴本に寄るくらいです。口べたですので少しは為になるかとも思っています。心残りは「志ん朝」を生で聞き逃したことです。こんなに早く往くとは思いませんでした。その点「談志」は数十年前からもうすぐ死ぬに違いない、きっと自殺するに違いない、早く聞いておかなきゃと思っていましたので何回か生で聞いています。でも癌になってもしつこく生きています。

鈴本演芸場。いつ行っても空いています。

落語は絶滅の危機に瀕しているようです。能、狂言、文楽に近い位置に落語、講談、浪曲があるのでしょうか。最近は狂言が少し戻しているようですが、これも「死に花」でしょう。当日は「こぶ平」が代演で出まして、少し得をした気になりました。勢いがあります。

トリは「歌武蔵」という相撲取り出身という体の大きい噺家さんでした。「武蔵川部屋」出身で「円歌」の弟子という分かりやすい名前の噺家で、元相撲取りらしく声がくぐもるのが残念ですがなかなか熱がこもっていました。

コンサートとか映画とか楽しい企画も多い昨今ですが、たまには原点に返って寄席というのも良いのではないでしょうか。


90 日比谷公園 Date:6/2/2003-Mon-8:39:38-PM 

4月か5月の晴れて空気の乾燥した日の夕方近く、日比谷公園内の松本楼のテラスで飲む生ビールは最高に旨い。日本ではない気がする。

今日も近くまで出かけ午後4時に用が済んだが、どんより湿った気候でビールを飲む気にならず直ぐに帰った。

日比谷公園も開園100年とか。デートとかデモとかで想い出のある人は多いでしょう。

日比谷公園の道一つ隔てたビルの中に業界の本部があり、ここ4年間、毎月一回近く会議に通っていた。路線の違いが顕著になり、気が重くなり、いたたまれずに5月末に辞任した。会議の合間に17回の窓からため息を付きながら日比谷公園を見下ろしていた。その他、皇居や国会議事堂、汐留の日テレの新ビルや果てはレインボーブリッジ、海が見え、いつも慰められた。

会議の後、日比谷公園を突き抜けて帝国ホテルのバーに転がり込み、ジントニックを一杯引っかけるのが楽しみだったけど、これもお別れか。

このところ気候が定まらず、台風が来たり、5月からもう梅雨の気配。でも、いいんです。私は来週はパラダイスですから。


●94 京都 2 裏千家今日庵 Date:6/29/2003-Sun-9:47:49-PM 

裏千家今日庵
京都御所の西北に表千家不審庵と並ぶ。

日本の文化を考えるときに茶道を外すことは出来ない。単にお茶を飲むことだが、それに付随した所作は日本人の約束事になっている。茶道に関連する文化は多方面に渡る。

建築では茶室、数寄屋造り、床の間。絵画は掛け軸。作庭。植木、茶花等の造園。和菓子。茶器。塗り物。そして懐石料理。 

精神的なものは「侘び寂び」「一期一会」「和敬清寂」
和服。

昔は花嫁修業として茶道を習ったようだが今はどうなのか。残しておきたい習慣だと思う。勿論女性だけでなく男性にもその機会はあった方が良い。

若い頃、少しは茶道の心得くらいないと困ると思ったことがあった。日本文化を知ろう等と大げさに考えたわけではない。

丁度親しくしていた裏千家淡交会の地方の理事だった方に連れられて裏千家の本拠、今日庵に連れて行って貰った。裏千家の門弟でも簡単には訪ねることは出来ないらしい。

入口で羽織を着た老年に近い番頭さんのような人に慇懃に「ようおこしやした」と迎えられた。どうも男の京都弁は油断がならない感じがする。

さほど広くはない敷地一杯に建物が建ち並んでいる。茶室は重要文化財だが日常的に使われている様子。

案内をしてくれたのは20代初め頃の男性で着流しで素足でいる。修行中の身分のものは足袋をはくことが許されていないのだそうだ。勿論真冬でも。へー、結構厳しいんだ。禅宗のお坊さんも修行中は素足だと聞いたことがある。

お茶を頂いたり建物を案内して貰ったりして見学が終わりに近付いた頃、廊下を引率者の方と案内修行者が並んで歩いていた。引率者が左手に心付けが入った小さなのし袋を身体の左脇に持っていき手を返した。修行者が右手でサッとバトンタッチのように受け取り「どうも」と一言だけ発してそのまま着物の懐にしまい込んだ。ウーンお見事。こりゃー貰い慣れていらー。

どうも実態は侘びだの寂びだのとは違いそうだと思い、習う意欲が無くなった。でも今ではやっぱり茶道を習いたいと思っている。

ところで茶道具の中で茶杓って素晴らしいと思いません?
耳掻きみたいなただの竹の棒だけど見ていて唸る。茶杓の中にも凝縮された日本文化がある。


●96 京都 祇園祭 Date:7/16/2003-Wed-10:18:14-AM

明日、7月17日は祇園祭の山鉾巡行。
若い頃に3回日帰りで見に行った。朝一番6時発の新幹線こだまで京都に9時頃に着き、タクシーで四条通に向かえば長刀鉾のお稚児さんが注連縄を切るところには間に合った。四条河原町の交差点で全ての山鉾を見ても2時間くらいだったか。その後は京都市内を見たり、奈良まで足を伸ばして充実した一日を終えて帰ることは出来た。

本当は前夜の宵山から見たいのだけれど一泊は面倒で且つホテルも取れない。

それ程多くの祭りを見ているわけではないが、この京都の祇園祭は日本一ではなかろうか。意義、歴史、規模、豪華さ。鉾の豪華さは息を飲むくらいだし、お囃子も風雅。さすがに京都と思われる。

この祭りを支えているのは京都の町衆で、その住まいが町家。山鉾の内の「伯牙山」の飾り場になっている杉本家は建物が京都市の指定有形文化財になっていてその保存の為に財団法人奈良屋記念杉本家保存会が作られている。

奈良屋?そうなんです。
千葉市の2大デパートだった扇屋と奈良屋の奈良屋さんのご本家なんです。京都の奈良屋が千葉県の佐原に出店を出し、その後に千葉市にも開いた。
先代のご主人杉本郁太郎氏は千葉暮らしで千葉の文化人としては有名でした。当代のご主人杉本秀太郎氏は京都生まれの京都育ち、著名なフランス文学者でかつ今の京都の文化人の代表です。

今の千葉では扇屋も奈良屋もなくなり、特に奈良屋は千葉駅近くに店舗を移し、三越と資本提携して「ニュー奈良屋」となり、その後ごたごたして今は「千葉三越」となり奈良屋の手を離れました。奈良屋は元の古いビルを「セントラルプラザ」と称して昨年まで営業していましたが、バブルの再開発に乗り遅れ、現在は扇屋共々むくろをさらしています。

千葉と京都にはそんな縁もある。


100 (最終回) 四国遍路 Date:9/1/2003-Mon-10:39:10-AM

四国遍路
世界中の旅の中でも珍しいし、日本では色々な意味で一番の旅だと思う。

四国が四つの国から成っているので四国と呼ぶという当たり前のことを思い出させる。
阿波、土佐、伊予、讃岐。

ここに散らばる弘法大師空海ゆかりの88のお寺を順番に回るのが四国遍路、四国88ケ所霊場巡拝とか巡礼とか呼ぶ。この寺を札所と呼ぶので札所巡りとも云う。

古くからの遍路道を辿って歩くと約1200キロで約40日、現代の道を車で回ると約1400キロでバスで約13日、自家用車だと約10日かかる。ヘリコプターで上空から拝んで回ると1日で回れる。はたしてこれが巡礼と言えるかの疑問はあるが、身体の都合や時間の都合からやむを得ないのかも。

近年では年間約10万人から20万人の人が回ると言われている。歩いて回る歩き遍路は年間約1000人もいるらしい。最近は定年退職後のご夫妻での歩き遍路が増えているとか。

この巡礼の特色の一つは終わりがない旅であること。四国の中でぐるっと1周することになる。勿論88番目の寺が終われば一応は成満したとして終わるが、この88番目と1番目は近くにあるので続けて2回目の巡礼に入ることが出来る。山手線みたいなもので終着はない。一度回り終えても暫くするともう一度回りたくなる。どこから回っても、何度かに分けても、逆回りでも良い。今でもグルグル何度も回っている人がいる。

昔は、家督を譲ったご隠居さん、家族に体よく追い出された老人、ライ病のために家にいられなくなった人、凶状持ち、等がいた。最近NHKが取り上げた仙人みたいなお遍路さんが、実は11年前からの殺人未遂の指名手配犯人でこの放送のおかげで素性がばれて逮捕されてしまったということがあった。

家や故郷に帰りたくとも帰れない人が一生を遍路で過ごす。弘法大師との二人連れ「同行二人」の旅。

お接待という習慣や、善根宿等の四国の人の善意にすがり、時には乞食をして、お寺の軒下や駅舎で野宿をして回る。全財産を子連れ狼の大五郎が乗る乳母車のような車に積み込み、端から見ればのんびりと回る。終わりなき旅だから急ぐ必要はない。かといって一所に居続けるわけにも行かない。

巡礼の白装束は、死に装束。いつかは行き倒れとなり、亡くなると持っていた金剛杖が墓に突き立てられて墓標となる。まさに歩くホームレス。

20年前と5年前に回ったことがある。今まで色々なところを旅してきたがこの旅は本当に楽しかった。四国はそれぞれの国により風景、人柄、そして食べ物が異なる。旅に目標があるからストレスがない。

最初のは仲間6人でタクシー2台をチャーターして回った。2回目は団体バスで二度に分けて。タクシーは早いの何のって8日間。一番年長が45歳、年少が23歳。みんな若かったから夜は酒を飲み、機会を捕まえては四国の夜の街に繰り出していた。当然、朝は早いから午前中は眠い。タクシーでどっぷり寝ていると運転手さんに「着きましたよ」と起こされ、寝ぼけ眼で参拝。又車中で寝るという毎日。だからどこがどこだか分からない寺も多い。先のタクシーには年長組、後ろのタクシーには年少組。私は年少組。

こんな巡礼だから「バチ」が当たったのか年長組の3人はこの4,5年の間に次々と亡くなって全滅してしまった。仲がよい人達だったから先に行った人が寂しいからと仲間を呼んだのだろう。次の番は私かと畏れているが、この人達は一度しか回らなかったが私は二度回ったので何とかなるだろう。私の次ぎに若い人は10年も前から肝臓が悪く、肝硬変で熱を出しているので私をパスしてこちらが先かも分からない。

こんな巡礼では意味がないとお思いかもしれないが、それなりに心境に変化は生じる。やはり、命、一生、幸福等については考え続ける。悟りの境地にはほど遠いが、終わると確かに変ったと思う。

今、同期の人、数人と60歳を過ぎたら四国遍路に行こうと話している。ご一緒しませんか。こんな奴とじゃ危ないなんておっしゃらずに。


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