中国・台湾

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2 台湾 Date:6/29/2001-Fri-7:00:46-PM  

台北に故宮博物院を観に行った。
展示品は中国の誇る歴史的文物だけに見応えがあった。全部見ると何日もかかると言われるが、3時間が限度。くたびれるし、物が多すぎて飽きる。

日本であれば全てが国宝指定になる位だと思う。日本の歴史の浅さが実感される。

荷箱に入れられ北京の故宮から運ばれた物だけに大きい物はない。故佐藤首相が持っていた唐三彩の馬が大きい方で目立っていた。何でこんな物があるのか疑問に思うが、佐藤首相が亡くなった後、寛子夫人から寄贈されたとか。

歴史で甲骨文字を習ったが、実物の亀の甲羅や牛の骨に刻まれた文字を初めて見た。亀の甲羅は我々が甲羅だと思っている外側のごつごつしたのではなく、内側の柔らかい甲羅だった。私は字がへたで甲骨文字やくさび形文字の様な字しか書けないので妙に懐かしかった。

甲羅や骨を焼き、できた割れ目で占いをし、王様はその結果で戦争を始めるとか政策をどうするかを決めていた。そのうち目端の利く占い師は王様が望んでいる結果の出る割れ目を出せるようになり、王様の覚えめでたく出世したそうだ。やっぱりそうなんだ。

北京の故宮は、建物は壮大だが宝物は少ない。清朝の皇帝に外国から贈られた宝石等の装身具、時計、当時の珍しい物が残されていて展示されている。ガラクタと言うと言い過ぎだが。

歴史よりもギラギラしたお宝の方が好きだという人は北京向きだ。

やはり元のように北京の建物に台北の宝物が収まるのが理想だと思う。

北京の故宮の入口天安門には毛沢東の肖像画が掲げられ、台北の故宮博物院の前には蒋介石の銅像が建っている。いまだに。

台湾の自慢は何と言っても故宮博物院だが、台湾人本省人の独立志向の高まりと共にお荷物になってきているらしい。


4 北京 Date:7/15/2001-Sun-4:03:23-PM 

2008年オリンピック開催地が北京と決まった。順当だと思う。大阪じゃあ競争相手にはならないよ。

2000年オリンピックの開催地を北京とシドニーが争っていた1993年に北京とシドニーに旅行したことがあった。両方の都市を実際に見て北京は未だ無理だと思った。結局シドニーに決まった。

万里の長城を見物していたら身体のやけに大きい欧米人がいて地元のマスコミがテレビカメラで撮影していた。オランダの柔道家のヘーシンクだった。IOCの理事だったので現地調査をしていたのだろう。調査という名の接待だったかもしれない。

当時の北京空港のトイレは壊れていて、安心して用が足せる状態ではなかった。その後1998年でも同じ様な状態だった。今でも改善されているとは考えられない。

今回の決定に対して中国国内の人権問題を指摘する人もいる。シドニーはアポロジニの問題をうまく処理してオリンピックを成功させた。中国の人権問題があと7年で改善される筈はないが、トイレくらいは改善してもらいたい。

伊藤三平 Subject:中国のトイレ Date:7/16/2001-Mon-10:34:00-AM
私は中国が新婚旅行先だったのです。妻はトイレには苦労しました。
1985年当時、中には溝を掘って、そこに足が乗る板2本だけ、囲いは無し
というのもありました。

パック旅行でしたが、結果として我々2人しか参加しなかったので、通訳、運
転手つきの大名旅行になりました。
夜汽車で雲崗の石窟がある大同まで行った時に品の良い中国人の老人から日本
語で話しかけられ、驚いたら、なんと早稲田の出身の先輩でした。
その方が亡くなるまで文通し、来日された時もホテルに訪問しました。
詳しい身の上話などはしませんでしたが、筆舌にしがたい苦労をされたのだと
思います。馮さんと言いました。

トイレの話に戻ると、アメリカの流通業の店舗の中には、トイレで座っている人
の足や上半身が見えるのもあり、違和感は覚えます。(この方が安全面では良い
との説明をうけました)

私は、今では「このホテルはウォシュレットがついているのか」なんて気になる
ような軟弱な男になっています。でもウォシュレットは日本の素晴らしい発明だ
と考えます。

23 西安  Date:2/22/2002-Fri-5:43:30-PM 

ローマの話の次は、シルクロードの東の果て西安。
長安。大唐の都。

1辺3、4キロ程度の城壁に囲まれた都市。元はこの数倍だったが、現在の城壁は明代のもの。以前は交通に不便なので所々削られて道路になっていたが最近は完全に直した。約12キロの城壁一周マラソンをやっている。城壁の外には掘り割りがあり、四方には城門がある。特に有名なのは西の城門で、ここの櫓に上り、西の方を見やるとぼんやりとくすんだ先にシルクロードが続いていたという感傷にふけることが出来、NHKのシルクロードのテーマ曲が耳の中に流れてくる。

日本人は文化的に中国に負い目があるが、特に西安には遣隋使、遣唐使の歴史もあり感傷的になる。

北京も解放前までは城壁があったが、今は取り壊されて全くなく、街の所々に城門だけがぽつりと建っている。現在でも城壁のある都市はここ西安と南京だけとか。

城門も奈良の都の羅城門のように抽象的な門ではなく、こちらのはあくまで戦争を前提にした実用的な門である。

近年、西安政府は観光政策に力を入れており、日系のホテルも多く、日本人観光客も多い。南の城門の回りの雑然としていた街並みをアッという間にきれいに壊し、片づけ、道を広げ、ロータリーを造り、おまけに城門をイルミネーションで飾り付けたのには驚いた。

西安政府は、元から共産党が伝統的に強いところで未だに党の威光が強いのだろう。

北京、上海に比べると落ち着いた雰囲気の街で、物売り、土産物屋も北京等程拝金主義が強くなっておらず、気分を害することも少ない。治安も悪くはなさそう。

未だに「千円!千円!」とおばさんの物売りが安物の土産品を売っているのが懐かしい。

近年、日本では奈良、京都ブームで何度も出かける人が多いが、中国では最近になってようやく国内旅行が出来るようになり、古都の西安にも一生に一度みたいな気合いの入ったツアーも来ている。

郊外には、秦の始皇帝の兵馬俑坑がある。これはお勧めする。すごい!

よくまあこんなものを造ったと始皇帝の権力に驚く。

大きな体育館のような建物の中に発掘跡が展示されている。

発掘は今でも続いており全体がどうなっているのかは全く想像すら出来ていない。

私は、畑を耕していたら、突然人間や馬の像がゾクゾク出てきたのかと思っていて、それは怖かったろうと感じていた。しかしそうではなく、元々この辺りの土中には大量の土器の破片が埋まっていることは分かっていたが、誰も掘り出そうなんて考えていなかった。掘ってもなんの役にも立たないので。

掘り出して繋ぎ合わせたら人や馬、馬車が出来た、とういうようだ。

なーんだ。

何万かになる兵隊や馬が一つ一つが違い、同じ物がないのもすごい。ひょっとすると作り手も何万人かいて命令でそれぞれが自分に似せて作り、作り終わった人はそのまま殺されてしまったのではないかとまで考えてしまう。

書いている時間がなくなったので続きは又の機会に。

伊藤三平 Subject:リュウさんへ
2 Date:2/25/2002-Mon-11:37:14-AM 
「西の城門で、ここの櫓に上り、西の方を見やるとぼんやりとくすんだ先にシル
クロードが続いていたという感傷」→いいですね。私も兵馬俑坑とともに行きた
い。
万里の長城で北を眺め、あの果てからモンゴルの騎馬が湧くように来たんだと感
慨にふけったことを思い出しました。

25 西安 2 Date:3/1/2002-Fri-6:06:15-PM 

西安の続き

西安から兵馬俑坑に向かう途中に「華清池」という温泉地がある。いかにも温泉地といった賑わい、開放感のある観光地である。
唐の玄宗皇帝と楊貴妃ゆかりの皇帝の別荘地だったところ。

白居易は「長恨歌」で

「後宮の佳麗三千人 三千の寵愛一身に在り」
「春寒うして浴を賜う華清の池 温泉水滑らかにして凝脂を洗う」

と歌った。

高校の漢文で「凝脂」が楊貴妃の白い滑らかな肌を意味すると習ったが、文字から言えば固まった脂だろう。これを白い滑らかな肌と取る中国人はさすが違うと感心したっけ。

華清池に最初に行った時、端っこの方に古い浴場の跡が見つかったと発掘を始めていた。その数年後に行った時は、違う場所を楊貴妃ゆかりの浴場跡だと言っていた。また数年後に行ったら、今度は真ん中の一番目立つ場所に大きな公衆浴場みたいな建物を建て楊貴妃の浴場を復元したと案内していた。

中国人とインド人は平気で遺跡を造る。

楊貴妃と言えば世界三大美人と言われるが、もう一人がクレオパトラだとして3人目は誰かご存じですか?

小野の小町だという説もあるが、まさか。

国によって違うのかも。アメリカだとマリリン・モンローか?

どうして世界三大とか日本三大とか言うときに2つ目まではみんな納得するが、3つ目が分からなかったり、争いになるのだろう。

日本三大「大仏」がなんだか分かります?奈良、鎌倉の次は?鎌ヶ谷じゃないよ。


30 敦煌 Date:3/31/2002-Sun-4:55:02-PM 

シルクロードの要。砂漠の中のオアシス都市。元の名は「沙州」。

歴史上多くの民族の支配を受けてはいるが、主としては漢民族の支配地域の最西端の地。
住んでいる人も中国人の顔をしている。

莫高窟という石窟寺院で有名。世界中から観光客が押し掛けるようになった。莫高窟について何かを書こうとすると私の能力を遙かに超える。やはり一度は見て貰いたい。

砂漠の切り立った岸壁に500近い石窟が1000年に亘って掘られ、多くが寺院になっている。入口は狭いが中は広く、空間が掘って作り出されてる。空間ばかりでなく、柱も堀り残され、仏像すらも掘り残されて造形されているものもある。

内部は壁面も天井も極彩色の壁画が描かれている。今でも色が残っている。

20世紀の始めに発見されていくつかの仏像が運び出され、壁画の一部が剥がされて海外に流出したものの、それはごく一部である。

描かれた飛天という天女は美しくシンボルになっている。

観光で3時間程度では良いところ、あるいは有名なところだけ20窟くらいしか見ることは出来ないが、それでも夢を見ているようでどれがどれだか覚えきれない。

圧倒されてそれ以上は見る気も起きなくなる。

そのまんま美術館と言って良い。

昔、井上靖の小説「敦煌」を読んだ。
隊商に加わった主人公が砂漠の中で野営していると、深夜、遠くを人馬の大集団が移動する音で目が覚まされ、何百、何千の大騎馬隊が大河の流れのように移動するのを目にする、翌日もやはり軍馬のおびただしいいななきと馬蹄の響きを聞き、隊商が大規模な戦闘に巻き込まれていくという場面があった。

又、西夏の漢人部隊に捕らわれ兵隊にさせられた主人公が、ウイグルとの双方数十万人規模の戦闘に参加する場面もあり、小説を読んでいるだけで興奮したものだった。

この小説は、その後、日中協力で映画化された。西田敏行、佐藤浩市、渡瀬恒彦が出演した。10万人の中国人民解放軍の協力とうたい文句にあったので期待して出かけた。確かに多くの兵隊が出ていたが、本物の砂漠は余りに大きく数万人でもスカスカだったのでガッカリした。

この時に撮影用に作った城のセットが残されていて観光名所になっている。まあ京都太秦の東映撮影村あるいは日光江戸村みたいなものだが規模は大きい。城そのものである。

敦煌から80キロくらい離れたところに「陽関」という関所跡がある。敦煌からバスで2時間くらいかかる。この間砂漠しかなく、蜃気楼がそこら中で見える。

王維の詩、「君にすすむさらにつくせ一杯の酒 西のかた陽関を出ずれば故人無からん」と読まれた所。故人とは知っている人とのことだが、陽関自体とんでもない場所で陽関を出なくとも知っている人なんかいるわけがない。王維が現地を全く知らずに詩を作ったことが分かる。

井上靖も現地を知らずに書いたそうだ。その頃はここまで外国人はおろか中国人も容易には入れなかった。

今は東京から西安に直行便があり、西安から敦煌まではジェット機(エアバス)が飛んでいる。

考えるだけでもう一度行きたくなってきた。


31 トルファン Date:4/7/2002-Sun-5:20:29-PM 

トルファンに入るには、まず北京からウルムチまで飛行機に乗る。約4時間かかる。

我々の乗った飛行機は旧ソ連製の古いイリューシンで、乗っていて機体がガタガタ音がしたり、暑い空気がイスの下の方から流れて来たり、急に冷たい風に変わったりする不気味な飛行機だった。

日本に帰って1ヶ月もしないうちに北京発ウルムチ行きの旅客機が墜落したと新聞で報道されていた。旅の仲間は、「落ちましたねー。あの飛行機でしょう」と話し合った。

ウルムチからトルファンまではバスで砂漠の中の一本道を4、5時間走る。

砂漠の中で立ち小便をするときは予め風向きに気を配る必要がある。突然吹いてきて自分のものをあびてしまう。でも大丈夫。直ぐに乾く。

トルファンは昔、高昌国のあった玄奘三蔵ゆかりの土地。
天山山脈のふもとのオアシスの町。いかにもオアシスの風情溢れ、気持ちが和む。

高昌国の城跡がそのまま残っていたり、孫悟空が鉄扇公主や牛魔王と戦った火焔山という真っ赤な岩山等がある。

住んでいる人はウイグル人で漢人の姿は少ない。

漢、唐の時代、長安の都で紅毛碧眼の美女が舞う胡旋舞が人々の目を楽しませたと伝えられるが、これが残っていて観光客向けのショウーとなっている。

トルファンの博物館を見学した。

土地の文化財等を見ているうちに、2階の片隅の方から何か異様な気が漂ってきた。私は、気だとか霊だとかには鈍感な方だが、この時は明らかにおかしな感じがしている。

行ってみるとミイラの展示室。かなり広い部屋にショーケースに入れられたミイラがゴロゴロしている。昔、NHKのテレビで見た羽根飾りをした若い女性のミイラもある。局部だけをガーゼで覆い、裸で寝ている。

トルファンにはアスターナ古墳という古い墓があり、ここにもミイラがいる。

非常に暑い所だから死体を地中に埋めれば簡単にミイラになるのだろう。べつに珍しくも無いのかも。

瞬間乾燥だから肌がつやつやしている。勿論黒ずんではいるがまだ弾力が残っていそうで指で押せばへこむような感じがする。

この点エジプトのミイラは薬品を使いさんざん加工した産物だから新鮮さがない。

ラムセス2世だののミイラもひからびていて、こんなの生き返るわけはないと思えるが、トルファンの方は直ぐにでも立ち上がりそうでとてもコワイ。途中で気持ち悪くなり部屋を出た。


43 北京 2 Date:8/3/2002-Sat-6:32:34-PM

北京観光は歩きが勝負。何と言っても広大な中国の首都だから広い。

天安門広場は世界最大の広場と言われる。紅衛兵が広場を埋め尽くしたのは僕らが高校生の頃か。100万人の集会がひらける。広場の下に様々な仕掛けがあることは天安門事件で知られた。トイレも簡単に表れる。

天安門事件の後に夜広場に行ったことがある。うす暗い広場に警察官が所々に立っているだけで他にはダーレモ居なかった。あまりの不気味さに、このままでは不審な人物として誰何されるかと畏れて早々に立ち去った。

この広場は散歩には適さない。広いだけでおもしろくはない。観光客はこの広場の端っこで故宮の天安門をバックに写真を撮る。

天安門から故宮に入る。紫禁城。
南北の直線距離は1キロメートル。これを右に左に上に下に歩き、時に立ち止まり、そして又歩く。2時間以上。
建物はどれもこれも大きい。さすがにエンペラーの住まいだけある。これに比べると当たり前だが京都の御所は質素である。奈良東大寺の大仏殿が木造では世界最大だそうだが。故宮の建物は数が違う。

故宮の北門を出て景山という裏山に登る。この頂上からの故宮の建物の様子が観光ポスターとなっている。紅色の瓦の甍が並んでいる定番ポスター。

たいした山ではなくただの丘だが、運動不足のおじさんには応える。

ここで暫くバスに乗り、休憩。

次は明の十三陵。明代の皇帝のお墓。墓と言っても墓石が並んでいるという安直なものではなくそれぞれがどでかい石の地下宮殿のような陵。見物は一つで充分。

これも参道だけで1キロ。地下に降りて地上に出てくるだけで疲労困憊。

そして目玉の万里の長城に辿り着く。バスの窓から長城が山肌にうねっているのを見るとたしかに龍のように見え感激する。

英語では、The Great Wall of China。中国の大きい壁。

長城の観光名所の一つ八達嶺は北京から約70キロ。この部分は明代に作られたもので長城の中では新しい。といっても元のままではなく改修されている。

今、中国で万里の長城の保存が問題となっている。何せ古い物だし人里離れた山とか砂漠の中が多いし、人里近いと人が煉瓦を盗んで自分の家の建築用材に使ってしまうので崩壊が近い。

八達嶺の城門から左右に分かれていて右は傾斜が緩く、左はきつく距離も長い。日本だと男坂、女坂とでも名付けるのだが。

最初に行ったときはまだ若かったので左を上った。決行急で息が上がる。眺めは良い。雄大。2回目は八達嶺ではなく、別のボテンヨクという場所でここにはケーブルカーがあり楽勝。3回目に八達嶺に戻ったが、年も取ったので右側。但し、途中で疲れて試合放棄してしまった。

この他、北京の観光地はどこも広い。

歩き疲れてホテルで熟睡していると突然足が攣って目が覚めた。


46 桂林 Date:8/17/2002-Sat-2:43:25-PM

キンモクセイ(桂花)の街、桂林。山水画の様な景色が有名。

飛行機が桂林空港に着陸し、滑走路を走っていたとき、窓の外を見て驚いた。あの例の岩山が所々に見える。街中、あの岩山だらけ。

要するにあたりの土壌が石灰質。だから地上は岩山、地下は鍾乳洞。

リコウという河の船くだり。コマーシャルフィルムでおなじみ。3時間はかかる。

山水画の世界そのもの。最初のうちは珍しいからみんな甲板に出て「うわー」とか「きれー」とか騒いでいるが、次から次へとつながっているのでそのうち飽きてきて船室で昼寝したり、おしゃべりとなる。

一番きれいな場所は見ないで通りすぎてしまう。


49 蘇州 Date:9/7/2002-Sat-4:28:56-PM

蘇州
戦中世代は蘇州に思い入れがある。

「蘇州夜曲」「李香蘭」とか。蘇州と聞くと妙に胸がうずくらしい。「イェーライシャン」なんてえのもか。「支那の夜」も。

このワープロは、「しな」は「支那」にそのまま転換しない。「支那そば」は使用が禁止され「中華そば」となってしまった。

ところで、蘇州は水の都。東洋のベニスと言われる。潮来、水郷だって東洋のベニスだ。

私は、本物のベニスに行ったことがないのだが、どこがベニスに似ているのだと本物のベニスが怒るのではなかろうか。薄汚い水がどよんとしている運河があるだけ。
(誰か私をベニス、ヴェネツィアに連れていって下さい。)

蘇州には梵鐘で有名な寒山寺という寺がある。見物に行ったら、案内人から「今日はこの寒山寺の住職さまが特別にお会い下され、書を一筆書いて下される」と言われ、焦った。特別謁見が無料なわけはない。当然貢ぎ物が暗に要求されるであろう。それに一筆なんか全然欲しくない。丁重にご辞退申し上げた。

ここの梵鐘は一突きすると寿命が1年延びるありがたい鐘だそうで、大晦日には日本から除夜の鐘を撞くツァー客が来る。でも実は日本製である。

その他、蘇州には留園、拙政園という中国四大名園の中の二つがある。

蘇州にはこんな物が見たくて行った訳ではなく、ただ上海までの汽車(火車)の旅がしたかっただけなのだ。


52 上海 Date:10/2/2002-Wed-4:11:28-PM

上海。

魔都と呼ばれている。泊まったホテルは「錦江飯店」。昔は、田中首相、ニクソン大統領等の国賓用の大ホテル。現在は、古ぼけた3流ホテルに成り下がっている。

ただ部屋の広さは半端じゃない。一部屋20坪は軽くある。歩き回るのがたいへん。外壁は石造りで重厚そのもの。

夕食後、オヤジ達が連れ立って散歩に出た。表口が改修中だったので裏口から出て脇道に出ると、ホテルの石造りの壁にATM、CDの機械がそのまま直に張り付けてある。回りの囲いもない。

場にそぐわない。中国で初めて道路上のATMの機械を見た。人通りも少ない脇道に一つだけぽつんと着いている。

「アレ?」「ン?」

他の外国でクレジットカードの事故に遭い大損した仲間の一人が、懲りずに、試してみるかとクレジットカードを入れ現金を引き出した。おかしいところもなく中国元が出てきた。もう一人も丁度元が切れていたと両替がてらに引き出した。たいした時間はかからない。

気が付くと街のお嬢さん方がワラワラ湧いてきていた。
「ニホンノカタデスカー?」「ドコヘイクノデスカー?」

どうもあのATMの機械は見せかけだけで中に中国婆が居て、手動で「ガッチャーン」とクレジットカードの操作をしつつ、連絡ボタンを押して「スケベな日本のオヤジがホテルから出て来たぞー」と知らせていたような気がする。

上海は魔都だ。


63 香港 Date:12/14/2002-Sat-11:57:46-AM

香港カーブ
飛行機は離陸するのも着陸するのも風に向う。揚力を得るためであり、ブレーキをかけるためである。

夏の南風と冬の北風とでは離着陸の方向が異なる。成田では、夏は南風なので九十九里海岸に向かって飛び立ち、霞ヶ浦から成田に入って着陸する。冬は北風なので逆に霞ヶ浦に向かって飛び立ち、九十九里海岸方向から着陸する。

真珠湾攻撃の際も航空母艦は風に向かい全速前進して艦上爆撃機等の発艦を助けた。海岸に近いと浜風と陸風が吹き、その風向きによって方向が変わる。

さて、昔、香港の国際空港が九龍の啓徳にあった頃、この空港の着陸は世界一難しいと言われていた。
啓徳空港はビクトリア湾に桟橋を突き出したように埋め立てられた滑走路が1本あるだけの空港で、風が北側の陸風の時は南シナ海から真っ直ぐに降りられる。この場合は何の問題もない。モウマンタイ。

風が南風で浜風の時は一端中国大陸の九龍半島に出て市街地の上を約270度旋回して着陸しなければならない。機内では、香港に近づくと徐々に高度が下げられ、右手の窓に香港島、ビクトリア・ピークがいっぱいに広がる。ここで機体が右急旋回しだし、左の窓は空しか見えなくなる。逆に右側の窓からはビクトリア湾を航行する客船、貨物船、フェリーが手に取るように見えだし、九龍のビルの屋上までが、それ以上に屋上のタンクや洗濯物までが間近に見える。45度まで傾いている訳はないが30度は超えているだろう。「ウワー!危ない!ぶつかる!」と思わず座席に座ったまま両足を上げてしまう。機体が水平に戻った途端にガアーンと着地してゴーと逆噴射がかかり身体にGがくる。手に汗を握る。

これが香港カーブ。

離陸の時はこんなに劇的ではない。

香港に行くときはこれが楽しみだった。香港に旅行するときでなくとも南回りの航空便は香港経由が多かった。これが無くなってしまい至極残念である。


伊藤三平 Subject:香港のおもしろい話 Date:11/2/2002-Sat-11:56:25-AM
香港の通訳の人が、ユーモアがあっておもしろかった。その話をご紹介。

●「日本の回転寿司も多いね」「はい、多いです。でも香港の回転寿司、行かない方がいい。出して売れないと引っ込めて翌日に回転させます。だから食
 べるとお腹が回転です。」

●「香港の夜景は百万ドルの夜景と言われています。でも今日は霧が少し出てます。そして日曜日だからオフィスに灯りがなくきれいではありません。
 70万ドルくらいです」

●「この裏の波止場は暗くて、夜景がきれいに見えるロマンチックな場所です。私も結婚前によく行きました。でも結婚してからは行きません。あなたがた
 と同じです。」

●「看板が道路の上にまで出ていて、すごいね」「香港では看板はお金さえ出せばいくらでも出せます。2階建てのバスの高さ以上の7bの上ならかまい
 ません。香港の人は台風の時は外にでません。看板がほうぼうから落ちてきて怖いです。これ本当の話。」

●「超高層でも竹で足場を組んでいくんだね。大丈夫なのかね。」「大丈夫です。暑い時は竹の方が熱くならなくていいです。足場を組むことを教える学
 校があります。でも安全ベルトなんかしないから毎年4〜5人死んでいます。この竹は四川省から輸入します。パンダが食べた残りね。」
 →竹の足場は遅れているわけだけではなく、理由があるんだ。

●「中国は鳥がいないね。食べちゃうのかね」「はい、少ないです。鳩は食べます。犬猫は15年前くらいから食べると反則になりました。」
 →本当に広州でも深センでも町中で鳥を見ない。ビクトリアピークで鳶みたいのを見たくらい。

●「あそこに人がたくさん並んでいるのは何?」「あれは病院です。公共の病院です。民間の病院だと料金が10倍になるから並んで待ってます。待っている
 間に何人か死にます。」

64 香港 2 Date:12/17/2002-Tue-6:04:50-PM 

クリスマス・イルミネーション
クリスマスも近づき、寂しいおじさんにはつらい季節となりました。街にはクリスマス・イルミネーションが輝いています。

さて、世界三大夜景というと香港、ナポリ、函館と言われているようです。

前にも書きましたが、世界三大なんとか、日本三大なんとか、と言うと2つまではみんなを納得させるものだが最後の1つがもめる。この世界三大夜景も3番目の函館は世界中の人の納得を得られるのでしょうか?
アメリカ人はニューヨーク、マンハッタンの夜景こそと言い出すのでは。

今日は香港の話の続き。
香港の夜景が素晴らしいのは伊藤三平さんの書き込みにもありました。確かに100万ドルと言われるはず。

通常の夜景はビクトリアピークという香港島の山頂から見るのが定番で特に雨上がりの時等は街が輝いて見える。

だが、冬の間は違う。この香港では12月に入るとクリスマス・イルミネーションが取り付けられ、旧正月まで続く。ビクトリア湾に面した高層ビルが壁一面をカンバスにしてイルミネーションとしてしまう。日本でも高層ビルのホテルが時々一時的にやるが、ここでは隣り合わせた街中のビルにイルミネーションを付けてしまい、約3ヶ月近く続く。だからものすごい規模で豪華きわまりない。電気代もすごいと心配する。

このビル群を九龍側からビクトリア湾越に見るのが最高で観光の目玉の一つとなっている。

この季節は150万ドルと称しても良いくらいだと思える。


75 韓国 Date:3/2/2003-Sun-4:29:58-PM 

昨年秋、初めて韓国に旅行した。私にとっては一番近くて一番遠い国。今まで全く行く気がしなかった。

第1、楽しくなさそう。
嫌日感情が強そう。別に親日感情がなくとも構わないが嫌日では行く気がしない。私は憶病だし、妙な重荷を背負ってまで旅行する気にならない。

第2、見るところもなさそう。
確かに世界遺産はあるが、中国に比べて少ないし、価値もそれ程でもなさそう。

第3、変に誤解されるのもしゃくだ。
昔から韓国とか台湾に行くぞというと、あれが目的だと思われる。人前で韓国へ行くなど話せない。最近は変わってきたが。

第4、韓国クラブが好きな奴が身近に多く、付き合いで一緒に行かねばならないことがある。これが実に窮屈でつまらない。

昔から不思議と韓国クラブ派とフィリピン・パブ派に分かれていて両方好きだという人はまずいない。どちらも大声で話せる話題ではない。最近は本国の政策のためにフィリピン・パブがほとんど絶滅した。残るは韓国クラブ。ロシアだの、アルゼンチン、はてはインドネシア、タイ等々まであるが勢力は韓国がダントツである。

行くとお嬢さんが「あれ飲め」「これ食べろ」「歌え」「踊れ」と強制する。断ると必ず「何故、貴方はノマナイノデスカー!」「何故、タベナイノデスカー!!」「ドウシテデスカー!!!」とうるさい。どうしてこんなに気の強い女ばかりなんだと感心する。しょうがないから飲みたくもない酒を飲んで、食べたくもない海苔を食べて、歌いたくもないカラオケを歌って、踊りたくもないダンスを踊る。これが平和を保つコツだと分かる。

「過去を謝れ!」「何故、謝らない!」「誠意がない!」と怒鳴りつけられ、仕方ないからペコペコしてるが、いい加減うんざりしている国と同じ。危ない発言になってしまった。

韓国の男も苦労しているのじゃなかろうか。儒教の国だからとか言う人がいるけどどうなんですかね。きっと韓国の男も男尊女卑だなんておだてられてるけど実際は言われるがまま尻に敷かれているのではないかと思いますよ。

ところが好きな人は好きなんですよ。喜んで言いなりになってフニャフニャになっている。それに値段も馬鹿に高いのです。ヤダヤダ。

そんなわけで韓国に行ったことがなかった。

ところが去年まで1年間ある団体の幹事をしていて、その職が終わったので幹事仲間8人で慰労旅行に行こうとなった。私は「いいですねー」「熱海なんかいいですよ」「鴨川の鴨川館の露天風呂もなかなかですよ」と提案したが、私以外全員「韓国がいいねー」でニヤニヤ笑って直ぐに結論が出た。

なんだ、このニヤニヤは。中年以上のオヤジが8人揃って韓国へ。おまけに添乗員が付いて行くんだって。おかしいでしょう?あれでしょう?それしか考えられないでしょう?

まだそんな世界があるのかとお思いですか?こんな世の中でまだそんなことやっているのか?と信じられない気持ちしません?結局世界遺産を見に釜山・慶州2泊3日の旅行となった。本当の目的は何なんだと仲間が信じることが出来ずに、こうなりゃせがれ連れって行っちゃおうと大学生の長男連れて行った。いざというときに断る口実、人間の楯だ。

いつものように前置きが長くなりました。釜山と慶州に行って来ました。

慶州では世界遺産の仏国寺を見ました。創建は6世紀であり、石造物は古いままだが建物は18世紀に入って再建されたとのこと。韓国では古い木造建築は全く残ってなく、17世紀以降の物ばかりだそうだ。理由は、豊臣秀吉の文禄の役で国中が焼き尽くされ、木造建築は全て焼かれて無くなったということです。

日本では文禄の役というが韓国では「壬辰倭乱」と呼んでいる。倭乱という方が適当な気がする。そーかー。それでいつまでも怒っているのかー。そりゃー無理ないわ。

古くは百済、任那の時代の侵略(これはさほどでもなかったらしい)、倭寇、秀吉の壬辰倭乱、日帝支配36年。司馬遼太郎氏に言わせると、韓国は儒教思想にどっぷり浸かっているので世界の中心である華の中国の支配には文句は言えないが、自分より下の東の果ての野蛮国「東夷」日本をいつも馬鹿にしているのに時々攻められ負けてしまうことはどうしても許せることではない、ということらしい。そうかもしれない。

言い過ぎか。また怒られる。「謝れ!」「ハイ。ごめんなさい」
だからいつも鬱屈してイジイジしているから爆発すると我を忘れるのか。突然キレル。

いつも唐辛子の入った辛い物を食べているのも一因ではないだろうか。仲間喧嘩ばかりしていて外に対して団結できない。突然キレルのは日本も同じか。

ところでノ・ムヒョン新大統領。就任、おめでとうございます。
突然の北の祝砲には世界中ビックリしました。まさか隣の宿敵、北朝鮮までもが祝ってくれるとは思っていませんでしたので。先の大統領選では笑わせて貰いました。

選挙は与党新千年民主党のノ・ムヒョン候補と野党ハンナラ党のイ・フェチェン候補の対決でした。問題はノ・ムヒョン候補と協定を結び支持していたチョン・モンジュン元候補が投票日の前夜に支持を撤回したことです。理由は、ノ・ムヒョン候補が大統領に当選した場合に次の大統領としてチョン・モンジュン候補を指名してくれるものと期待していたチョン・モンジュン候補が、選挙前日の街頭演説で「君はまだ早い」と言われたことに腹を立て、その夜焼酎をがぶ飲みして酔っぱらい、酔った勢いで記者達に支持は止めたと発言したことが大きく取り上げられ、公表されたと言うことのようです。

本人は後日謝り、反省していると述べていました。これには韓国人の気質がよーく表れていると大笑いしました。このチョン・モンジュンさんは韓国サッカー協会の会長でワールドカップ成功の立て役者、それで大統領候補にまでなった人です。財閥出身だそうです。

こんなもんだよ。きっと民族の気質と体育会系の気質と坊ちゃん気質の3乗効果だろうな。


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