インド

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18 インド 1 タジ・マハール Date:12/16/2001-Sun-9:33:21-PM 

世界で最も美しい建造物はアテネのパルテノン神殿と言われていると前回ご紹介しましたが、私はインドのアグラのタジ・マハールこそが世界で一番美しい建造物であると思います。

アグラは、インドに首都デリーから南に200キロ位にあり、昔のムガール帝国ゆかりの都市です。デリーからは日帰り観光の範囲にあります。

タジ・マハールはインドの観光ポスターの代表となっている真っ白い大理石で出来た建造物です。

これこそインドというインドを代表する観光スポットとなっています。どなたも「あー、あれか」と思い出されることでしょう。まるでイスラム教のモスク(寺院)のように見えますが、お寺ではなく霊廟、つまりはお墓です。

17世紀のムガール帝国の皇帝シャー・ジャハーンがお后ムスターズの為に造ったお墓です。
このお后は、皇帝と19歳で結婚し、18年間に14人の子供を生んで37歳で亡くなった人です。

皇帝はこのお后のために莫大なお金、人と年月を費やしてこの美しいお墓を造りました。

庶民としての私は、皇帝が后のために造ったと聞いて、さぞかし若くて美しいまま亡くなった第何番めかの后の為に造ったのかなと思いましたが、長年連れ添った妻の為の物と知り、俺には出来ないと反省しました。

どっちにしろ出来る訳はありませんが。

皇帝は、自分には、タジ・マハールからガンジス河の支流であるヤムナ河の対岸に、こちらは黒い大理石で同じ様な墓を造り、橋を渡して結び付けようとしましたが、息子に反対され捕らえられアグラ城に幽閉され願いを果たすことが出来ずに生涯を捕らえられたまま終わりました。幽閉されていたアグラ城の部屋からは后の眠るタジ・マハールがヤムナ河越に見え、朝から晩まで光をあびて白く美しく輝く様を見ながら愛した后を思いつつ亡くなったとのことです。

今では二人してタジ・マハールに眠っています。

美しい話です。

タジ・マハールは真っ青な空の下、真っ白な大理石で美しかったのですが、近年さすがのインドも近代化、工業化され大気汚染の為に真っ青な空が少なくなっています。すっきりしない白っぽい空の下になっています。

工場の排煙が大理石を徐々に解かしてしまう虞があるとか。自動車の排気ガスも良くないとタジ・マハールの近くは自動車が入れず、電気自動車に乗り換えて行きます。

いつか解けてなくなってしまうのでしょうか。

それにしてもインドの物売りは私の経験では世界で一番酷いと思います。
歴史上、他民族の支配を受けた回数と人の悪さは比例すると私は理解しています。
又、過酷な生活環境は偉大なる宗教を生むものだインドで学びました。これらの話はいつか別の機会に。


20 ネパール Date:2/9/2002-Sat-5:05:24-PM

アメリカのテロがなければ、今日2月9日はインドのジャイプールからアグラに入るはずだったのに。

去年の7月から計画したのにアメリカのアフガン侵攻によって中止。

パキスタンはアフガニスタン・タリバンの友人、パキスタンとインドは小さな戦争を飽きずに繰り返している建国以来の犬猿の仲で、かつ最近造った核兵器を試しに使ってみたくて仕方がない。そこに中国が絡み、アメリカがインド洋からミサイルをアフガニスタンにぶち込む。

どう考えてもインドは最悪のタイミング。

アグラの話はこの間したので今日は隣国ネパールのこと。

数年前の2月にネパールに行った。ヒマラヤの山を見に。ネパールとチベットを混同する人が結構多いけどネパールはヒマラヤの南側、チベットは北側。

カトマンズの空港は無線の着陸誘導装置がなくて航空機が落ちたばかりだったが、私達が行ったときは完成していて無事に到着できた。

空港から見える高い山を指さし、現地ガイドのアショカさんに「あの山はなんて言う山?」と聞いたら、「あれは標高6000メートルくらいで山とは言えない。ただの丘で名前はない」とのこと。6000メートル位はまだ丘なんだー。

エベレスト遊覧の飛行機に乗った。飛行機はプロペラ機、DC3に似ているが名前は分からない。いずれにしても古い機体で余所では使っていないようなしろもの。

エベレストは現地名はサガルマータと呼ぶ。おかしな名だ。中国側ではチョモランマ。ヒマラヤの山脈の奥に鎮座しているのでボロイ飛行機では近づけるはずもなく、遠くから遙拝して終わり。

ただ他の山々から頭一つ抜けだし、三角形の頂上が日を浴びて黄金色に神々しく輝いていた。神の峯の風格はあった。

ヒマラヤの山の見学スポットにポカラという町がある。カトマンズから飛行機で30分位飛ぶ。アンナプルナ山群に近いヒマラヤ・トレッキングの入口。

空港の滑走路は舗装されていない。砂利敷き。砂利敷きの空港というのは初めてだ。

ホテルの屋上で、曇り空なのに山が見えることを祈りながらぼーっと空を見上げて待つ。日本にいては考えられない時間が過ぎていく。

2月は乾期なので2,3日滞在していれば1日は晴天となり三角形のマチャプチャレが目の前に、アンナプルナ、ダウラギリの8000メートル級の山も間近に見える。

話には聞いていたが、晴れると景色は素晴らしい。言葉に言い表せない位。

山の高さの表現としては、今日本間に座って居るとして、日本アルプスの頂が部屋の鴨居位だとすると、ヒマラヤは鴨居の上に山々が乗っている感じ。ご理解いただけるでしょうか?そのくらい高い。

ところで、ネパールはチベットに近い為にチベット難民の村が各地にある。ネパールは世界でも有数の貧しい国だが、そこに何十万かのチベット難民が流れ着いているのだから大変だと思うし、ネパール人とチベット人の軋轢はないのかと心配する。

ネパールには観光を除いては産業らしい産業はない。

輸出品は人間で、男はイギリスに兵隊(グルカ兵)として、女はインドに売春婦としてそれぞれ輸出されている。


35 インド ベナレス Date:4/29/2002-Mon-5:44:42-PM 

ベナレス。現地読みはバラナシとかヴァーラーナスィとか。ガンジス川岸の都市。沐浴場がある。

ヒンドゥー教徒の憧れの地。この街で死に、川岸で火葬され、川に流されるのが人生最大の望み。少なくとも一生のうち一度でもこの川で沐浴したいと望む。

母なる、聖なる大河。全ての物を飲み込み悠然と流れる。

キリスト者であった遠藤周作氏が辿り着いた「深い河」。アジア的宗教観の一つの源。

輪廻からの解脱を求めて人々は沐浴する。どんよりと濁った水。ゴミが浮いていようが、上流で洗濯していて石鹸の泡が流れていようが、隣で見知らぬ人が石鹸で身体を洗っていようが、沖を死体が流れていようが気にしないでサッと手のひらでゴミを除け、川の水を口に含んでうがいをしたり、何度も何度も頭まで潜っている。

川岸にはヒンドゥーのバラモンの高僧らしき人物がビーチパラソルのような傘の下で偉そうにふんぞり返っている。うさんくさい。

目に付く高いところに白人のいかれた行者(サドゥー)もどきが格好を付けて瞑想している、フリをしている。

そこいら中に乞食だの物売りだのがひしめいている。

乞食といっても道ばたで慎ましやかにお恵みを待っているのではなく、積極的にワーワー訳の分からないことを騒ぎながらアルミのサラを差し出し、攻めかけてくる。こっちもなんだかワーワー言いながら撃退するのが大変で、それだけで疲れてしまうし、気が滅入ってしまう。

混沌たるインド。

川岸の露天で火葬をしている。火葬に使う薪を沢山買える人はこんがりとウェルダンに焼き上がり、果ては灰となってガンジスに流され、少ししか薪を用意できない人は半焼けのレアのまま流され、子供と動物は焼かれずにそのまま流される。

ガンジス川の魚は人間の肉を食べているので太っていておいしいと言われている。

ホテルの食事には魚料理が出されるが、確かに実が多くおいしかった。

最近、川岸に市営の火葬場が出来て、貧乏な人も火葬されて灰になってから流されるようになったそうだ。

見た感じはまるで産業廃棄物処理工場。

インド人にとっては遺骨、遺灰は何の価値もないのだから廃棄物に違いはない。

インドに行くと大好きになって何度も行きたくなるか、大嫌いになって二度と行きたくなくなるか、二つに一つと言われるがそれ程でもないと思う。確かにショックはきつい。だから帰ると「もういいやー!」と思うが、暫くするとまた行きたくなる。

伊藤三平 Subject:深い河 Date:4/30/2002-Tue-4:14:58-PM 
ベナレス。タイに行くので読み直した三島由紀夫の『暁の寺』にも出てました。
読み返して印象に残ったのは、三島が頻発する「老」についての容赦ない言葉で
した。これが印象に残るということも自分が「老」の入り口に来ているからでし
ょうか。三島自殺の原因も「老」への嫌悪感程度なのかもしれない。そんな気が
しました。

『深い河』は好きな小説の一つです。気に入った箇所をいくつか抜き出してあり
ます。その中よりいくつかを抜粋。

「結局は宗教でさえ憎みあい、対立して人を殺しあうのだ。そんなものを信頼す
ることはできなかった。」

「磯辺は生活と人生が根本的に違うことがやっとわかってきた。そして自分には
生活のために交わった他人は多かったが、人生のなかで本当にふれあった人間は
たった二人、母親と妻しかいなかったことを認めざるをえなかった。」

「その一人一人に人生があり、他人には言えぬ秘密があり、そしてそれを重く背
中に背負って生きている。ガンジスの河のなかで彼等は浄化せねばならぬ何かを
持っている。」

61 カルカッタ Date:12/9/2002-Mon-11:19:11-PM 

カルカッタ。
インド、ガンジス河口、ベンガル湾に近い、インド有数の大都市。
インドがイギリスの植民地だった頃の中心都市。

ビクトリア朝時代の壮麗な建物が並ぶ。視線を上に上げているとロンドン辺りに居るような気になり、視線を下げると混沌なる邪悪なインドそのものとなり、落差が大きい。

海岸に近いために湿気がある。湿気があるということは臭いもきつい。貧しい人の多い地区では耐え難い臭いがする。テレビで見てると臭いもしないし蝿も飛んでこない。まして乞食も寄ってこない。

マザー・テレサが生涯をかけて貧民救済に奮闘努力したが、カルカッタやインドは全く変っていない。

イギリス元皇太子妃レディー・ダイアナが亡くなったのが1997年8月31日、マザー・テレサが亡くなったのが同年9月11日。

罪深きダイアナを救おうと聖女テレサが後を追ったのか、ダイアナがテレサを引っぱって昇天したのか。


69 インド 3 Date:2/11/2003-Tue-6:05:01-PM 

インドではビックリすることが多い。ある中部の都市。国内線の飛行機でその町に着いた。

前日に政治ストで死者が出たことから戒厳令が出て一切の外出が禁止されていた。その日の予定はキャンセルになりホテルで半日のんびりしていた。次の日は一日の遅れを取り戻そうと街中が殺気立っているようだった。

町中の交通量も普段より多いようで所々で渋滞していた。国道に出たが渋滞にかかった。聞くとその先に鉄道の踏切がある。それを渡るので渋滞している。

インドの列車はのんびり走る。踏切は列車が通るしばらく前から閉まってしまう。時間がかかる。待ちくたびれた頃に古く汚れた列車がゴトンゴトン通っていく。今日は車が多いから時間がかかるのは仕方がないかと諦めて待っていた。国道と言っても片側1斜線、往復2車線でさほど広くはない。

待っていると右側の反対車線をどんどん車が追い越して行く。踏切が閉まっているから反対車線には車が来ない。そのうち同じ方向に3台位並んで道一杯に停まってしまった踏切が開いたらどうするのか不思議だった。案の定、踏切が開いたが、踏切を挟んで両側に車が押し寄せていて全く進めない。

こちら側は道一杯に向こうに向かう車が隙間もないくらいに詰まっている。反対側もこちらに向かう車がひしめき合っている。まるで非武装地帯の数メートルを挟んで戦闘開始を待っていたようなもの。身動きできない。

「なんで?」
「いったい、こいつら何考えてんだ?!」
「バカじゃないのか?!」

自分だけ先に行きたい、隙があれば少しでも自分だけ前に進みたい。後のことや人のことは全く気にしない。誰が考えても反対車線は空けておかなければおしくら饅頭になってしまうのは明らかで、結局自分も困ると思うけどインドの人はそうは考えないらしい。考えつかないのか。

踏切を抜けスムーズに走れるようになるまで2時間以上はかかった。


83 ルンビニー Date:4/8/2003-Tue-10:56:41-AM 

ルンビニー
今日4月8日は花祭り。お釈迦様の誕生日。ルンビニーは、お釈迦様が誕生した地。現在はインド国境に近いネパール領になっている。

インドからネパールに入る国境をバスで越えようとした。インド側のイミグレーション事務所はコンクリート造りの平屋建ての簡素なものだった。ガイドが手続をしている間、バスから降りて道ばたの土産物屋や雑貨屋を覗いていた。ふと振り返るとバスがいない。誰もいない。

焦った。こんなところに置いて行かれたらどうしよう。荷物はない。言葉も話せない。乞食になるしかないか、と瞬間考えた。イミグレーション事務所の前でボーとしていた役人らしい人に尋ねようとしたがなんて聞いて良いのか分からない。

「今ここに停まっていたバスはどちらの方向に走っていったのか?」
と質問したいのだが、出てきた言葉は「Where is my bus?」

こんなんじゃないよナー、これじゃ通じないだろうナーとは思っているけどこれしか出てこない。恥ずかしいから声も小さい。相手は「あーん?」と言う感じで怪訝な顔をしているだけ。

こんなのに聞いていても仕方がないと辺りを見渡したら、200メートルくらい先にバスの後ろ姿が小さく見えた。これが乗ってきたバスかどうかの自信はなかったが、これに賭けるしかないと思い、全速力で駆けた。

途中、凱旋門を小さく粗末にしたコンクリートの門のようなものを走り抜けた。これが国境だった。あとにも先にも国境を走り抜けた経験はこれ一度。

バスに追いつくとガイドがどうかしましたかという顔で出迎え。こっはハーハーいって言葉が出ないのと恥ずかしいので訳も話せず「何ともないよ」と答えるのが精々。バスはネパール側の入国手続きをしていた。これが終わってから乗客の確認をして出発するつもりだったようだ、と好意的に解釈している。

原因は服装にあった。インドには行って直ぐにクルータという民族服を買った。後日オウム真理教の連中が来ていた白い服。それが何日か着ていて汚れてきていた。それで道をふらふらしていたので背景の景色に入ってしまい、気が付かれずに置いて行かれた。

それ以来、観光客は観光客らしい服装をしていた方が良いと思っている。勿論、観光客が狙われることは多いだろうが、なまじ変なカッコウをしているよりプラスの方が多いと思っている。

ルンビニーは遺跡公園のようになっている。アショーカ王の立てた石柱の一部とお釈迦様の母親マヤ夫人のための小さなお堂が建っている。

世界中の仏教徒から遺跡の発掘、公園の整備、仏堂の建築等のために莫大な寄付金が寄せられているのに何十年経ってもいっこうに変わらない。お金はみんな現地の偉い人の懐に入ってしまっている。インド、ネパール人だから「懐に入る」と言うのもおかしいが。


●95 インド 4 土産物屋 Date:7/1/2003-Tue-3:14:32-PM

インドの土産物屋
旅の最初の地ニューデリーで友人が土産物屋で真鍮製の水差しを買った。見た目は手作りのようだがどうも怪しい。見て回る街ごとに同じ水差しが並んでいる。地方に行くに従い値段が下がっていく。友人はもう値段だけが気がかりになり、行く先々でこの水差しを目で追っている。

「またあった。また安くなった」ほとんどノイローゼ状態。終いにガンジスの川の水を汲んで入れた途端に水が漏れることに気付き、発狂寸前までになった。

インドの土産物屋に連れて行かれて商品を見ているうちにどうも市価に較べて異常に高いように思えた。「10倍はボッテいるな。いやそれ以上かな」
日本人は日常、商品を正価で買っている。大阪の方では違うかも知れないが、東京では値切る習慣はない。

インドではガイドからこの国では正価はない、欲しい人と売りたい人の相対で値段が決まる、商品の価値は絶対と言うことがない、となんだかえらく哲学的なことを言われ、その気になってしまう。

そこでどこに行っても値切らなければ損だと浅ましい気持ちになり、「ディスカウント!ディスカウント!」「プリーズ!」と馬鹿の一つ憶えのように集団で繰り返す。
そして半額にでもなればものすごく得をした気になり、仲間に如何に安く買ったか吹聴しだす。なんだか餓鬼になったみたいで情けない。

どうもおかしい。どこか変だ。こちらが値切ってもその値段で売ると言うことはそれでも儲かっているから売るんで、損をしてまで売る訳がない。ジャーいったい元の値段はいくらくらいか、市価の何倍くらいで売っているのかと気になりだした。こんなことが書かれているガイドブックなんてない。

ある時本屋で裏話系の旅の本を見つけた。
なんと40倍くらいだそうな。ウーン、40倍カー。唸った。

気候条件のためにインドの観光シーズンは12月から2月までの3ヶ月しかない。この3ヶ月のために店舗を設け、日本人好みの各種の土産物の在庫を抱え、ある程度の人数の片言でも日本語を話せる店員を雇っておく。そしてカモの観光客が来るように旅行会社に金を払って団体のバスを停めて貰う。

ガイドにもバスの運転手にも更には日本人の添乗員にもそれなりの金を渡す。だから40倍になってしまう。それでも「日本で買うより安いです」という決まり文句に嘘はない。

インドではおっかなくてとても現地の人が買い物をする店には買い物に行けない。勇気を奮って行っても、言葉は通じないし、都合良く欲しいものが手に入るということはない。お仕着せのお土産物屋でボラれても買うしかない。まるで籠の鳥。

それにしても土産物屋に我々が入り終わるとガチャーンと入口の扉を閉めて鍵をかけるのだけは止めて貰いたい。「絶対逃がさないもんねー」と言われている気がする。火事になったらなんて考え出すと不安で仕方ない。


●99 インド ブッダガヤ Date:8/16/2003-Sat-5:35:58-PM 

インドの東北部ビハール州にガヤという都市がある。今から2500年も前の昔、その近郊でお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)が悟りを得られた。
修行者ゴータマが仏陀(ブッダ)になられたので、その地をブッダガヤと呼ぶ。

又、大樹の下で瞑想をして悟り(菩提)を得たので、以後その樹を菩提樹と呼ぶ。直ぐ脇に近年ユネスコの世界遺産に登録されたマハー・ボーディー寺(大菩提寺)の大塔がそびえ立っている。

仏教徒にとっての最高の聖地。世界各地からようやく辿り着いた巡礼者は感激の涙、随喜の涙を流す。

ブッダガヤの大塔の敷地内にはいるとワサワサと屈強な青年達が参拝客に取り付く。何だと思うとこれが日本語ペラペラのガイド、のような実はお土産物屋の手先の連中。
日本人一人に相手も一人付く。マン・ツー・マン。

これがアーだコーダと語りかける。そこらに落ちている菩提樹の葉っぱも記念品にどうだと親切に拾ってくれる。

ブッダガヤには世界の仏教国がそれぞれの寺院を建てている。日本の日本寺もある。その日本寺が近所の農村の子供達のために幼稚園を開いた。ついでに日本語も教えた。

その子らは日本語ペラペラになり、長じて日本人向けのお土産物屋になったり、あるいはその従業員や手先になった。せっかく覚えた日本語を活用するにはこの商売しかない。そして土産を買えと強要する。

「トモダチ!トモダチ!」
「ジュズ、カッテクダサイ」「セイゲツボダイジュ、デス」
「ダイリセキノブツゾウ、ドウデスカ」

金はないと断ると
「オカネ、アリマス」「オカネ、ナカッタラ、インドマデ、キマセン」
「ウソ、ツイテハ、イケマセン」「ウソツキ、ドロボウノ、ハジマリ」
「ニホンノヒト、ミンナ、オカネモチデス」

それでも断ると
「ナゼデスカ?トモダチデショウ」
「ニホンジン、ミンナ、タクサン、カッテクレマス」
そのうち喧嘩になる。

「ドーシテデスカー!」「うるせー!あっちに行けー!」

土産物を沢山買う客をゲットすれば数ヶ月から1年分位の収入になるから必死になっている。目の色が変わっている。
こっちが本当に何も買わないと分かると、まるで貧乏神を見るような目つきになって、更に自分の運のなさを呪うような顔になり、なにかブツブツ言っている。

私に取り付いた奴に運がないことは私も同情はする。

とても聖地で静かな気持ちになっていられない。涙なんか流れる暇もない。なんでこんな連中に日本語なんか教えたのだと腹が立ってくる。こんなでは悟りはほど遠い。


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